第二章⑤ 記憶を戻したくて
「……う……んあ?」
頭の下に、何か柔らかいものの感触がある。
うっすら目を開けると、空は既に茜色に染まっていた。
「お、起きたか」
声をかけられ、キルトは寝かされていたベンチからすんなり体を起こす。
が、そこですぐに違和感を覚えた。
「俺、確かボコられて……あれ?」
幾度となく受けたシアの踵によって、キルトは傷だらけになったはずだった。しかし、痛みどころか、体の何処にも傷など見当たらないのである。
「姫さんに感謝だな。お前の傷は、姫さんが法術で治してくれたんだよ」
声に振り向くと、シアがベンチに座っていた。
さっきのフトモモはつまり彼女のか。
「治すって、神聖魔法か?」
あたりを見回すと、イルムガルドが腕を組んで立っていた。
クラリスはいない。
「姫は、いつかシュバルツ殿をお助けするためにと必死で、やりすぎなほど勉強なされて、教会から高位の資格を授与されているのですよ」
この世に能力は多々あれど、回復能力は唯一。
そしてその神聖魔法は、ヒンメルライヒの聖職者しか使えない。その資格試験は、世界でもっとも難しいらしいというのは、噂として聞いたことがあった。
あのクラリスが、そんな高度な資格を持っていることに、キルトは素直に驚く。
そうは見えない、というのもあったが、彼女は王族である。本当なら、そんなことをする必要などどこにもないのだから。
「ところでシュバルツ殿、その……、何も異常はありませんか? 気分が~、とか、体が~、とか」
「え、何が?」
「……いえ、大丈夫でしたら、結構。忘れてください」
イルムガルドはなぜかばつが悪そうに、いいかけた言葉を引っ込めた。こういうのは気にしてくれと言っているようなものだと知らないんだろうか。
どうせ面倒なことになるのだろうから言わないではおくが。
「そういえばクラリスは……?」
「倒れたから、近衛隊が連れて帰ったぜ」
「……ただの治癒のはりきりすぎです。お休みになれば、問題ありません」
キルトが心配な表情を浮かべると、イルムガルドが間髪入れずに言った。近衛隊長が言うなら大丈夫なのだろうと、ほっと胸を撫で下ろす。
「で、記憶は戻ったかい?」
「戻るわけないだろ……」
「やっぱダメだったか~」
直後、シアの言葉で眉間に皺が寄ったのは言うまでもない。
はっきり言ってただの殴られ損である。
「やっぱってなんだよ! こっちは本気で死ぬかと思ったぞ! この暴力女め!」
「あー、まあ、悪い。悪かったって。正直やりすぎたと反省してる。けどな、お前もいけないんだぞ? 姫さんに……その……」
シアが言いづらそうに顔を背けた。キルトも思い出してしまい、思わず声をあげる。
「あれは誤解だ!」
「残念です。誤解でなく最後まで行っていただければ、既成事実としてコトはすぐ済んだのですが」
と、イルムガルドがため息をついた。
過去ではなく、今のキルトに既成事実を作らせて、それを盾に有無を言わさず連行する。やはりそれが狙いだったらしい。
もっとも、クラリスがそれを知っていたかは定かではない。
そういう雰囲気になった途端あれほど積極的になるとは思いもしなかったが、キルトに誠意を感じさせたクラリスが言った、新しく関係を作るという言葉は、嘘ではないように思えた。
何も知らない姫。姫のために先走る家臣。忠誠心はいいが、この家臣はもう少しやりすぎという言葉を知った方がいい。
「ま、それじゃ次の手だ。なあキルト、このあたりに魔獣の巣とかあるか?」
と、懲りていないのか、シアが笑顔でまた何か言い出した。あからさまに不穏な単語に、嫌な予感が大挙して押し寄せる。
「さあ、そういうのは警備隊に聞いてくれ。って、何考えてんだよお前」
「ん? 治安維持活動」
理不尽にボコられた相手なのに、あまりにフランクに接してくるものだから、つい普通に答えてしまった。
それが大して嫌でもないのは、こういうことに慣れていたのか、それともノアなる人物は、シアに結構気を許していたのか。
「あたしは思うんだ。昔みたいに肩を並べて戦って、戦場の空気を感じ、頼れる相棒の姿を目の当たりにすれば、何か思い出すんじゃないかってな」
「いや、魔獣とは何度も戦ったが、全然戻ってないぞ」
「この場合、大事なのは信頼できる相棒の有無だ。魔獣の巣を壊滅させれば、たとえ記憶が戻らなくても、勇者としての面目は果たせるし、一石二鳥だろ?」
シアが偉そうに胸を張った。魔獣の巣を壊滅させるなんてさらりと言えるのは、彼女がそれに足るだけの力を持っているからに他ならない。キルトはそれを、先ほど嫌と言うほど思い知らされていた。
しかし、彼女の言う解決策は、いかに屈強な勇者とはいえ、極めて危険である。そんな暴挙に、自分が付き合ってやる必要もない。
「嫌だね。面倒だし。何より、いきなり人をボコるようなヤツは信頼できん」
「だから、悪かったって。何度も謝ってるじゃないか……ごめんって」
キルトがそっぽを向くと、シアが何度も謝る。そのまましばらく黙っていると、徐々にシアの表情に影が落ちていく。
「……ダメか?」
元気のなくなったしおらしい声で、シアが呟く。
とてもさっきキルトが気絶するまで殴り倒した人間の顔とは思えない。
「あたしはただ、どうしてもお前の記憶を戻してやりたい。それだけなんだよ」
ここで折れてはいけない。キルトは同情などしないぞと、あからさまに悲しそうな表情になったシアを無視し続ける。
「……お前がオウランに帰らないってんなら、この際それはそれでいい」
が、予想外の発言に、思わずキルトは振り向いた。
「じゃ何しに来たんだよ?」
「互いがピンチの時は、絶対に駆けつけて力になる。魔王倒したあと、昔のお前と、そう誓ったんだ。それに……」
と、シアがうつむいて、拳を握り締め、言いかけた何かを、一度だけかぶりを振って飲み込む。
「勇者は誓いを破らない。絶対だ。それだけ。うん、それだけだ」
チラリとシアを見ると、彼女は首元のマントの上から何かを握ったようだった。




