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第二十六話 立ち昇る星(二)

 真っ暗な暗闇の中、光の粒、記憶の破片が、明星めいせいの体を貫通するようにすり抜けていった。


 目の前に、光の渦が巻いていた。光が明星を抜けていくのか、自分がその中へ飲まれていくのか、分からなかった。

 ただ、渦が明星の体を勢いよく飲み込みはじめた。


 肩に手を乗せた女が、後ろから小さく、強く言葉を放った。


「光が終わったら、目を開けて。私たちが今から見るのは、この大虚に残った記憶。干渉することはできない。ただ、何があったかを見届けて。あなたが何なのか。私たちがどうしたのか。あなた自身が決断を下すために、何があったかを必ずその目に焼き付けて」


 女の言葉が終わると同時に、閃光が走った。


 目を開けられなかった。光が、目を開けることを許さなかった。

 閉じた瞼の先、静かに、閃光が消えた。


 ゆっくりと、明星が目を開けた。


 真っ暗な、嵐の夜だった。

 空に浮かぶ中、眼下に大量の、その威厳をすべて失った崩れた都の建物が広がっていた。


 雷鳴が鳴った。豪雨の中、遠い地面を、何かが這いずり回っていた。

 あまりに大きく黒い巨大な何か。


 虚が。そのいばらのような触手の先で、赤黒い肉の塊を貫きながら覆うように崩れた宮中をうごめいていた。











 叩きつける雨の中、何一つ視界のない道を早馬が駆けていた。


 三頭いたはずの替えの馬は、すでにこの一頭のみを残し消えた。ぬかるんだ土をひづめが噛まず、曲がり角で馬が転び使い物にならなくなった。


 前方の空で、稲光ではない光が上がった。赤い小さな、それでいて強い光が、いくつも弾けるように空に打ち上がった。


 照明弾だ。


 地上、宮中にある兵部から打ち上げられた、激しく光る熱の玉。雷雨の中であっても強い光を放ち、はるか上空に到達する。打ち上げられた後、周りを照らし、焼き焦がしながら緩やかに落ちていく。


 実際に使われるのを見たのは、太白たいはくにとっても初めてのことだった。


 馬のひづめの音が、ぬかるみから固い石を叩く音に変わった。都に入った証拠だ。耐えきった。自分の体力ではない。耐えきったのは馬だ。


 光で照らされた道の先、怒号と共に人波が逆流してきていた。馬で突っ切るのは不可能だった。飛び降りる勢いで馬を乗り捨て、雨に濡れた道を人波をかき分けながら走った。

 頭につけた冠はすでになかった。今日ほど顔に張り付く白く長い髪を切り捨てたいと思った日はなかった。


 さらなる照明弾が打ち上げられていた。はるか空の上で炸裂し、あたりを照らし出す。


 雨雲に反射した光が、一帯の夜を昼に変えていた。

 一か所だけ、何一つ照らし出されない、黒く塗りつぶされたような箇所があった。


 大虚だった。見たことのない大きさの、黒くいびつな形をした塊がそびえたっていた。何百もの民家を覆う、建物の数倍はある高さの真っ黒な塊。


 甲高い、金切り声のような音が大気に響いた。


 聞いたことのない音だった。

 遠く、真っ黒にそびえたついびつな塊を中心に、空を突き刺すほどのとげが、地面から一瞬で生えた。まるで薄い紙風船を突き刺すよう、築き上げた建物を打ち上げていく。

 自重で崩れ行く建物の残りに小さな、赤い花の染みの様なものがいくつも咲いていた。


 人間だった。真っ黒なとげの先、こびりついた赤黒いこぶが、とげが再び黒い本体に収まると同時に、一瞬で吸い込まれて消えた。


 走る足を一層早めた。馬を飲み込むほどの人波は消えていた。目の前に現れた背の高い朱色の門。この門をくぐれば大虚の元へ続く道に出る。


 巨大な門の中、人が溜まっていた。

 群れだった。なぜか人が、大量に、こちらを向いたまま、門の中で何かに阻まれるかのようにうごめいていた。


「どいてくれ!」


 太白が叫んだ。密集した人波で、門が通れるとは思えなかった。


「助けてくれ!」


 門の先、大量に集まっていた人が口々に叫んだ。他の人間を圧し合うように伸ばした手のひらが、人間の隙間からつぶれるようにこちらを覗いていた。


 背筋が、凍りそうになった。

 叩きつける雨の中、空間へ伸ばした手が、雨でぬれた門に触れることができず、手前で何かに当たり止まった。


 見えない壁だった。門の中と外を、見えない壁が阻んでいた。


 反射的に印を切った。


 太白の周りに、青白い光る刃がいくつも出現した。


「離れろ!」


 叫んだ太白の前、門の中に密集し向かい合った男が一瞬のけぞるような表情を見せた。だが動けなかった。人波で押されたまま、誰一人身動きを取りようがなかった。


 青白い刃が、人にあらたぬよう人波を越えた頭上を薙いだ。切りつけたはずの箇所が青白く光る。

 無駄だった。切りつけた刃ごと、壁に溶けるように飲み込まれ、何もなくなっただけだった。


「太白殿!」


 振り向いた先、兵部の制服を着た手甲をつけた男たちいた。ずぶ濡れの中、太白の元へ走り寄ってきていた。


「結界が発動しています! 早くこの場から離れてください!」

「結界?」


 見えない壁、門の向こう、人の群れのように体を押し付ける人々が苦悶の表情でこちらを見ていた。


 印を結び、太白が地面に手を叩きつけた。


 一瞬の光の後、強い爆発のようなものが地面を消し飛ばした。


 何も起きなかった。えぐれた地面の先、門の中で、何かがやはり壁のように覆い守っていた。見えない地面すら、えぐれた先には何もなかったかのように段差が出来上がっただけだった。


 激しく呼吸を繰り返しながら、太白が振り向いた。


「お前たちは戻れ。俺はやることがある」

「命令が出ています!」

「関係ないんだ!」


 太白が叫んだ。


「妻と息子がいるんだ! 納得なんかできるか!」

「俺だって納得なんかしてませんよ!」


 門から叫び声が上がった。


 見たことのない大きさだった。

 振り向いた太白の前、見えない壁の向こう、真っ黒な太い蛇のようなものが一瞬で押し寄せてきた。


 反射的に身を伏せた。

 無意味だった。目の前の見えない壁に、真っ黒い太い触手がぶち当たり、自身の勢いで圧し潰れるように広がっていた。

 見えない壁越しに、弾けた肉片と、赤黒い液体が貼り付いていた。


 人で押し寄せていた門の中を、真っ黒な触手が小豆あずきをつぶすように掴み取った。無数の人間を咥えたまま、一瞬ではるか遠くまで叫び声とともに吸われるように引き戻っていた。


 半狂乱のような声がひしめいていた。見えない壁の向こう、貼り付いた黄色い肉片と赤黒い血がゆっくりと零れ落ちる中、黒く太い触手がさらに人間を踊るように食い続けていた。


 印を切った。

 太白の背に、一太刀の巨大な刃が現れた。叩きつけるように門へ打ち下ろす。何も意味はなかった。何度も刃を出す。無意味だった。先ほどと同じように、溶けるように壁に吸い込まれただけで、中からの叫び声は容赦なく続いた。


 乱れる呼吸の中、誰が言ったのかわからない言葉が過ぎった。


 —— 虚は、人を食べ終わるまで動きを止めない ——


 兵部は、この虚が宮中、天子のおわす光城に届く前に。ここで人を満ちるまで食らわせ黒結晶にするつもりなのだ。大虚の動きを止めるための結界ではなく、中の人間を逃がさないための結界。兵部が保管するわずかばかりの黒結晶、その魂魄を使ってやることは、大虚を殺すためではなく人間の「檻」を作るために使ったのだ。


 両の手、生身のこぶしで門をたたいた。見えない壁が太白の手をはじいた。


 花火が登る。遠くまで届く音が響いた。

 追加で上がった照明弾が、大虚を取り囲むよう、半円形の見えない壁を薄く照らし出していた。


 視線の先、遠く、突き上がるように生えた大虚の先端へ、青白い光をまとった何かが突っ込んでいくのが見えた。


 大虚の触手が、動いた。

 自分へ向かう、敵意を秘めた光を食らうよう、大虚から黒い触手が何本も伸びた。青白い光が、真っ黒な触手を切り裂くようにえぐっていく。何度も伸びる黒い触手を弾き飛ばしながら、青白い光をまとった何かが大虚の先端へ降りるように着陸するのが見えた。


「やめろ!」


 太白が叫んでいた。


 青白い光が、天を刺すように伸びていた大虚の先端に触れるように灯った。ゆっくりと、先端の青白い光が、大虚を浸食するように広がっていく。


 太白が声にならない叫びをあげていた。


 青白い光が、ゆっくりと、あまりにも巨大な大虚を包み終えた。


 瞬間、真っ白に弾けた。

 閃光が、門を内側から砕いた。







「天狐の術師、作業が進んでいないらしい」


 小さな中庭を挟み、部屋を隔てた奥、日の当たらない陰から小さな声が聞こえた。


 歩いていた望天ぼうてんの足が止まった。

 無意識に、廊下の壁を背につけたまま、息を殺した。


 小さな声が続いた。


「あの規模の虚、飛散したものを集めきるのは困難なのか?」

「わからん。だが、おそらくはそういう理由ではないだろう」

「やはり妻子を失ったのが大きいのでは?」

「しかし、あの作業はあれにしかできん」


「望天殿!」


 遠く廊下から、自身を呼ぶ大声がした。


 吹き抜けの廊下の奥から、手甲をつけた若い男が走り寄ってきた。


 思わず顔をしかめた。先ほどまで聞こえていた奥からの声は、気配と共にもう聞こえなくなっていた。


 走ってきた若い男が、望天の前で息を切らせながらしばらく呼吸を繰り返していた。


「なんだ」


 一瞬、若い男がひるんだような表情になった。


 失敗したと思った。

 思わず、声にあからさまに感情が出ていた。


 頭を掻きながら、意識して間延びした声に変えた。


「悪い。何か用か」

「命令書が出ています」

「命令書?」


 望天の声に、若い男が、懐から小さな紙を取り出した。


 手渡された書面を手元で広げた。


 瞬間、頭に血が上るのを感じた。


 休暇命令だった。


 妹——夕星ゆうせいの死に伴い、復帰命令あるまで休暇を命ずる。


 思わず書類を握る手に力が入った。


 冷静に、ゆっくりと折り畳み、懐にしまった。


 軽くうなずき、若い男の肩に軽く手を当て、廊下を歩きだした。


 なぜこうなったのか。どうしてこんなことになってしまったのか。

 行かなければならない。どうせ遺体はない。妹と甥の葬儀はこの混乱が収まった後でいい。








 晴れていた。


 昨日までの雷雨が嘘のように雲一つなかった。


 大虚が消し飛んだ宮中、砕け散った建物の残骸の中、手甲をつけた兵部の人間が幾人か残り作業を続けていた。


 一段、高いがれきの中、白髪の男が座り込んでいた。


「太白」


 遠く、がれきのすそから声が上がった。


 望天だった。

 凍り付いたような表情の望天が、がれきの上に座る太白めがけて声を叫んでいた。


 声をかけられた男が、ゆっくりと、目だけで振り向いた。冠もつけず、結われていない髪が吹き抜ける風で散るように舞っていた。


 異様だった。

 あまりの異様さに、望天が続く言葉を出すことができなかった。


 死んだような男の表情が異様なのではなかった。


 その周りを広範囲に飛び交う、立ち昇るように渦を巻く黒いもやが、あまりにも異様だった。


 走り寄った望天が、思わずひるむようなうめきを上げた。

 男の姿を見て、小さく声をひりだした。


「何だそれは——」


 座り込む太白の手元に、青白い炎を放つ、小さな黒曜石のようなものが握られていた。


「黒結晶だ」


 太白がゆっくりと口を開いた。


「夕星の魂魄を飲み込んでいる。だが明星めいせいの魂魄が見つからん」

「夕星と明星の魂魄……?」


 太白が、ゆっくりと座ったまま手を伸ばした。


 太白を取り巻いていた渦を巻く黒いもやが、手のひらへ集約されるように踊り始めた。


「いろんな魂魄と混濁して、どれがどれだかわからん」

「お前、何を考えて——」

「夕星の書き置きを読んだ」


 太白が、望天の言葉を遮り言葉を続けた。


「明星が虚に飲まれた直後、自分が黒結晶の核になることを決めたそうだ。飲まれてしまった明星の魂魄ごと、強引に大虚を結晶化し虚を止める——。

 決心が鈍るからと書いてあったよ。直接話ができなかったことへの詫びが入ってた。そんな、詫びなんて、どうでもいいのになぁ。書き置きを残すくらいなら、何もしなければよかったんだ。こんな、なぁ」


 太白から、自嘲するかのような笑いが漏れた。


 乾いた笑いが、晴天の中しばらく続いた。


 沈黙の後、望天が、思わず太白の胸倉をつかんでいた。座り込んでいた太白を、両の手で頭の高さまで引きずり上げていた。


「お前……! 大虚が出たとき、お前は一体どこで何をやってたんだ……!」


「何もできなかったよ」


 つぶやくように太白が答えた。


「何もできなかった。天狐の契約者? 馬鹿馬鹿しい。結界一つ叩き割ることすらできなかった。目の前で夕星が自爆するのを見届けてしまったよ」

「お前……!」


 望天が太白をつかむ両の手に力を入れた。胸倉ごと、太白を地面へ投げつけた。


 あまりに体格の違う太白の体が、がれきをなぎ倒すように吹き飛び地面を擦っていった。


 望天が、何度も呼吸を繰り返していた。頭にのぼった血を、何としてでも落ち着かせる、そんな祈りのような呼吸が続いていた。


 ゆっくりと体を起こす太白の前、望天が地面に転がるがれきに手甲を突き刺した。


「……畜生……ッ!」


 望天から、押し殺すような声が出た。


 太白が口を拭いながら起き上がった。

 ゆっくりと、足元に転がる小さな黒曜石のような石を拾い、静かに口を開いた。


「悪い。しばらく一人にしてくれないか」


 黒曜石を握る太白の周り、再び黒いもやが集まり始めた。


 異様な目をしていた。

 何かにとりつかれたような目。


 望天の表情が、怒りから不安へと変わっていった。


「お前……」


 言葉が、乾いた口からうまく出てこなかった。


「何か、変なことを考えてないだろうな」


 絞り出すような望天の言葉に、太白が、静かに、困ったように小さく笑った。


「生かされた身だ。俺は、俺のやれることをやる」


 望天を背に、太白が先程の瓦礫の山に座り直した。


「一人にさせてくれ。今は誰の顔も見たくないんだ。お前の顔も、誰も」


 座り込んだ太白が、再び渦のように巻く黒いもやのなかで、手を広げたまま動かなくなった。

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