五話『侍、通報される』
結局、僕は三限、四限を受けるために大学へと戻り、子供たちは昼食を食べるために家へと帰った。しかし、四限目を受け終えた僕は、再び田畑さんに捕まり、また河川敷へと連れて行かれ、腹ごしらえを終えた子供たちと、本日二回目の野球をさせられた。
野球は、電柱の先に止まる大きなカラスが夕暮れを告げるまで続けられ、終わった時には立っているのがやっとなほど、僕の身体は悲鳴を上げていた。
そして、子供たちとの別れの時間。
「侍、もっとコントロールつけてこいよ」
「お主に言われる筋合いはないが、努力はするつもりだ」
「あと、武蔵はもっと運動した方がいいぞ」
僕は「ごめん」と深く頭を下げる。僕の足が攣ったせいで、何度も流れを止めてしまったのだ。
「あ、そろそろ帰らないと、お母さんがブチ切れる」
「本当だ。やべー」
「じゃあな、二人共。またやろうぜ」
「えっと、ありがとうございました」
子供たちはそう言うと、全速力で走って帰っていく。一体、その小さな身体のどこに、そんなエネルギーがあるのだろうか。僕と田畑さんは手を振り、彼らを見送った。
すると、あのキャッチャーの少年が振り返り、照れ臭そうに微笑んだ。
「……昼前のあれ、ナイスバッティング」
僕は「ありがとう」と返した。頬が自然と緩まる。自分からまたやりたいとは思わないが、誘われたらたまにはここに来てもいいな、とそう思った。
「じゃあ、私たちも帰るか」
田畑さんはベンチに置いてあった刀を取って帯へと差すと、颯爽と歩き出した。僕が田畑さんに並んだその時、向こうから二台の自転車が近付いてくるのが見えた。
「あれって、もしかして警察じゃないですか?」
田畑さんは「うむ」と頷く。もしかして、通報されたのか。それはまずいのではないか。悪いことをしているわけではないから、捕まったりすることはないだろうが、それでも面倒なことには変わりない。
警察官は、真っすぐとこちらに向かって近付いてくる。明らかに、その視線は田畑さんを捉えている。通報されたのは、間違いない。
しかし、警察官二人は僕たちの前まで来ると、そのうちの一人が「やっぱり」と呆れるような表情を浮かべた。一人は三十歳くらい。もう一人に至っては、下手をすれば僕と同じくらいの年齢だ。
「またあなたですか」
年上の方の警察官が、自転車から降りて田畑さんを見る。田畑さんが「久しぶりだな」と答えると、若い方の警察官が眉をひそめて先輩に訊ねる。
「えっと、この方は?」
「ああ。ここらじゃちょっと有名なんだよ。まあ、一応は害のない侍だ」
「さ、侍ですか?」
「うーん。……まあ、面倒だからそれでいいよ」
警察官二人の遣り取りを聞いて、僕は田畑さんがこの辺りで有名であることを知る。まあこんな恰好で歩いていたら、有名にはなるだろう。
先輩警察官は、小さく息を吐いて田畑さんを見る。
「えっと、問題がないのはわかっているんだけど、何をしていたの?」
「子供たちと野球だ」
田畑さんが即答すると、先輩警察官は「そうだよね」と頷く。
「いや、交番に、『河川敷のグラウンドに不審者がいる』って通報があってさ。その不審者は侍みたいな恰好をしているって言うから、多分キミなんじゃないかとは思ったんだけど、一応確認しに来たんだ。ほら、最近、物騒な世の中だから」
「本当、物騒な世の中だ」
田畑さんは腕を組み、しみじみと頷いている。それを見た先輩警察官は、「だからさ」と苦笑を浮かべる。
「その恰好って、誤解されるでしょ。出来れば、普通の恰好をして欲しいんだけど」
「それは出来ない」
田畑さんは毅然たる態度で首を横に振る。先輩警察官は頬を掻きながら、「あのさ」と長い息を吐く。
「……そもそも、どうしてそんな恰好をしているわけ?」
「私は侍になりたいからだ。だから、先程お主が新人に、私のことを侍であると説明したが、厳密に言えばあれは間違いだ。私はまだ侍にはなっていないからな」
先輩警察官は何かを言いたげな表情を浮かべたが、喉を揺らしてそれを飲み込むと、無理矢理自身を納得させるかのように頷いた。
「うん、うん。わかった。ならせめて、出来るだけ通報されないようにしてくれないかな。キミが悪い人じゃないってのは、こっちもわかっているからさ」
田畑さんは「努めよう」と目にぐっと力を入れた。すると、先輩警察官は次に、視線を僕に向ける。
「……で、この子は?」
「私の新しい友人だ」
先輩警察官が僕に確認するような眼差しを送ってきたので、僕は「は、はい」と頷いておく。
「そっか。友人ね。じゃあキミも、気をつけてよ」
僕が「わかりました」と答えると、先輩警察官は納得したようで、「じゃあ行くか」と後輩警察官の肩をポン、と叩く。後輩警察官は不思議なものを見るような目で田畑さんと僕を交互に眺めながら、サドルに足をかけた。
去って行く二人の背中をじっと見ていると、田畑さんが「武蔵」と呟いた。
「お主は明日、学校に来るか?」
「はい。勿論行きますけど。……どうしてですか?」
田畑さんは、目だけを僕へと向ける。
「大事なことがあるからな」
「大事なことって?」
「大事なことは、大事なことだ。明日が来れば、わかる」
田畑さんはそう言うと、橙色に染まる水平線へと目を細めた。僕は、そんな田畑さんの横顔をじっと眺め、その顔にいつの間にか、髭がびっしりと生えていることに驚いた。