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侍に誘われて  作者: ゆず
第一章~侍に誘われて~
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八話『お鶴さんとの食事』

僕の予想は間違っていなかった。お鶴さんが向かったのは、今日の昼、田畑さんがパスタを食べていた、あのイタリアンの店だった。


「あ、ここは……」


 僕がそう呟くと、お鶴さんは「あれ?」と驚いた様子を見せる。


「もしかして、もう来たことある?」

「いえ、ないですけど、今日の昼にここで田畑さんがパスタを食べているのを、見かけました」


 お鶴さんは「ああ」と笑う。


「あんな恰好してるくせに、食べるものは洋食から中華まで、何でも好きだからね。それでも和食が一番好きみたいだけど」


 お鶴さんは店内へと入っていく。僕は少し緊張しながら、お鶴さんに続いて、洒落た鐘の音を潜る。店内は外から見たよりも奥行きがあり、昼時までとはいかないが、それなりに客の姿もあるようだ。


 柔らかい間接照明に、遠くに響くクラシックピアノのBGМ。店内にいる客は全員が女性で、男は僕一人だけ。女性客たちは、こちらを一瞥しては、何かをこそこそと話している。どうして、あんな美人と冴えない男が一緒にいるのだろうか。大方、そんなことを話しているのだろう。


 僕は肩身の狭い思いに耐えながら、通されたテーブル席へと向かう。席に着くと、僕は自然と深い息を吐いた。それを見たお鶴さんが笑う。


「こういう店、苦手?」

「あ、いえ。ただ、あまり来る機会がないので」


 僕は自分でそう言って、どうして『あまり』なんて見栄を張ったのだろうかと、すぐに後悔する。こんな店、一度だって来たことがないのに。そこを詳しく訊かれたら、答えられないのに。


 しかし、お鶴さんはそこを掘り下げてくることなく、メニュー表を手に取ると、僕に向けて広げた。


「ここは学生街にあるからか、結構リーズナブルなんだよね。安くて美味しくて雰囲気もいいから、女の子には人気が高いんだ。もしあんたがこれから彼女なんて出来たら、こういう店に連れてくるのも選択肢としてはいいかもね」


 彼女が出来たら、か。その光景があまりに想像出来なくて、僕は思わず苦笑してしまう。すると、お鶴さんは、「あれ?」と眉をひそめた。


「もしかして、既に彼女いたりする?」


 僕は「い、いえ」と大きく首を左右に振る。


「僕に彼女なんて、とんでもないです」

「ま、そうだろうね。自分に自信のない奴になんて、女は惚れないからね」


 お鶴さんは真顔でそう言うと、「何にしようかな」とメニュー表を指でなぞっていく。今、とても正鵠を射た厳しい言葉を頂戴したような気がするが、僕は聞こえなかったことにして、メニュー表へと視線を落とした。


 注文が終わると、お鶴さんは上着を脱ぎ、一息つくように肩の位置を下げた。するとすぐに、お鶴さんが頼んだワインが一本、先に運ばれてくる。お鶴さんはそれをグラスへと注ぐと、まるで牛乳を飲むかのように、一気に呷った。


 僕がその様子を唖然と眺めていると、お鶴さんは「ん?」と小首を傾げる。


「何、あたしの顔に何かついてる?」

「あ、いえ。……その、お酒を飲まれるんだな、と思って」


 お鶴さんは小さく笑う。


「余裕で二十歳は超えてるし、別に不思議なことじゃないと思うけど」


 僕は「そうですよね」と強張った笑みを貼りつけながら、後頭部に手を当てた。確かにそうだ。法律上は何の問題もない。しかし、酒というある種の『大人』を象徴するものがすぐ目の前にあるのだと思うと、僕はどうしてか、胃の奥が痛くなった。


 その痛みから目を逸らすため、僕は訊ねる。


「田畑さんは、お酒を嗜むんですか?」

「耕作? そういえば、飲んでるのを見たことがないな。ああ見えて、かなり健康には気を遣っているみたいだから、飲まないんじゃないの」


 お鶴さんはそう言いながら、早くも二杯目を注いで口をつける。


「それよりさ、折角だから、あんたのことをあたしに教えてよ」

「ぼ、僕のことですか?」


 僕がたじろぐと、お鶴さんは「うん」と真顔で頷く。


「だってあたし、あんたのこと、まだほとんど何も知らないじゃない。まあ正直、特別興味があるわけじゃないんだけど、ほら、ワインのあてになるかなと思って」


 お鶴さんは頬杖をつき、顔を僅かに傾けて微笑んだ。その仕草と艶めかしい眼差しに、僕の心臓が無駄に鼓動を早める。


「で、でも、僕のことって、何を話せばいいのかわかりません」

「何でもいいよ。あんたが中高生の頃どんな子だったのかとか、実はこう見えて、こんな凄い特技があるとか、変態な趣味があるとか。本当、何でも」


 僕がどんな子だったか。突然そんなことを言われても、自分がどんな人間かなんて真面目に考えたことはない。なぜなら、どうせ考えても、惨めになってくるだけだからだ。


 僕が「そうですね……」と言葉に詰まっていると、お鶴さんはグラスを前後左右へと傾けながら、その中を転がる紫色の液体に目を細める。


「みんなさ、自分のことを話すのは大好きなのに、正面から『あなたについて教えて』って言うと、結構言葉に詰まるんだよね。で、いざ口を開くと、普段は何気ない会話の中に自慢話をふんだんに盛り込むくせに、その回答はとても謙虚で客観的に自分を分析するの。過剰なまでに自分を卑下したりしてさ」


 お鶴さんは溜息を吐く。


「……それって多分、謙虚で控えめな日本人の美徳でもあるんだけど、正直、つまらないんだよね」

「つまらない、ですか?」

「うん。だって、みんなそうだもん。でもそれって、本当のその人じゃないんだよ。無難な服装を身に纏って、みんながやっている髪型にして、みんなが持っている固定観念や常識を手に持った、その人の中での、嫌われない像を見せているだけ」


 お鶴さんはグラスに残るワインを、ゆっくりと流し込んでいく。


「でも実際はさ、絶対にその人だって、自分は他の多くの人間よりも優れた存在だと思っているし、『お前らは知らないだろうけど自分にはこんないいところがあるんだぜ』みたいなのも持っているんだよ。みんな、もっと褒めて欲しいはずなんだよ。でも、隠しちゃう。そういうのをひけらかすと、嫌な奴だと思われるんじゃないかって、ビビって」


 お鶴さんの言葉がどんどん早く、大きくなっていく。


「あたしは逆に、そうやって本当の自分を隠してる奴を見ると、腹が立ってくるんだよね。お前は忍者かって。もっと、自分に正直に生きればいいのにって、もどかしくなる。ってか、そういう奴に限って、」


 ちょうどその時、店員が料理をテーブルへと運んできた。僕は魚介のパスタで、お鶴さんはポロネーゼ。それと、二人で分ける、クリームチーズとほうれん草のピザ。その食欲を誘う香りが、お鶴さんの興奮を鎮めたようで、お鶴さんは頬を緩め、既に手にはフォークを握っている。


 互いに「いただきます」と料理を口に運ぶと、なるほど、確かにお鶴さんの言う通り美味しかった。あまりお腹は空いていなかったが、食べ始めると、胃が急に動き始めて手が止まらなくなった。


 お鶴さんはピザを手に取ると、思い出したかのように、「で」と僕を見る。


「あんたは一体、どんな子だったの?」


 僕は「えっと」と、無難な答えを返す。


「通知表には、『大人しくて周りに合わせられる子』って、毎年書かれていました」

「ああ、そんな感じする。しかも、あたしとまるっきり正反対」

「お鶴さ……、あ、すみません。中沢さんは、何て書かれていたんですか?」


 お鶴さんは「お鶴さんでいいよ」と笑う。


「あたしはね、『元気がよくて自分の考えで行動出来る子』だった」


 僕は思わず、「あー」と納得して、頷いてしまう。お鶴さんの手のピザから、チーズがゆっくりと垂れていく。


「まあ要は、『うるさくて我が強い』ってことだろうね。で、あんたはその逆。お互いにそのまま、大人になったわけだ」


 お鶴さんは小皿でチーズを受け止めると、フォークを使って、またピザの上へと戻す。僕は逃げそびれたチーズを見つめながら、「でも」と苦笑する。


「さっきの話じゃないですけど、きっと僕は、お鶴さんの嫌いなタイプの人間だと思います。自分を持っていないし、持っていてもそれを出すことなんて出来ない。周りに合わせられるんじゃなくて、そうしないと自分が不安なんです」


 そう。僕はずっと、輪から外れることをとても恐れていた。しかし、特にそうなるきっかけや事件があったわけではない。いつの間にか、無意識のうちに、僕はそうなっていたのだ。


 お鶴さんはグラスに三杯目のワインを入れ、そして店員に二本目を頼んだ。僕はお酒を飲んだことがないのでわからないが、そんなペースで飲んでも大丈夫なのかと、心配になってくる。


「大丈夫よ」


 お鶴さんはピザをワインで流し込むと、大きく息を吐いた。


「別に、あたしはそういう人たちが嫌いなわけじゃないから。それに、今の世の中は、あんたみたいな人ばっかりだし、むしろそっちの方が、社会で生きていくには賢いのかもしれない。そういうのは、あたしにはわからないけどさ」


 やはり酔ってきているのか、お鶴さんは話す度に、大きく手を動かしている。


「でも、何だか不思議だと思わない? だって、みんなが自分に嘘をついて、それで社会が綺麗に回るんだよ。自分に正直に生きる人間が、白い目で見られるんだよ。あたしはこれまで何回、小馬鹿にするような目で見られたか」


 お鶴さんは「例えば」と、僕を指差す。


「あたしは美人でさ、スタイルもいいじゃん。度胸も、根性だってある。他の人にも、絶対に負けない自信がある。だからあたしは、ハリウッド女優になれるの。あんたも、そう思うでしょ?」


 突然の問いかけに、僕は戸惑いながらも懸命に答える。


「は、はい。可能性は充分にあると思います」


 僕の答えを聞いたお鶴さんは、小さく息を吐き、「あんたはさ」と自嘲するような淡い笑みを浮かべる。


「一応、本気で気を遣ってくれてるじゃん。でも、あたしが今と同じことを、同級生に訊いたら、みんな、『う、うん。そうだね』って、鼻の穴をパンパンに膨らませて、目尻の下を厭らしく痙攣させるんだよ。みんな、あたしのことを馬鹿な奴だなってそう思っているけど、それを表には出さずに、そんな見え透いた綺麗事を並べてくる」


 お鶴さんの自嘲が、柔らかいものへと変わる。


「その質問をさ、耕作にした時、何て返されたと思う?」

「田畑さん、ですか?」


 あまりにも想像がつかなくて、僕は考えるのを諦め、「わかりません」と苦笑した。お鶴さんは「あいつはね」と遠い視線を宙に浮かべる。


「『そこまで美人じゃないし、胸はでかいがケツが小さ過ぎるからスタイルもよくない。ただ、度胸と根性だけは確かに人一倍あるから、お前は絶対にハリウッド女優になれるぞ』って、そう言ったんだ。……めちゃくちゃ失礼なことも言ってるんだけど、それでもその一縷の嘘もない心からの言葉は、今でも時折、あたしの背中を押してくれる」


 その台詞を真顔で発している田畑さんの姿が容易に想像出来て、僕はつい笑ってしまう。


「何だか、田畑さんらしいような気がします」

「そう。それはちゃんと耕作の言葉なの。だからあたしに届いたし、あたしもそれを、しっかりと受け止めた」


 お鶴さんは何かを確認するように頷くと、「だからあたし」と虚空を見つめた。


「……絶対にハリウッド女優になる」


 その言葉からは、お鶴さんのとても強い意志が伝わってきた。お鶴さんはパスタを食べると、手の甲を頬に当て、「ごめん」と苦笑する。


「ちょっと、熱くなっちゃった。結構、お酒が回ってきたのかも」


 僕は「いえ」と首を振る。


「それより、お鶴さんは、どうしてハリウッド女優になろうと思ったのですか?」


 それだけの強い意志を持っているということは、それなりのきっかけがあったのではないか。そう思って訊ねたのだが、お鶴さんは「うーん」と困ったように、頬を掻きながら薄い笑みを浮かべる。


「それが、覚えていないんだよね」

「覚えていないんですか? そんなに大きな夢なのに?」

「うん。もう、物心ついた時には、そうなりたいって思っていたからさ。両親が言うには、たまたまテレビでやっていた洋画を見ていて、『あたしこれになる』って言いだしたらしいんだけど、そんな小さな頃の記憶なんてさ、ないじゃん」


 夢ってそんな感じで決まってしまうものなのか。未だに、夢もやりたいこともない僕には、全く理解出来なかった。


「じゃあお鶴さんは、そのきっかけも覚えていない夢に向かって、これまで生きてきたってことですか?」

「まあそうなるし、これからもそうだろうね」


 ここで僕は、一つ気になった。


「あの、変なことを訊いてしまうかもしれませんが、お鶴さんはどうして大学に?」


 女優を目指すのなら、大学へと行かずに、劇団や演技を教えてくれる専門学校へと進んだ方がいいと思うのだが、それは素人意見なのだろうか。


 お鶴さんは髪を耳へとかけると、「それは」と少しだけ苦い表情を浮かべる。


「両親との約束なんだ。女優を目指すのを認めて貰う代わりに、大学を出ることと、三十までに芽が出なければ、諦めるって」

「だから大学にいるんですね。……でも、ならどうして日本文化研究会に? 確かこの大学、演劇のサークルみたいなの、ありましたよね?」


 お鶴さんは「ああ」とあしらうように手を左右に振る。


「あるけど、あれはただの馴れ合いだから。一年生の時にちょっと入って、すぐに抜けちゃった。それからは、ある劇団に入れて貰って、演技の勉強はそこでしてる。この同好会に入ったのは、何となく面白そうだったから」


 なるほど。劇団に入っているのか。お鶴さんは「でも」と柔和な笑みを浮かべる。


「あたしは、大学に入ったのが無駄だとは思っていないよ。演技以外の勉強だって大事だし、時間もそれなりに取れるし。それに、自分のことを理解してくれる大事な人たちとも会えたしね」


 お鶴さんはそう言うと、突然、両手を高く上げた。


「何より、毎日本当、楽しいからさ。それだけで幸せだよ。あたしは幸せ者だーっ。この世界は、何て素晴らしいんだーっ」


 お鶴さんは口を開けて、大きく笑う。周りの客の白い視線なんて、当の本人は一切気にする様子もなく、僕だけが恥ずかしさから、身を捩っている。


 お鶴さんは赤い顔で、まだ笑っている。何がおかしくてそんなに笑っているのかはわからないが、それでもとても、楽しそうだ。僕はここまで心から笑ったことなんて、これまであっただろうか。


 遠くで鳴っていたBGМが鳴り止んだ。


 他の客たちが会話を止め、店内を包んでいた喧騒が姿を消す。その中で、お鶴さんの快活な笑い声だけが、大きく響いていた。


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