三十八話『集合されたし』
大学の最寄り駅は、一限目が最も混む。寝ぼけ眼を擦りながら、僕は学生たちの波の一部となり、改札から吐き出される。これだけの学生がいるのに比較的静かなのは、みんなまだ、頭が起きていないのだろう。大学生にとって、八時半は早朝だ。
九月も中旬に入り、大きく幅を利かせていた夏の勢いも、ようやく落ち着き始めている。それに比例するかのように、『侍じゃ』の客足も緩やかなものになり、掻き混ぜられるような日々を送っていた僕たちにも、少しばかり余裕が出てきた。
緩やかなものにこそなったものの、それでも毎日、昼時には並ぶ人が見られるほどの客は来ており、おそらく今後、隣にカレー店でも出来ない限りは、この客足で安定するのではないかと僕たちは予想していた。
ジャンヌさんはすっかり店の顔となり、僕たちとの距離も随分と縮まった。始めはあれだけ怯えていたオムさんたちも今では打ち解けているし、大洞さんは一緒に買い物などにも行っているらしい。僕も、まだ時折恐ろしく感じる瞬間こそあるものの、実際に接してみると凄くいい人で、良好な関係を築けているのではないかと思っている。
ただ一つ、ジャンヌさんは自分のことを話したがらず、ジャンヌさん自身のことについて何を訊いても、はぐらかされてしまう。なので、僕たちはジャンヌさんがどこ国の人なのか、歳はいくつなのか、学生なのか、あと個人的には、女性なのかそうでないのか、何も知らない。
田畑さんに訊いても、「本人に訊いてくれ」と言われるので、結果、わからないままでいる。まあ、そんなことを言えば、僕たちは田畑さんのこともよく知らないが、その辺りは特に気にならなくなってきた。
田畑さんがどんな人であっても、僕が知っている田畑さんは田畑さんなのだ。だからきっと、ジャンヌさんもそうなのだろう。
僕はそんなことを考えながら、駅から大学までの道を淡々と歩く。最初のうちはどこか新鮮だったこの道も、今ではすっかり慣れてしまい、ただの道路になっている。
ふと、前を歩く二人の男子学生の会話が聞こえてきた。
「それでさ、急に三人、辞めたんだよ」
「一気にってこと? どうして?」
「休憩時間なんてないのに、店長が勝手に休憩したことにするんだって」
「あー。今時、そんな噂、一気に広まるのに馬鹿だよね」
休憩時間、か。僕たちなんて給料なしでやってるよ、と思わず言いたくなる。しかし、僕はそこに対して、今のところは不満を持っていなかった。きっとそれは、オムさんとシンさんの人柄にあるのだろう。きっとその三人が辞めた本当の理由は、休憩時間ではないはずだ。
しかし、このままずっと手伝えるかと言われると、それは難しいのも事実だ。僕だってバイトをして自由に使えるお金が欲しいし、運転免許なんかも取ってみたい。大洞さんだって口では言わないものの、きっと同じようなことを思っているはずだ。
そして何よりも、最近はオムさんとシンさんがそのことを凄く気にしているようで、僕たちにかなり気を遣っている。
オムさんたちは、お世話になっている佐々木さんという方に、人を雇って貰うように頼んだらしいが、そうすぐに人手は集まらないらしく、まだしばらくは僕たちの手が必要になりそうだ。
『侍じゃ』が視界に入り、僕は店に寄っていくかどうか迷う。僕は仕込みが出来ないので特に店に寄る意味はないが、週末明けの月曜日なので一応挨拶だけしておいてもいいかもしれない。そう思い、店の扉を開けようとしたのだが、なぜか鍵がかかっていた。ノックをしても、応答はない。
一体、どうしたのだろうか。これまで、この時間に鍵がかかっていたことは一度もなかった。間違えて施錠していたとしても、二人は八時に来て仕込みをするので、ノックをすれば反応があるはずだ。
最近、朝晩が少し冷えるから、体調でも崩したのかもしれない。もしそうなら、何かしら連絡があるだろう。僕は店をあとにし、歩きだした。
教室に着き、講義の準備を終えてぼんやりとしていると、「おはよう」と息を切らした大洞さんがやってきた。時計を見ると、授業開始一分前。大洞さんは朝に弱いらしく、よくこうして時間ギリギリにやってくる。
「おはよう。今日も走ったの?」
「ちょっとね。朝の運動はキツいよー」
大洞さんは笑いながら、クリアファイルで火照った顔を扇ぐ。自然のチークで染まった頬は、妙な色気があって、思わずドキリとさせられた。僕はその気持ちから目を逸らすため、「あ、そうそう」と店のことを伝える。
「さっきさ、一言挨拶しようと店に寄ったんだけど、鍵がかかってたんだよね」
大洞さんは驚く。
「え、珍しいね。寝坊したのかな?」
「二人一緒に寝坊はしないと思うんだけど。ノックしてみたら、誰もいないみたい。ほら、最近少し冷え込んできたから、風邪でも引いたのかな、と思って」
「確かに朝寒いよね。でも、大丈夫かな? あの二人がいないと、さすがにわたしたちだけじゃお店、開けないよ」
勿論、それはそうだ。あのカレーを作れるのは、オムさんとシンさんしかいない。僕たちはあくまで、手伝いだ。
僕が「そうだね」と頷いた時、携帯電話が震えた。メールの受信だ。見てみると、それは田畑さんからだった。
「珍しい。田畑さんからメールだ」
「へえ、耕作さん。どんな内容?」
メールを開き、僕は本文を読む。
「『授業が終わったら、部室へ集合されたし』だって」
大洞さんは首を傾げる。
「なんだろうね。用事があるなら、そのままメールに書けばいいのに」
「まあ、田畑さんだから」
大洞さんは「そうだね」と納得した様子で苦笑した。
講師が教室へと入ってきて、教室から徐々に私語がなくなっていく。僕は背筋を伸ばして、気持ちを授業へと切り替えた。




