四十九話『冬』
「ちょっと、あんたたち、一段ずれなさいよ」
「嫌です。お鶴さんがずれてくださいよ」
「あんた、最近なかなか図々しくなったわね。調子に乗ってるんじゃないの?」
「乗ってませんよ。あっ、大洞さん、間に入ってこないでよ」
「みんなで固まればいいでしょ。ね、お鶴さん」
結局、僕が弾き出されてしまい、お鶴さんと大洞さんの二人が古いストーブの前を陣取った。外から来たばかりでまだ身体が震えている僕は、二人の間隙から零れる温風を少しでも拾おうと、手を翳す。
田畑さんはソファーに寝転がってテレビを見ていて、ジャンヌさんは窓から外を眺めている。今日のジャンヌさんの衣装はナース服。
最近ではあまり見かけなくなったスカートタイプのナース服の裾からは、隆々としたふくらはぎの筋肉が顔を覗かせている。
「ジャンヌさん、寒くないんですか?」
僕が何気なく訊ねると、ジャンヌさんは顔をこちらに向ける。
「寒くはありません。鍛えていますので」
「えっと、今さらなんですけど、ジャンヌさんって何者なんですか?」
「わたくしは何者でもございません。ただの、忍者になりたいジャンヌです」
僕は「そうですか」と納得した。まあ、ジャンヌさんはジャンヌさんだ。それ以上深く訊ねるのは、野暮なのだろう。
「それにしても、急に寒くなったわね。本当、風邪を引いちゃいそうで嫌だわ」
「お肌も乾燥してきますもんね」
「ともえちゃんはいいじゃない。まだ若いんだからこんなにピチピチで。あたしなんて、保湿クリームがなかったら生きていけない身体よ」
「確かにそうですね」
「……あのさ、あたしの肌を触りながら『確かにそうですね』って言わないでくれるかな」
お鶴さんが大洞さんの首に手を回すと、大洞さんはふふっと笑って誤魔化した。その無垢な笑顔を見ていると、寒さを一瞬、忘れてしまう。
大洞さんはもうずっと、自分に正直に生きている。卓越した容姿の利点も欠点も、全てを理解した上で、それを個性として受け入れている。
だからなのか、最近の大洞さんはとても魅力的に思える。それこそ、じっと見ていると、ぼんやりとしてしまうほどに。
身体を寄せ合う二人を見ていて、僕はあることを思い出す。
「そういえばお鶴さん、結構前に受けたって言っていた大きなドラマのオーディション、あれって結果出ましたっけ?」
するとお鶴さんが振り返り、「あ、そうそう」と目を開く。
「今日はその話をしようと思って、みんなに集まって貰ったのよ。まあ、あと何人か呼んでるんだけど、あいつらは来るかどうかわかんないから、もう発表しちゃおうかな」
お鶴さんは僕たちから少し離れると、正座をして「コホン」、とわざとらしい咳をする。
「……何とあたし、そのオーディションに一応、合格しましたーっ」
「ええ、本当ですか?」
大きな声を出し、腰を浮かす大洞さん。お鶴さんは照れ臭そうに笑いながら、「でも」と肩を竦める。
「ヒロインは駄目だったんだよね。だから、一応って言ったの。それに、深夜にやるドラマだし、レギュラーってわけでもないんだ。あ、でもね、あたしが演じる役がメインになる回があるから、そこで目立てば、また次も使ってくれるかもしれないでしょ」
お鶴さんはどんどん早口になる。
「なんでもね、オーディションの審査員の中に、別のオーディションであたしのことを何回か見ていた人がいたみたいで、その人が、あたしのことを面白いなってずっと思ってくれてて、それで推してくれたんだって。やっぱり、」
話の途中だったものの、喜びを抑えきれなくなった大洞さんが腕を広げてお鶴さんへと飛び付いた。
「おめでとうございますっ」
お鶴さんは「痛いから」と苦笑しながらも、そっと大洞さんの身体を包みこみ、その頭を柔らかく撫でた。
僕とジャンヌさんも「おめでとうございます」と祝福の言葉を送ると、お鶴さんは「ありがとう」と微笑んだ。
しかし、田畑さんはふん、と短い息を飛ばす。
「……浮かれるな。まだまだ道程は長いぞ」
その言葉に、お鶴さんは「わかってる」と真剣な眼差しで頷く。
「でもまずは、この目の前のチャンスを全力で掴みに行くから」
田畑さんはそれ以上何も言わず、小さく手を上げて、テレビへと視線を戻した。その無理に作ったような無関心が、僕にはとても可笑しく感じられた。
するとお鶴さんは「ち、ちょっと」と大洞さんの身体を引き剥がす。
「どうしてともえちゃんが泣いてるのよ? それに、鼻水。わっ、服についちゃうでしょ。ってか、もうついてるしっ」
大洞さんは「だってー」と子供みたいに顔をくしゃくしゃにしながら、鼻を啜っている。お鶴さんはティッシュペーパーを取ると、「ほら、噛みなさい」とティッシュで大洞さんの鼻を摘まむ。
僕はそんなお鶴さんを、尊敬の眼差しで見つめる。
深夜枠でレギュラーではない。それでも、その役を掴むのは簡単なことではなかったはずだ。しかしお鶴さんは、それを自分の力で掴み取った。お鶴さんは着々と、なりたいものに向かって突き進んでいる。
きっと、この世の中には女優や俳優になりたい人はたくさんいる。おそらく『夢』としての分母は、他の夢に比べてもかなり大きいものだと僕は思う。
だが果たして、その中で本気でそれを目指している人は、何人いるのだろうか。本気で挑戦している人は、どれだけいるのだろうか。
自分になんて出来るわけがない。
容姿がよくないから。
オーディションに落ちたら恥ずかしいから。
親を不安にさせたくないから。
演技の経験なんてないから。
周りに知られたら馬鹿にされそうだから。
多くの人は、何も知らないのに、まだその扉を開けることすらしていないのに、見えない敵を想定して、足踏みをしている。
彼らは、いや、僕たちは一体、何に怯えているのだろうか。
そうだ。道が見えたら、真っすぐ前へと歩けばいいのだ。
この時代、どうせ命まで取られることなんて、ないのだから。
「こら本多、生きているか?」
お鶴さんに目の前で手を振られ、僕は我に返った。お鶴さんは怪訝な表情で、僕の顔を覗き込む。
「何をぼーっとしてんのよ。ほら、箱ごと取って、ティッシュ」
僕は「あ、はい」と腕を伸ばして、箱を渡す。見ると、お鶴さんの白いニットの服の一部が、光沢を帯びていた。
大洞さんは泣き止んではいるようで、体育座りをして、赤くなった鼻をティッシュで拭っている。
その時、テレビから『盗まれた』という単語が聞こえてきて、僕はふと、テレビに意識を向けた。
流れているのは、夕方の報道番組。『盗まれたはずのものが、なぜ?』というテロップが、大きく出ている。
スタジオから画面が切り替わり、ある家の和室が映し出された。そして、その家の住人と見られる、顔にモザイクのかかったお婆さんが、リポーターの質問に答える。
『……はい。朝起きると、家の前に置かれていたんです。もう驚いて驚いて。いや、半年ほど前に、家に泥棒に入られまして。警察にも通報したんですけど、犯人がわからないみたいで。それに、もし犯人が見つかったとしても、盗まれたものは戻ってこない可能性が高いって警察の人にも言われまして。ですから、まさか戻ってくるなんて思いもしませんでした。父の形見で、とても大切にしていたものですから、本当に良かったです』
どうやら、盗難に遭ったものが戻ってきたらしい。世の中、不思議なこともあるものだな、と思ってぼんやりと眺めていたが、画面が切り替わり、僕は次第にその違和感に気付き始める。
『この掛け軸が、盗まれて、そして戻ってきたものですか?』
『はい、これがそうです』
その掛け軸の中には、黒い鯉が優雅に泳いでいる。
はて、どこかで見たことがあるような気がする。しかし、掛け軸なんて普段目にすることはない。一体どこで見たのだろうか。
僕が記憶の深淵を漂っていると、突然、電流に貫かれるような衝撃が全身に走った。
「……この掛け軸、僕、見ましたっ」




