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侍に誘われて  作者: ゆず
第一章~侍に誘われて~
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四話『初めての人助けは』


 その侍は双眸を細め、ゆったりと構える。次に口を窄めて息を吐くと、真っすぐと相手を見据えた。その眼差しは、まさに真剣そのもの。一瞬でも気を抜けば、おそらく相手はやられてしまうだろう。

 

 荒れ地を、生温かい風が通り抜ける。細かな砂の粒子が狼煙となり、凪いでいた時が動き出す。


 そこからは、一瞬だった。


 パン、と乾いた音が遠い空へと吸い込まれ、白く分厚い雲となる。侍はその場に倒れ込むと、「うう」と呻き声のようなものを出した。


 相手は勝ち誇った顔で腕を突き上げたが、侍が一向にその場から動く気配がないのを見て、小さな溜息を吐く。そして侍へと近付くと、「おい、おっさん」と屈んでその肩を軽く叩いた。


「どうした? 筋でも傷めたのか?」


 侍こと田畑さんは顔を上げると、「小癪な」とその子を睨み上げる。


「曲げるのは禁止だと、そう言ったはずだ」

「いや、守るかよそんなお前のルール」

「真剣勝負から逃げるとは、お主、それでも武士か」

「だから武士じゃねえよ」


 その相手は田畑さんに手を差し伸べると、ぐっと身体を引き起こし、そして袴についた土を掃ってやる。


「ほら、交代な。あと、おっさんはピッチャーすんなよ。ノーコンだから」


 それでも田畑さんは一切聞く耳を持たず、マウンドに向かうと、ボールを両手でこね始めた。子供たちからのブーイングが飛び交う。


 僕はライトからその様子をじっと眺めながら、一体自分は何をしているのだろうか、と自問自答する。


 大学から二キロほど離れた場所にある、河川敷のグラウンド。僕は今、地元の小学生たちに交ざって野球をしている。相手は全員六年生。どうやら短縮授業で学校が終わり、そのままここへと来ているらしい。


 周囲には工場が多いせいか、思い切り息を吸うと、身体に悪そうな臭いがする。川も少し濁っていて、風が吹くと泥臭さが漂ってくる。それでも子供たちは一切気にした様子もなく、全力で一つのボールを追いかけている。そして田畑さんもそれに負けないくらい、全力で野球をしている。


 河川敷を散歩する人が、訝しい目で田畑さんを見ている。それもそうだろう。僕だって、もし散歩をしていて、子供たちに交じって野球をする侍がいたら、怪しむに決まっている。しかし僕は今、その怪しい側に立っている。本当に一体、僕は何をしているのだろうか。


 少なくとも、僕が思い描いていた『人助け』はこれではない。僕はもっと、本当に困っている人に救いの手を差し伸べるようなことを想像していた。それなのに、ただ地元の子供たちと野球をすることになるなんて。


 確かに、この子たちは困ってはいた。全員で九人しかいないので、一人がバッターをすると、どこかに守備の穴が出来てしまう。だから僕と田畑さんが参加することにより、形としてはちゃんと野球が出来るようにはなった。それでも、二チームあるわけではないので試合は出来ないし、ランナーもいないのだが、どうやらこの子たちは、バッティングが出来ればそれで満足らしい。


 しかし、こんなことをわざわざ僕たちが出向いてまでする必要があるのだろうか。周りから見れば怪しい大人だろうし、この子たちも所詮、遊びで不自由していただけだ。感謝の気持ちだって、そこまで持っていないだろう。


「おいっ武蔵。ボールっ」


 その言葉に、僕は我に返った。グラウンドを見渡すも、ボールはない。セカンドの子が、「上ですっ」と指を差す。見上げると、ボールはすぐ目の前まで落ちてきていた。咄嗟に顔をグローブで隠すと、ボールは僕のすぐ傍でバウンドし、後方へと転がっていく。


「何やってんだよ―」「他所見してんじゃねえよ」「下手くそっ」


 飛んでくる子供たちからの罵詈雑言。僕はその敬意の欠片もない言葉を背中に受けながら、転々と転がっていくボールを追いかける。そしてようやく手に取ると、すぐさまセカンドへと投げた。しかし、力のないボールはセカンドに届く前に静止してしまい、セカンドを守る男の子は苦笑しながらそのボールを拾った。


「どんまいです」


 九人の子供の中で、唯一敬語を知っているセカンドの気遣いが、僕の心には却って苦しかった。


 本当、一体、僕は何をしているのだろうか。


 僕は身体に悪い溜息を、何度も吐く。


 しばらくすると、マウンドに立っていた田畑さんが、「武蔵っ」と口許に手を当て、僕の名前を呼んだ。


「次、お前が打つ番だぞ」

「いや、僕は飛ばしてくれていいですよ」

「そういうわけにはいかない。順番だからな」


 だからそれを飛ばしてくれということなのだが。僕は田畑さんに伝わるように、首を大きく左右に振る。


「じゃあ、僕の代わりに誰か打ちたい人が打ってください」

「それは駄目だ。みんなが打ちたいからな。打つ人間を決めるのが面倒だ」


 そう言われてしまうと、僕には返す言葉がない。ここでこれ以上渋っても、場の雰囲気を悪くしてしまうだけだ。僕は仕方なく、小走りでバッターボックスへと向かう。どうやら僕相手にも、田畑さんが投げるらしい。田畑さんはコントロールが悪いので、ぶつけられないか不安だ。


 僕は金属バットを持つと、バッターボックスへと立った。実のところ、僕は野球をするのは初めてだった。授業でソフトボールをしたことはあるが、野球の経験はない。僕は運動神経が滅法悪いので、これまで野球やサッカーなどは避けて生きてきたのだ。


 バットの持ち方が正しいのかさえ、わからない。一応、見様見真似で構えてはみるものの、全くしっくりこない。キャッチャーをやっている子が、ぎこちなく構える僕を見て、「もっと内側に立つんだよ」と教えてくれたものの、僕はボールが怖くて、少ししか寄ることが出来ない。


 きっと、僕は簡単に三振して、笑いものにされるのだろう。その予想通り、一球、二球と僕は連続で大きく空振りした。僕がバットを振る度に、守っている子たちから笑い声が漏れる。よほど惨めなのだろう。


 すると、田畑さんが「タイムだ」と試合を止めた。どうやら、袴の帯が解けかけているらしい。田畑さんは一旦グローブを置き、帯を締め直す。どうせなら、僕が三振してからやってくれればいいのに、とは思ったが、そんなことを言えるはずもない。


 すると、キャッチャーの子が「あのさ」と僕に話しかけてくる。


「野球、やったことないの?」


 当然の如く、ため口。しかし僕はそれを指摘せず、「うん」と素直に頷く。


「今のバッティングを見て貰ったらわかると思うけど、僕、運動神経がよくないから」

「そんなの、守備している時からわかってたけど」

「あ、そうなの」


 キャッチャーの子は「そうだよ」と小さく笑う。


「でも、打てないのは、運動神経以前の問題だと思う」

「以前の問題?」

「うん。多分、気持ちの問題。だってほら、打つ気がないでしょ」


 痛いところを衝かれて、僕は「ま、まあ」とたじろぐ。


「打ちたいとは思っているけど、どうせ打てないから。……それにしても、よくわかったね。キミ、野球、やってるの?」

「やってる。六年間ずっとキャッチャーで四番。この中じゃ、一番上手い」


 さらりと自慢が入ったような気がするが、そこは気にしないことにした。それにしても、六年間もやっているのか。そう言われてみれば、確かにミットを構える姿が様になっているような気がする。


「でも、どうして僕に打つ気がないってわかったの?」

「全然集中してないからだよ。腰も引けているし、腕だけでバット振ってるし。そんで何より、ボールを全く見てない。さっきの二球とも、大きくストライクゾーンから外れてる。運動神経が悪くても、ボールを見ることくらいは出来ると思うけど。別に大した球じゃないんだし」


 確かにこの子の言う通りだ。僕はボールをあまり見ていなかった。というより、身体に当たるのが怖くて、最初から目を少し細めていた。


「ってか、身体に当たるのが怖いなら、心配しなくていいよ。軟球なんて、よほど変なところに当たらない限り、別にそこまで痛くないし、何よりちゃんと見ないと、身体にボールが向かってきても、避けられないだろ」


 少年は、そんな僕の不安も読み取っていたようだ。恐ろしい小学生だな、と僕はその慧眼に舌を巻く。


 田畑さんは帯を締め直すと、「すまない」と置いていたグローブを手に取った。袴とグローブが何とも不釣り合いで、却って恰好良く見えてくる。


 僕が構えると、キャッチャーの少年が、「まあ」とミットをパン、と叩いた。


「ボールをよく見て、あとは全身で振り切ることだね。別に試合じゃないんだし、打てなくても誰にも迷惑はかけないんだから、思い切っていけば?」


 そうだ。確かに打てなくたって、ここにいる小学生たちに笑われるくらいで、特にデメリットなんてない。それなら、中途半端なスイングをするのではなく、全てのストレスを解き放つくらいの気持ちで、振ってやろう。


 僕の中で、何かが吹っ切れたような気がした。


 田畑さんが、足をゆっくりと上げた。僕は田畑さんの右手の指先に、意識を集中させる。やがて、「ふんっ」と田畑さんの短い声と共に、薄茶色いボールが田畑さんの手から離れ、こちらに向かって飛んできた。


 僕は歯を食いしばり、逃げずにじっとボールを見つめる。よく見ると、ボールはそこまで速くはない。それに多分、ストライクではないこともわかった。しかし、僕の身体は既に打つ姿勢へと入ってしまっていた。これを止めることなんて、僕には出来ない。どうしようもないので、僕はその勢いのまま、とにかくボールをめがけて、思い切りバットを振り切ることにした。


 一瞬、何も考えない無の時間が訪れた。


 しかし、僕の目は、まるでスローモーションになったかのように、その瞬間をしっかりと捉えていた。


 気がつけば、僕の視界の背景は真っ青になっていた。そして、その中心部に浮かぶ一点の白が、空を斬っていく。


 音も、触感も、わからなかった。だけど、確かにそれは僕だった。


「げ、マジで?」


 キャッチャーの少年が立ち上がり、小さな声でそう漏らした。僕の打った球は、外野の頭を越え、ろくに整備されていないグラウンドを嬉々として転がっていく。


 マウンドで悔しそうに蹲る田畑さん。


 ここ数週間の疲れやストレスが、全て一緒になって吹き飛んでいったような、そんな爽快感に、僕は包まれた。


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