第二章② 気弱姫のがんばり
昼になって、キルトは仕事だと言って家を抜け出し(本当に本来の仕事は昼からだったのである)、イルムガルドに言われたとおり、オスロー中央部にある自然公園へとやってきた。
しかし、意外にも呼び出した本人の姿はない。
あのローテ・ヴェヒターとかいう赤い肩甲冑をつけた近衛兵もほとんど見当たらない。それどころか、普通の人々すら誰もいない。
これでは自然どころか、極めて不自然な公園である。
これは何かあるなと、キルトは警戒しつつ噴水まで歩き、とりあえず、そばのベンチに座って待つことにした。
少しまえに正午は過ぎており、やや遅刻したことを咎められるかと思っていたが、一向にイルムガルドが現れる気配はない。
朝一でわざわざ強行策に出てきたのだから、まさかこのまま何もない、なんてことはないだろうが……。
と思いつつ、そうして待つこと数十分。さすがにキルトも我慢の限界を迎え、そろそろ帰ろうかと思っていた時だった。
「あ、あの……」
どこから現れたのか、キルトは見知らぬ女性に声をかけられた。
ささやかなオシャレこそしているが、ミニスカートの衣服は比較的質素。ぱっと見た感じ街娘っぽく、ちょっとオシャレなオスローの住人のように見えた。
ただ唯一、背のところで折り返して結んでいる長い金髪だけが、あまりにも綺麗でサラサラしてそうで、アンバランスである。
「はい? 何か?」
「……その、あの……」
キルトが答えると、女性は両手の指をひかえめに突き合せ、もじもじと言い淀んだ。
その仕草が、妙に引っかかった。確かどこかでこんな光景を見た気がする。
知っている人だろうかと思ったが、これほど綺麗な金髪を持った知り合いなど、キルトには…………金髪?
ひとりいた。昨日知り合った、正確には再会したばかり? な人だ。
女性はキルトの返事を待っているのか、まだもじもじとしている。
キルトは目をこらして、女性の姿の上に別の衣服と髪型をイメージし、記憶に新しい姿と照らし合わせる。
と、ぴったりとはまってしまった。
「……まさか、クラリッサ……姫?」
女性がコクコクとうなずいた。正解である。
しかし、見目麗しかったお姫さまが、わざわざこんな格好をして、一体なんのつもりなのか。
「えー……っと?」
どうしていいかわからずにいると、クラリッサ姫が突然、何か意を決したように、キルトの手を両手で包み込むように取った。
「あの……、わたくしと……、その、あ、あの……ふたりっきりになれるところに行きませんか!」
「……は?」
あまりに予想外すぎる発言に度肝を抜かれる。
確かこのお姫さまは、シュバルツ殿……つまり自分の妻になるはずだった人で、ヒンメルライヒに自分を連れ帰ろうとしていたはずである。
あれ? 合ってるよね?
「あ、その、違っ……」
何がどう違ってしまったのか、クラリッサ姫はひとり芝居のように慌てふためいて、深呼吸。どうやら言い直すらしい。
「でっ、ででっ、ででででデート! デートお! しましょお!」
「……はい?」
言い直されてもまったく意味不明で、キルトは思わずベンチからずり落ちそうになった。
と、そのときクラリッサ姫の背後の茂みで、何かがふたつ、キラッと光った。
「うっ……」
注目してみると、微妙にずさんな茂みの偽装をしたイルムガルドたち親衛隊が、自然公園と一体化しつつ、鋭い眼光でキルトを睨んでいた。
ここで断ろうものなら斬る。そんな殺気を感じさせる眼光である。
つまり、見張られているわけである。
「……あ、あの、あの……」
茂みに気を取られていると、返事を待っていたクラリッサ姫がどうしてか涙目になり始めた。
と、また茂みどもが不自然にざわざわと震え出す。その動きはどうやら、姫の状態と連動しているらしい。
ともすれば笑える光景なのかもしれないが、しかしキルトは一瞬で苛立ちが募った。
これのどこがお願いなのか。状況は違えど、朝とやっていることは何も変わらない。
こういう強制は、大嫌いなのだ。
「笑えねぇな……」
厳しい表情を作り、今回は断固拒否するつもりで立ち上がる。そして、一歩をイムルガルト茂みに向けて歩き出すその瞬間に……。
「……ひっ」
目の前のクラリッサ姫が、何かされるとでも思ったのか、いきなり身を縮ませた。
「あっ……ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
クラリッサ姫が声も体も震わせながら、目をぎゅっと瞑って言う。
背後の茂みばかり見ていて、目の前の女性の存在をすっかり忘れてしまっていた。
「……ただその、その、キルト様とお話がしたいだけなんです。も、もしあの、イルマちゃんたちが何か失礼をしたのなら謝ります、悪気はない、ないはずなんです。キルト様がダメならダメで……ちゃんと帰りますから……言って、下さい……」
途切れ途切れに言うクラリッサ姫の目尻には、光るものが滲んでいる。
キルトは思わず「じゃあ」と言おうとしたが、クラリッサ姫のいまの言葉が妙に脳裏に蘇り、踏みとどまった。
この人はもしかして、臣下のやっていることなど知らないのではないか。
そう思ったら、途端に痛みが胸を突いた。
思えば、昨日キルトが怒りを爆発させた後、この人が率先して、自分をキルトの名で呼んだ。今日だってシュバルツとは呼ばない。イルムガルドのように強引なこともしない。
それは、こちらの意を汲んでくれているからなのではないか。
「……ダメ、ですか?」
顔を上げて、クラリッサ姫が問い直す。涙を直視してしまい、ズキンとくる。
面倒以上に、押し付けられるのは嫌いだ。だが、その上だってあるのは否めない。
キルトはさっきまで沸きあがっていた反発的衝動を、ため息とともにゆっくり吐き出して、頭をひと掻きした。
茂みの連中が気に入らないのは事実だが、クラリッサ姫に当たるのは、違う。
「……姫に免じて、ってところですかね」
「ふぇっ?」
「それで、どこに行くんです?」
「あ、あの……行くって?」
「デート、なんでしょう?」
答えると、不安そうだったクラリッサ姫がパッと明るい顔を見せた。
「あの、は、はいっ!」
すっかり気を取り直したクラリッサ姫は、立ち上がって、流れるようにくるりと横に一回転。短いスカートの端を手で持ち、わずかに広げて、わずかに頭を下げる。
「ふ、ふつ、ふつつつかものですが、よ、よろしく、お願いします……」
言葉は相変わらずだったが、その仕草は、やはり高貴な人間のなせる業か、この上なく優雅で様になっていた。