三十話『デート?』
ビルが反射する陽の光に曝されながら、都会の喧騒を足早に抜けて行く。熱を抱くアスファルトに僕の影は悲鳴を上げるものの、残念ながら僕にはどうすることも出来ない。
大洞さんと待ち合わせているファミレスが、遠くに見えてきた。途端に、僕の心臓は早鐘を打ち始める。大学ではほとんどの時間、一緒にいても緊張なんてしなくなっていたのに、『学生』を脱ぐだけでどうしてこんなに、心が落ち着かなくなるのだろうか。
そんな気持ちを紛らわせるためか、僕の足取りはさらに早くなり、あっという間にファミレスへと着いた。
待ち合わせ時間の十分前。さすがにこの暑い中、大洞さんを待たせるわけにはいかない。そう思って十分前に来たのだが、既にそこには、見慣れた姿があった。
しかし僕は、その見慣れたはずの姿に、一瞬、目を奪われた。
いつものラフな恰好とは違い、淡く清涼感のある、水色のワンピース。鞄もいつも持っている渋い大きなリュックサックではなく、白く品のあるハンドバッグ。黄色い水玉模様の日傘の下には、先が巻かれた黒髪に、とても小さな顔。いつもと色は同じだが、その唇はほんのりと光沢を帯びているように見える。
僕が声をかける前に、大洞さんが僕に気がついた。
「あ、本多くんっ。久しぶりっ」
僕は「久しぶりかな」とぎこちない笑みを浮かべながら、大洞さんへと近付く。ふと、僕は視線を下げ、自分の服装を見る。皺のついたシャツに、中学生の頃から履いている色の煤けたジーンズ。さらにスニーカーは、紐の先がちぎれてしまっている。こんな恰好をしている自分が、急に恥ずかしくなってきた。
「もしかして、ちょっと待たせた?」
大洞さんは「ううん」と首を振る。
「本当、今来たところだよ。ちょっと来るの、早かったかも」
「よかった。じゃあ暑いし、中に入ろっか」
店内に入ると、一瞬、まるで冬へと迷い込んだかのような、そんな鋭い冷たさが身体を差した。しかし身体が慣れてくると、次第にそれは爽快感へと変わっていく。
「ちょっと混んでるかな」
時間はまだ昼には少し早いような気がするが、外の暑さから逃れるためだろうか、店内は満席で、待っている人も数人いる。背伸びをして店内を覗き込んでみると、そのほとんどは家族連れで、子供特有の甲高い声が、店内に騒がしく響いている。
大洞さんは「ほんとだね」と頷き、「でも」と僕に笑みを向ける。
「何だか、夏休みって感じがして、わくわくしない?」
「まあ、なんとなくわかるかも」
わくわくはしないが、この混雑具合と子供たちの無邪気な声を聞いていると、かつての夏休みを思い出し、ふと、懐旧の念に駆られてしまう。今、僕も彼らと同じく夏休みを過ごしているはずなのに、あの頃の全てを脱ぎ捨てたような開放感は抱けていない。
一体、この感覚の変化は、何が変わったからなのだろうか。
そんなことを考えていると、数組の家族連れが同時に会計を済ませ、幸運にも僕たちはほとんど待つことなく、席に着くことが出来た。
二人掛けのテーブル席に座ると、大洞さんはメニュー表をパラパラと捲りながら、何やら眉間に皺を寄せてうんうんと頷いている。
「えっと、どうかした?」
僕が苦笑して訊ねると、大洞さんは「やっぱりさ」と真剣な表情を浮かべる。
「あのメニューじゃ、駄目だと思うんだよね」
「ああ、『侍じゃ』のこと?」
「うん。味は美味しいけど、あの店に来るお客さんって、ほとんどが学生でしょ。学生を相手にするには高過ぎるし、メニューも学生向きではないと思う」
「高いのは、僕も思った。値段、どれくらいがいいんだろうね」
僕が首を傾げると、大洞さんは「五百円以下だよ」と即答する。
「かなりリーズナブルな食堂が学校の中にあるから、それ以上だとかなり割高に感じてしまって、みんな食堂に行っちゃうと思う。あの通りにあるお店は、どこもランチはそれくらいの値段で出してるよ。あのイタリアンですら、ランチはワンコインだし」
ワンコインか。今が千百円なので、半分以下で提供しなければならないことになる。それはかなり厳しいのではないか。
「それに、あのメニューだと、女の子はちょっと食べ辛いかもしれない」
「そう? 僕は特に感じなかったけど」
大洞さんは白い目で僕を見る。
「女の子は、って言ったでしょ。でも、男の人でも嫌な人は嫌だと思う。ほら、メニューの中に、手で食べるものが二つあるでしょ。ナンとタンドリーチキン。でも、あのお店、御手洗いがないから、手を洗えない。おしぼりは出てくるけど、やっぱり手を使って何かを食べる前は、ちゃんと手を洗いたいと思うの」
なるほど、確かにそれはそうかもしれない。だからあの時、大洞さんは田畑さんに、オムさんとシンさんが出てきた部屋が、御手洗いではないのかと訊ねていたのか。
大洞さんは「それに」と続ける。
「特にタンドリーチキンは、手が汚れるし、食べている姿ってあんまり綺麗じゃないよね。女の子同士で来るならまだいいけど、例えばテーブル席で、男の子と向かい合って一緒に食べるのは、かなり嫌かも。化粧も気になるし」
「僕はあんまり気にしないけど」
大洞さんに睨まれたので、僕は「ごめんなさい」とすぐに謝る。
「……まあでも、ああいうのってナイフとフォークがあっても食べ辛いし、難しいね。ランチのメニューは、ちょっと考えた方がいいかもしれない」
考えると言っても、僕たちが作るわけではないので、そこはシンさんたちと煮詰めていく必要がありそうだ。
僕たちは少し早めの昼食を注文すると、話を再開する。
「僕は、あのお店の名前もどうかと思うんだけど」
しかし、大洞さんは「うーん」と首を捻る。
「どうだろうね。お店の名前って、そこまで重要じゃないとわたしは思うけど。それよりも、外観から何のお店かがわからないのが問題だと思う」
「僕も、入るまでは何屋さんなのか、わからなかったよ」
僕が苦笑すると、大洞さんは「わたしも」と笑う。
「多分、ほとんどの学生は、あそこがインドカレー屋さんってこと、知らないと思うの。みんな、得体の知れない店だって思ってるよ、きっと」
「じゃあ、店の前に看板か何かを置いた方がいいかな」
「うん。それと、お店の扉は開けておいてもいいかも。ほら、あのお店って窓がないでしょ。外から見て、中の雰囲気が窺えるようにした方が、入る方も安心して入れると思う。格式高い店ってわけでもないんだし」
「冷房もないしね」
大洞さんは「そうだね」と苦笑する。
しかし、それは意外と大事なことなのではないかと思った。中がどうなっているかわからない扉を開ける時の、あの独特な緊張感は、僕も大嫌いだ。人間はわからないことに大きな不安を覚える。食事はある意味、人間が最も無防備になる瞬間なのだから、それを得体の知れぬところで取ることは、本能が避けるのではないだろうか。少なくとも、僕なら入りたいとは思わない。
大洞さんは「それと」と人差し指を立てる。
「設備がどうかわからないから何とも言えないけど、お店の前でカレーを作る、なんて出来ないのかな?」
「前って、外でってこと?」
「うん。お店の前に、ちょとスペースあるでしょ。あそこでカレーを作れれば、いい匂いがすると思うんだよね」
匂い、か。確かにそれも大事かもしれない。特にカレーは、食欲をそそる香りとしては、食べものの中でもかなり上位にくるものだろう。僕もよく、カレーを作っている家の近くを通ると、ふとカレーを食べたくなったりする。
僕はふと、あることを思いついた。
「だったらさ、そのまま外で売れたらいいんじゃない? ほら、昼時って結構混んでて、お店で食べるの嫌がる人っているじゃん。まあ、まさに僕がそうなんだけど」
「あ、わかった。テイクアウトってこと?」
「そう。そういう人は、コンビニで昼食を買って、教室で食べたりするけど、ずっとコンビニじゃやっぱり飽きてくるんだよね。だから、カレーをテイクアウト出来れば、選択肢としては魅力的だと思うんだけど」
大洞さんは「なるほどね」と虚空に視線を浮かべて頷く。
「でも、あのメニューだとどうなのかな。……まあそれも、オムさんとシンさんと相談して、決めていきたいね」
大洞さんはそう言って僕をじっと見ると、ふっと笑みを零した。
「何、もしかして何かついてる?」
僕は手で唇の端を触ってみるも、何かがついている様子はない。大洞さんは「いや」と首を振る。
「そうじゃなくて、考え出すと、結構出てくるなって思って」
「まあ、言っちゃ悪いけど、あのお店の現状が酷いからね」
出来ることは全てした上で客が来ない店なら僕たちも困っただろうが、『侍じゃ』は他の店が当たり前にやっていることすら出来ていない。だから、こうして僕たちが少し考えるだけで、改善点や出来ることが次々と見えてくる。
大洞さんは小さく息を吐き、窓の外に遠い目を向ける。
「……もしかしたら、頑張れば本当に、何とかなるかも」
「まあ、そんなに甘くはないと思うけどね」
大洞さんは「本多くん」と冷たい目で僕を見た。その顔が冗談ではなかったので、僕は「ごめん」とすぐに謝る。
頼んだメニューが運ばれてくると、大洞さんは「そうだ」と目を開く。
「本多くんって、これから暇?」
「僕? まあ、特に予定はないけど……」
それを聞いた大洞さんの顔が、一瞬、悪い顔になり、僕は嫌な予感がした。大洞さんの身体が、僅かに前のめりになる。
「あのさ、これから買い物に行こうと思うんだけど、ついて来てくれない?」
「買い物? 何を買うの?」
「まだ決まってないけど、色々、見たいものがあるから」
僕は「うーん」と、悩む。人混みは苦手だし、僕は今、欲しいものなんてない。大方、荷物持ちになるのは目に見えている。
すると大洞さんが、「なんで悩むかなー」と唇を尖らせる。
「わたしと二人っきりで買い物が出来るんだよ? そんなの、二つ返事でオッケーしてくれないと。……とか言ってみたりして」
その言葉に、僕は驚いた。しかし、言った本人は顔を真っ赤にして、俯いている。それを見た僕は、断る気になれなかった。
「わかった。付き合うよ」
頬を染めた大洞さんは顔を上げ、「本当に?」と喜んだ。
僕の心のずっと奥で、何かが動いたような、そんな気がした。




