番外編 チリオスタの嫉妬2
「チリオスタ殿下、お帰りなさいませ」
フレデリカは背筋を伸ばして模範的な礼をしてみせた。これで殿下の要望は満たしただろうかと不安に思いながら。
「フレデリカ」
「何でございましょう」
「私の名を呼べ」
「はい、チリオスタ殿下」
「殿下はいらぬ」
「チリオスタ様?」
何事にも動じないよう育てられてきたフレデリカだが、最近のチリオスタの奇行には正直動揺せずにはいられない。というか、心が動くのは基本的に夫であるチリオスタにだけなのだが。
今日も今日とて胸に浮かんだ疑問を言葉の端に少しだけ出してしまった。
しまった、と思い、また平静の仮面をかぶり直す。
「チリオスタと」
「そのように呼んで良いのは陛下とオリヴィア様だけでございます」
事実、この国の第一王子であるチリオスタを呼び捨てに出来るのは、生みの親の国王陛下夫妻のみだ。
「だがレオンとエレノアは互いに名を呼び合っているではないか」
「公的な場ではエレノア様も『レオン殿下』とお呼びかと」
「今は私的な場だろう。さぁ、呼べ」
フレデリカはチリオスタの従兄妹であり、根っからの王族。幼い頃からチリオスタの妃となるために育てられてきた。
そんな彼女にとって、第一王子をそのように呼び捨てるなど絶対に出来ないことだった。
フレデリカはメイドに視線を走らせ、沈黙のうちに人払いをした。私的な意見を述べるのを、自分のメイドとは言え他人に聞かれることに抵抗があったからだ。
部屋に二人だけになったのを見計らって、フレデリカは口を開いた。
「出来ません」
「なぜだ」
「私なりの矜持でございます」
王族に生まれた女として、「元」とは言え王太子であったチリオスタへの敬意は絶対のものであった。
「その話し方もだ。私はもっとお前と打ち解けたい」
「呼び方や言葉遣いを変えずとも、私はチリオスタ殿下をお慕い申しております」
二人の間に氷晶がピキピキと音を立てて形成されていくようだった。
「では命令だ」
「王子殿下からの正式な命令ならば従いますが、それは殿下の仰る『打ち解ける』とは真逆の行為ではございませんか?」
普段は自分の意見を口にしないフレデリカだが、元王太子妃というだけあって馬鹿ではない。チリオスタはそういう慎ましくも賢いフレデリカが妃に適当だと選んだのだが――こうなると意地である。
「ならば名前を呼ぶまで口は利かぬことにする」
今まで大抵のことは思い通りに事が運んだ。
政策も、人心も、レオンに王太子を譲ったのも想定通りだった。
なのになぜこんなにも簡単なことが成し得ないのか。
「拗ねていらっしゃるのですか?」
「……」
早速の無視である。
もちろん「拗ねる」という子どもっぽい評価について反論はしたかったが、一度自分が決めて言い出したこと。任務は完遂する。
チリオスタは話せない代わりに、フレデリカに近付きその身体をぎゅっと抱きしめた。
「で、殿下?」
「……」
心の中で「おやすみ」と言ってからチリオスタは部屋を出た。
***
翌日も公務が終わったチリオスタはフレデリカの部屋を訪れた。
まさか二日続けて、しかも昨日喧嘩別れのような感じで部屋を出て行ったので、来るとは思っていなかった。それでも姿勢と笑みを崩さずにチリオスタを出迎える。
「チリオスタ殿下、お越しいただきありがとうございます」
「……」
「お茶の準備をいたしますね」
「……」
チリオスタは黙ったまま、こくりと頷いた。
(その頷きは返事になっているのではないでしょうか……。あぁ、でも殿下は「口を利かない」と仰ったのですから、一応宣言は守られているのですね)
フレデリカはメイドにお茶の用意を指示すると、いつも腰掛けるカウチに並んで座った。
お茶の時間はひたすら無言だった。
そもそもフレデリカは自分からあれこれ話すことはしない。そしてそれが苦痛ではない。そこへチリオスタが黙ってしまったものだがら、話す人間が皆無なのである。
こくっとお茶が喉を通る音と、カップをソーサーに置く音だけがその場を支配する異様な空間だった。メイドたちも何か物音を出したら大変だと妙な緊張感に襲われる。決してそんなことはないし、物音が立ったところで誰も咎めはしないのだが。
お茶を飲み終えたチリオスタはじっとフレデリカを見た。フレデリカは顔が熱くなるのを感じながら、その目を見つめ返す。
チリオスタの顔がすっと近付き、互いに茶で湿った唇が合わさった。言葉を発しないその唇が「ちゅっ」と艶めかしく音を立てて離れた。
フレデリカは恥ずかしげに下を向き、また静寂が訪れた。
口は利かないものの、デレの隠しきれないチリオスタ……。




