三十二話『光明』
八月中、最後の営業日。ミーティングをするために、僕と大洞さんは『侍じゃ』に集まっていたが、前回とは違い、店内は重苦しい空気に包まれていた。
「ごひゃくえんは、やっぱりきびしいです」
シンさんが呟くように言うと、オムさんが頷く。
「元々、あのねだんでも、がんばっていたんです」
確かに、あれから僕は色々とインドカレー屋をネットで調べてみたが、あれだけの量とボリュームがあって千百円なら、かなり安い方だった。
シンさんは顔を上げ、大洞さんを見る。
「ただ、量としなかずをへらせば、七百五十円くらいなら、なんとかなります」
大洞さんは「七百五十円ですか」と考え込むように視線を落とす。
「……うーん。やっぱりそれくらいはしますよね。でも、それでも学生を相手にするには、まだまだ高いと思います。他のお店が頑張っているだけに」
オムさんとシンさんは苦い顔で、大洞さんの言葉を聞いている。そんな鬱屈とした雰囲気を打ち消すかのように、大洞さんが「とりあえず」と明るく人差し指を立てた。
「そろそろ、お昼にしたいので、お願い出来ますか?」
オムさんとシンさんは頷き、キッチンへと向かった。しかし、その背中が丸くなっているのを見て、僕は胸が痛くなる。
「やっぱり、厳しいかな」
大洞さんは「うん」と頷く。
「それに、今は来る人がそもそも少ないから、安くするのに勇気が要るんだと思う。もし今のままの客数だと、値段を半分以下にしたら、売上もそうなっちゃうから」
今の少ない売上が、さらに半分以下。そう考えると、二人があんな表情になるのもわからなくはない。ここで僕はふと、ある疑問を抱いた。
「そういえば売上で思ったんだけど、ここって家賃とかどうしてるんだろうね」
「知り合いの人に、貸して貰ってるらしいよ。佐々木さんって言ったかな」
「え? 大洞さん、いつの間に訊いたの?」
僕が驚くと、大洞さんは「前に来た時だよ」とあっけらかんと答える。そういえば、前回の帰り際、キッチンに入って何やら話をしていたな、と思い出す。
「貸して貰ってるって、家賃を払って貸して貰ってるって意味なのかな? それとも、家賃とかなしで?」
「そこまでは訊いてないけど、多分、御好意なんじゃないかな。それか格安か。そうじゃないと、このお店の売上だと、家賃なんて払っていたらやっていけないと思う」
確かにそうか、と僕は納得する。
少しすると、三度目となるいつもと変わらないメニューが前に並んだ。僕は手を合わせて、ゆっくりと口へと運ぶ。相変わらず本格的で、何を食べても美味しい。しかし、その思いとは裏腹に、手はなかなか進まない。
飽きてきたな。
それが正直な感想だった。前回までは、何度も「美味しい」と零していた大洞さんも、一口目に言ったきりで、そこからは黙々と食べている。
時間をかけて食べ終えた時、シンさんが小さな楕円の皿を二枚、運んできた。新しく考案したメニューか、と思ったが、見ると普通のカレーライスだった。
「えっと、これは?」
僕が訊ねると、シンさんは目尻に皺を寄せて笑みを浮かべる。
「いつも私たちがたべている、まかないです。いつもはここに足していくのですが、明日からやすみなのであまってしまって。よかったらどうぞ」
田畑さんが頼んでいたあれか。明日からしばらく店を閉めるため、一旦鍋を空にするということだろう。サイズは半人前ほど。これくらいなら、まだ食べられそうだ。僕と大洞さんは「ありがとうございます」とスプーンを手に持った。
そういえば、久しく日本のカレーを食べていないな。そんなことを考えながら口に運んだ僕だったが、舌が味を捉えた瞬間、思わず顔を上げた。前の大洞さんも、驚いた表情を浮かべて僕を見ている。
僕はゆっくりとスプーンを口から引き抜くと、「これ」と感嘆の息が漏れる。
「……めちゃくちゃ美味しくない?」
大洞さんも頷く。
「わたし、冗談抜きで、今まで食べたカレーの中で一番好きかも」
辛みのずっと奥底にしっかりと甘みも残っていて、何とも言えぬ香ばしい風味が、すっと鼻腔を抜けていく。既に腹は八分目を超えているはずなのに、どうしても二口目を、スプーンで掬いにいってしまう。
そこからは一言も発さず、二人はのべつ幕なしに食べ続けた。空になった皿を前にしても、僕の口の中には、カレーの風味がしっかりと残っていて、まだ少し食べたいという欲求が湧き出てくる。
大洞さんは傍に立つシンさんを見上げる。
「これ、どうやって作ってるんですか?」
その勢いに少し戸惑いながらも、シンさんは笑顔で答える。
「えっと、きんじょのスーパーで売ってるルーに、あまった豆やこうしんりょうを足して、てきとうにつくっています」
それを聞いた大洞さんの目の色が変わった。
「これ、出せませんか?」
シンさんは「え?」と目を丸くする。大洞さんは真剣な眼差しをシンさんへと向ける。
「これなら、五百円以下で出せますよね?」
「まあ、つくるのにほとんどお金はかかっていませんから」
大洞さんは食べ終えた皿をじっと見つめながら、何かを考えている様子だ。僕たちはじっと、その様子を見守る。やがて大洞さんは顔を上げると、シンさんに向かって頷いた。
「三百五十円で出しましょう」
「三百五十円、ですか……」
シンさんは唾を飲み込み、キッチンにいたオムさんも、神妙な面持ちでこちらを見ている。大洞さんは勢いよく立ち上がる。
「勿論、量は一人前で、ライスかナンは選べるようにしましょう」
「ちょっと待って。インドカレー屋で、日本のカレーを出すの?」
「別に問題はないと思う。『インドカレー屋が本気で作る日本のカレー』みたいな売り文句をつけてさ」
大洞さんは早歩きで店を歩きながら、捲し立てるように話す。
「最初は、時間と個数に制限をつけてもいいかもしれない。十二時から十三時までの一時間とか、一日百食限定、とかで。それに、これだったらテイクアウトも簡単に出来るでしょ。一つの容器に一緒に入れればいいだけだから」
「でもそしたら、今出してるメニューが売れなくなるんじゃないの?」
「大丈夫。今の時点で、充分売れてないから」
その辛辣な言葉に、シンさんとオムさんは苦笑した。残念ながらそれは事実なので、そういった反応をするしかないのだろう。大洞さんは「それに」と続ける。
「このカレーが評判になれば、本格的な方も食べてみようって思うお客さんはたくさん出てくるはず。ランチとしては少し割高でも、ディナーとして見れば千百円はそう高くない。上手くいけば、学校帰りのディナーとしての選択肢に入るかもしれない」
確かに、夕食ならそれくらい出す人はいるだろう。実際、あのイタリアンの店も、ディナーの料金は軽く千円を超えていた。
「まずは、知って貰わないとね。人は、知らないものを評価することなんて出来ないんだから。どれだけ素晴らしくて美味しい店でも、お客さんが来なければ潰れちゃう。とりあえずは来て貰って、味を知って貰う。まずはそこからだよ」
大洞さんはオムさんとシンさんを、じっと見据える。
「三百五十円のカレーライス、やってみませんか?」
暗い顔だったシンさんとオムさんの顔に、闘志が浮かび始めている。そして二人は顔を合わせると、「やってみます」と力強く頷いた。
僕は椅子を引き、そっと胸に手を添えてみる。僕の中で膨れ上がっていた不安はいつしか萎み、期待が大きくなっているのが、掌から伝わってきた。




