三十三話『成長』
夏季休暇が終了しても、夏はまだまだ去るつもりはないようで、むしろこれからが本番だといわんばかりに、容赦のない日差しを地上に降らしている。
後期の初日なだけあって、キャンパスは学生で溢れ返っていた。現在、一限目の最中なので、これからより一層、人の数は増えるだろう。
大学の入り口で、大洞さんは「じゃあ」と僕に頷く。
「わたしは他の学部に行くから、とりあえず本多くんは、文学部からお願いね」
「ち、ちょっと待ってよ」
僕は歩き出す大洞さんを止める。
「二人で行くんじゃないの?」
大洞さんは眉をひそめる。
「二人で固まるより、一人ずつの方が効率よくないかな?」
「まあ、それはそうだけど……」
大洞さんは「それに」と腰に手を当てて、髪を耳へとかける。
「わたしは本多くんがいるより、一人の方が効果あると思うんだけどな」
僕は「そうだね」と苦笑する。確かに、大洞さんに声をかけられたら、大抵の男子学生は無視出来ないだろう。僕がいれば、変な邪推をされかねない。
大洞さんは僕に近付くと、僕の背中を軽く叩く。
「大丈夫だよ。今の本多くんなら。じゃあ、一時に『侍じゃ』に集合ね」
大洞さんはそう言うと、颯爽とキャンパスの奥へと歩いていった。大洞さんの姿が見えなくなると、僕は深呼吸をし、大きな一歩を踏み出した。
四号館のパーソナルスペースには、冷房が効いていることもあってか、多くの学生たちの姿があった。文学部の建物なだけあって、中には見かけたことのある顔もいくつかある。
僕はその中から、まずは一人でいる人を探した。パーソナルスペースにいるのはほとんどがグループだが、やはり中には一人でいる学生もいて、携帯電話をいじっていたり、本を読んだりしている。
その中から僕は、部屋の端に座る地味そうな男子学生を見つけ、彼に狙いを絞った。見るからに気が弱そうで、こんなことを思っては何だが、僕と同じような臭いがした。彼なら大丈夫だ。そう思い、彼の元へと向かった僕だったが、ふと、その足が止まった。
この選択は果たして、正解なのだろうか。
まず、僕が彼の立場だったら、知らない学生に話しかけられるのは嫌だし、店の紹介をされたところで、一人で行く気になんてならないだろう。それに、もし彼が来てくれたとしても、たった一人だ。一人でも嬉しいのは嬉しいが、やはり複数でいる人たちに声をかけていった方が、効率もいいし、来てくれた時の効果は大きい。
そして何よりも、ここで楽な選択をしていいのだろうか。僕には既に、大洞さんを勧誘したという実績がある。一人の人間相手に声をかけるのは、もう達成しているのだ。だったら次は、より厳しい壁を、自分に課すべきではないのか。
僕は腹を括り、身体の向きを変えた。すぐ近くに、派手な服を着て、派手な化粧をし、派手に騒ぐ、五人組の女子学生グループがいる。彼女たちに声をかけることが出来れば、あとは誰にでも声をかけられそうな気がした。
心は激しく混乱を訴えているものの、頭は意外にも冷静だった。そう、ただ声をかけるだけ。それも、こんなお店があるので来てくださいと、そう笑顔で伝えるだけ。声をかけるといきなり懐から刀を取り出し、斬りつけられることなんてない。恐れるものなど、何もないのだ。
「あ、あの、」
気がつけば僕は、声を出していた。談笑していた女子学生は、一斉に僕へと視線を向ける。もう、あとには戻れない。僕は懸命に笑みを浮かべる。
「す、すみません。ちょっといいですか?」
するとその中の一人が、「もしかしてナンパ?」と笑う。
「うっそ。だとしたらマジ意外なんだけど」
「待って。わたしのお爺ちゃん、いつもこんな服着てるんだけど」
「ヤバい。じゃあミカのお爺ちゃんじゃないの、この人」
「本当に? え、もしかして名前、シゲルですか?」
女子学生たちは手を叩いて笑っている。青のシャツにジーパンだが、そんなに古臭いだろうか。僕は
「シゲルじゃないです」と強張った笑みを保ったまま、話を続ける。
「あの、大学からすぐ近くにインドカレー屋があるんですけど、ご存知ですか?」
女子学生たちは「知ってる?」、「いや、知らない」と一斉に首を横に振る。
「駅までの道に、『侍じゃ』って名前の店があるんです。外壁が緑とオレンジと白で塗られていて」
すると、彼女たちは「ああ」と大きく頷き、互いに指を差し合う。
「あそこ、インドカレーのお店だったんだ」
「えー。なんか侍っぽい人が入っていくの見たから、ショーパブか何かだと思ってた」
「全然わかんなかったよね」
僕は「実はそうなんですよ」と苦笑する。
「それでですね、今日から三百五十円で、カレーを販売することになったんです。ライスかナンかを選べて、テイクアウトも出来るので、もしよかったらぜひ、来てみてください」
「三百五十円、安っ」
「最近そういえばカレー食べてないなー」
「えっと、店員さんなんですか?」
僕は一瞬、どう答えるか迷ったものの、「いえ」と否定する。
「店員ではないんですけど、お手伝いさせて貰っています」
「へえー、何か意外」、「ね、見えないよね」
それはどういう意味だろうか、と思いながら、僕は「よろしくお願いします」と軽く頭を下げた。女子学生たちは「はーい」と頷く。
「考えておきまーす」
僕は彼女たちから離れると、大きく息を吐いた。足が地面を捉えている感覚がなく、唇の端も麻痺してしまったかのように、上手く動かない。こんなに冷房が効いているのに、耳の先がとても熱くなっている。
それでも。それでも、僕はちゃんと宣伝した。最も僕が苦手なタイプの人種であるあの女子学生たち相手に、それも一人で。とてつもない充足感と、達成感が一気に僕の身体を突き抜ける。
他の人からしたら、こんなこと、大したことではないのかもしれない。出来て当たり前なのかもしれない。しかし、僕にとってはとてつもなく大きなことで、僕の中で一つ、何かが確実に変わったのはわかった。
少しからかわれはしたものの、彼女たちは気さくに僕の話に耳を傾けてくれた。もっと馬鹿にされ、蔑まれるかと思っていたが、全くそんなことはなかった。もしかしたら、これまで彼女たちのような人間を馬鹿にし、蔑んでいたのは、僕の方だったのかもしれない。
僕は小さく息を吐き、足が地面を捉え直すのを待つ。口の感覚も、かなり戻ってきた。このままの勢いで、どんどん宣伝しなければ。インドから日本に来て頑張っている、オムさんとシンさんのためにも。
僕は身体を、男子学生の集団へと向ける。足に力を入れると、僕の足は確かに、次の一歩を踏んでいた。
「あの、すみません」
僕の明瞭な声が、喧騒の中に響き渡った。




