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侍に誘われて  作者: ゆず
第一章~侍に誘われて~
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三話『お鶴さんと日本文化研究会』

 僕は「え、えっと」と、真っ白な頭から何とか言葉を絞り出す。


「あ、怪しい者じゃありません。その、新入生で、どこに教室があるのかまだよくわかっていなくて、迷ってしまって」


 女性は怪訝な表情を浮かべ、首を傾げる。


「言い訳にしては、少し無理があると思うけど」

「で、でも、本当に怪しい者じゃないんです。信じてください」

「それって怪しい人が言う台詞だけどね」


 僕はそれ以上、何も言い返せなかった。そもそも、僕たちは勝手に入り込んでいる身なので、何を言っても言い訳にしかならない。


 僕が黙っていると、田畑が上半身をもたげ、女性に身体を向ける。すると、田畑を見つけた女性が、安堵したような表情を浮かべた。


「……なんだ。耕作の連れか」

「なんだとはなんだ」


 女性は部屋に入ってくると、手を洗い、田畑の座るソファーの端へと腰掛けた。僕はここが何なのか、そしてこの女性は誰なのか、二人の関係性は何なのか、次から次へと疑問が溢れてきて、頭が混乱する。


 女性は僕を一瞥すると、「で?」と田畑に訊ねる。


「この、木の実を食べて生きてそうな男の子は誰なの?」


 田畑が「新入部員だ」と言下に返すと、女性は「なるほど」と納得した様子で頷いた。


「そう。じゃあ、自己紹介しておくか。えっと、あたしは文学部外国語学科の三年生、じゃなかった。四年生の中沢鶴。まあ多分一年だけだけど、よろしくね」

「『お鶴』って呼んであげてくれ。全員そう呼んでる」


 田畑のその言葉に、女性は顔をしかめる。


「その呼び方、あたしは気に入ってないんだけど」

「いいじゃないか。私は好きだが」

「だから嫌なのよ。……まあ別にいいけど、せめて『お鶴さん』にしなさいよ」


 女性、お鶴さんに軽く睨まれ、僕は「は、はい」と背筋を伸ばした。お鶴さんは小さく息を吐くと、「それで?」と顎を上げる。


「あんたの名前は?」

「ぼ、僕ですか。僕は本多武蔵って言います。文学部日本文学科の一年生です」


 お鶴さんは、口の端に薄っすらと笑みを浮かべる。


「へえ、いい名前じゃん。どこかの誰かさんより、よっぽど侍っぽい」

「それは私のことを言っているのか?」

「当たり前でしょ。そんな恰好してるくせに、日本で一番、侍っぽくない名前してるんだから」


 田畑は何も言い返せないようで、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。確かに、『田畑耕作』から侍の要素は欠片も感じられない。なんなら名前だけ見ると、とても美味しい野菜でも作っていそうだ。


 いや、今はそんなことはどうだっていい。僕は「あの」と二人に訊ねる。


「ここって、どんな同好会なんですか?」


 それを聞いたお鶴さんは目を丸くする。


「何? 知らないで入ろうと思ったの?」

「いえ、そもそも入るとは言っていないです。その、勝手に……」


 僕が田畑を見ると、お鶴さんは「ああ」と呆れたような表情を浮かべる。


「耕作、あんた今年もまた、勝手に連れてきたんでしょ」

「いや、そいつが勝手についてきたんだ」


 お鶴さんが僕を見たので、僕は必死に首を左右に振る。お鶴さんは田畑の後頭部を手の甲で小突く。


「あのね、連れてくるのは構わないけれど、ちゃんと説明しなさいよ」

「じゃあしてくれ。私はちょっと仮眠する」


 田畑はそう言うと、身体を横に向け、わざとらしい寝息を立て始めた。お鶴さんは溜息を吐くと、おもむろに立ち上がって冷蔵庫に向かう。そしてその中からパックの牛乳を取り出すと、腰に手を当て、直に口をつけて飲み始めた。


 お鶴さんの喉がポンプのように上下し、豪快な音が部屋に響く。僕がその様子を唖然として見つめていると、その視線に気がついたお鶴さんが、僕に牛乳を差し出した。


「何? 欲しいの?」


 僕は慌てて「い、いえ」と否定する。


「結構です。その……、美味しそうに飲まれるな、と思って。それに、女性が牛乳を飲むってあまりイメージがないので」

「飲み方に品がないのは大目に見て。あたし、六人兄弟の末っ子なんだ。上は全部男だったから、がさつに育っちゃってさ」


 六人兄弟で、上の五人が男。僕は思わず、鳥肌が立った。五人目が男の子だとわかった時の、ご両親の反応をぜひとも見てみたい。


 お鶴さんは牛乳を冷蔵庫へと仕舞うと、ソファーの背もたれへと腰をかける。


「それで、あんたがここにいる経緯は?」

「えっと、一限目が終わって、これからどうしようかと思ったら、その人に……」

「馴れ馴れしく声をかけられたわけだ」


 僕は「はい」と頷く。


「それで、ここに連れてこられて」

「どうして断らなかったの?」


 真顔でそう訊ねられ、僕は答えに窮する。


「えっと、断る間もなかったと言いますか……」

「何それ。耕作が悪い奴だったらどうしたのよ」

「確かにそうですよね……」


 僕が視線を下げると、お鶴さんは小さく息を吐いた。


「まあ、いいけど。じゃあ、本当にここが何なのか、全くわかっていないってことね。って言っても、別に説明することなんてないんだけどね。ここ、ただの溜まり場だし」

「溜まり場、ですか?」

「そう。一応、名目上は、『日本文化研究会』ってことになってるけど、実際にその活動をしている奴なんていない。日本文化研究会は、この部屋を大学から借りるために、耕作がでっちあげた同好会らしいから」

「ち、ちょっと待ってください」


 僕はお鶴さんに掌を向ける。


「この人、新入生ですよね。それなのに同好会を?」


 僕が田畑を指差すと、お鶴さんは「ああ、違う違う」と手を左右に振る。


「これ、新入生じゃないから」

「え? 違うのですか?」


 驚く僕を見て、お鶴さんは笑う。


「うん。あれでしょ。どうせまた、全く関係のない授業に顔を出していたんでしょ」

「は、はい。英語の授業に」


 お鶴さんは呆れながらも、小さな笑みを浮かべる。


「よく出没するんだよ。ここ、特に文学部じゃ有名なんだ」

「えっと、どうしてそんなことを?」


 お鶴さんは「さあ」と首を傾げる。


「多分、ただの暇潰しだと思うけど」


 暇潰し。そんな理由で取っていない授業に参加していたのか、と僕は絶句する。


「ちょっと待ってください。じゃあこの人は一体、何年生なんですか?」


 その問いかけに、お鶴さんは眉をひそめて視線を斜めへと上げた。


「何年生なんだろ。あたしもわからない」

「わからないんですか?」

「うん。耕作は自分のことを話さないし、訊いても教えてくれないし。ただ、あたしが入学した時には既にここにいたけど。あ、でも、その時の四年生の先輩も、入学した時には既に耕作がいたって言ってたような気がするな」


 僕はその事実に、まさに開いた口が塞がらなかった。それは一体、いくつ年上になるのだろうか。というより、そもそも本当にこの大学の学生なのかどうかすら疑問だ。

 

 そして僕は、ある事実に気がついて、顔がひきつる。


「……あの、僕、田畑さんに思いっきりため口を使っていました」


 しかし、お鶴さんは「いいよ」と笑う。


「こいつ、そういうの気にしないから。見ての通り、あたしだって耕作には敬語なんて使わないし、こいつ自身、どれだけ目上の人が相手でもため口だから。こいつは多分、総理大臣が相手でもため口を使う」


 それを聞いて、僕は胸を撫で下ろした。そして、今度からはきちんと敬語を使おうと心に決める。いくら田畑が、いや、田畑さんが言葉遣いに無関心な人であっても、さすがに年上に向かってため口は使えない。


「えっと、ではここは、特に活動らしい活動はしていないのですか?」

「うーん。まあ、決まった活動ってのはないかな。ただ、『人助け』はよくしてるけど」

「人助け、ですか?」

「そう。耕作がどこからか困っている人を見つけてきては、この同好会のメンバーで何とかしてあげるの」

「どうしてそんなことを?」


 お鶴さんは肩を竦める。


「さあ。本人に訊いて。あたしたちは自発的にやっているわけじゃなくて、いつも耕作に巻き込まれているだけだから」


 巻き込まれているだけ。しかしお鶴さんの表情からは、それに迷惑しているといった感情は窺えない。僕は、顎を引いて訊ねる。


「……その、嫌じゃないのですか?」

「嫌って何が?」

「それって、田畑さんが拾ってきた面倒事に、この同好会の人たちが付き合わされるってことですよね。

それに対して、不満に思ったりはしないのかなと思って」


 お鶴さんは眉間に皺を寄せ、視線を上げる。


「うーん。不満に思ったことなんてないかな。そもそも、面倒事だなんて思わないし、困っている人がいたら助けてあげたくなるのは、人として普通のことだと思うんだけど」


 責めるような口調ではないものの、その言葉は僕の心に嫌な角度で刺さった。お鶴さんは「それに」と柔らかい眼差しを宙へと浮かべる。


「あたしだって普段、色んな人たちに助けられて生きているわけだしね。ま、お互い様ってことよ」


 お鶴さんはそう言うと、テーブルの上にあった一枚の紙を僕の方に寄せ、次いで床に落ちていたペンを手に取った。そして、そのペンを僕へと向ける。


「で、どうする? 別に同好会、入っても入らなくてもどっちでもいいけど。ってか強制なんて出来ないしさ。まあでも、入るならここに学部と学籍番号、あと名前を書いてよ」


 僕は向けられたペン先をじっと見つめる。


 名前は日本文化研究会。決まった活動はしていないものの、時折、人助けに駆られる時がある。今、この同好会についてわかっているのは、それくらいだ。ただ、それだけでは情報が少な過ぎて、判断は難しい。僕はさらなる情報を求めて、質問する。


「え、えっと、ここは大体、どれくらいの数のメンバーが所属しているのですか?」

「さあ、勝手に来て、いつの間にか居なくなる奴もいるから、正確な人数はわからないけど、十人から二十人くらいはいるんじゃないの。ここは去る者追わず、来る者拒まずがモットーだから」


 十人から二十人。随分と大雑把だが、多くもなく、少なくもなくと言ったところか。しかし、去る者追わずというのはとても魅力的に聞こえた。


「えっと、他にはどんな人が?」

「うーんとね。変な奴ばっかり」

「変な奴、ですか?」


 僕が顎を引くと、お鶴さんは豪快に笑う。


「本人たちは至って真面目なんだけどね。まあ、世間からは白い目で見られる奴が多いのは事実かな。侍然り、忍者然り」

「に、忍者までいるんですか?」

「うん。ま、いつか会うと思うよ。見たら一瞬でわかるから」


 それって忍者としてどうなのだろうか。しかし、侍だけではなく忍者までいるなんて。怖いもの見たさで少し見てみたいような気もする。


 お鶴さんは「あたしも」と髪を耳へとかける。


「他だと居心地が悪い思いをすることもあるんだけど、ここだと、自分の目標を馬鹿にされたりしないから、よく顔を出すんだ」

「……馬鹿にされる目標、ですか?」


 僕が眉をひそめると、お鶴さんは「そう」と小さく笑う。


「あたし、ハリウッド女優になりたいんだ」


 その予想外の返答に、僕は思わず「え?」と間抜けな声を出してしまった。お鶴さんは鋭利な眼差しで窓の外を見つめる。


「冗談じゃないよ。あたしは、本気でハリウッド女優になりたいんだ。……いや、絶対になるんだ」


 その顔には、お鶴さんの強い決意が溢れ出ていた。


 ハリウッド女優になりたい。


 僕はこれまで、そこまでの大きな夢を堂々と発言する人と会ったことがなかったので、どう反応していいのかわからずに、黙り込んでしまう。


 遠くで雀が囀る声。


 お鶴さんは鼻から深く息を吐き、肩を竦める。


「……ほら、馬鹿にされる理由、わかるでしょ?」


 僕は「いえ」と首を振ったものの、浮かべている笑顔が強張っているのは自分でもわかった。お鶴さんは「でも」と、眠る田畑さんを慈しむような目で見下ろす。


「あたしのハリウッド女優になりたい夢なんて、他の奴らに比べたらずっと現実的だから、頑張ればなれるんじゃないかって、ここにいると不思議とそう思えるんだよね」

「他の方にも、大きな夢があるのですか?」

「まあ、夢っていうか、そうだね。例えば耕作は、侍になりたいんだって。なんで侍になりたいかは、あたしも知らないけど」


 僕は口を開けながら頷く。だからこの人は、こんな侍のような恰好をしているのか。それにしても、一体どうやったら侍になれるのだろうか。そもそも、『侍になる』という定義がよくわからない。


 お鶴さんは指を折っていく。


「他にも、本気で忍者になりたい子や、埋蔵金を探してる奴、アメリカの大統領を目指している奴から、野球経験がないのに毎年独立リーグのトライアウトを受けてる奴なんかもいる。ここには世間だと鼻で笑われるような奴がたくさんいるんだけど、全員本気でその目標に向かって生きているから、みんな、他の人の生き様を笑ったりなんて絶対にしない」


 お鶴さんは僕の眉間の先にペンを向けると、「だから」と僕の目の奥を見据える。


「あんたがここに入るのなら、あたしは歓迎するけど、もしあんたがここにいる奴らのことを馬鹿にした

り、見下したりしたら、あたしがあんたを殺すから」


 その物騒な言葉に、僕は思わず唾を飲み込み、小刻みに頷いた。それを見たお鶴さんは小さく噴き出すと、僕の肩を軽く小突く。


「そんな怯えた顔をしないでよ。半分冗談だから」


 半分本気なのか、と僕は苦笑する。するとお鶴さんは、僕に紙を手渡す。


「まあ別に、今書かなくてもいいよ。持ち帰って考えて、もし入る気があるならここに持ってくるか、耕作にでも渡してくれればいいから」


 僕は紙を受け取り、視線を落とす。同好会か。サークルや同好会には、興味はあったものの、多分入れないだろうなと思っていたので、僕は迷う。


「……期限はないのですか?」

「うん。別にないよ。だってただの同好会だもん」


 ならお鶴さんの言う通り、持ち帰ってからゆっくりと決めるか。僕がそう思った時、突然田畑さんが上半身をもたげ、「駄目だ」と僕の手元を指差した。


「入るのなら、今、記入しろ」

 

 僕が「え?」と戸惑っていると、田畑さんはお鶴さんの手からペンを取り、僕へと差し出す。


「何を迷うことがあるんだ? 名前を書けばいいだけではないか」

「いや、でも、ちょっと考えたいので」

「どうしてだ? ここは去る者は追わないのだぞ。入ってみて、嫌だったら勝手に辞めればいいだろう」


 お鶴さんは「確かにね」と笑う。


「去る者を追わないってのは、本当だよ。さっきも言ったけど、ここにいる奴らはそれぞれ目の前のことに必死で、いちいち他人の人生に口を出すほど暇じゃないから」


 僕は田畑さんの手からペンを受け取る。しかし、優柔不断な僕は、なかなかそのペン先を紙へとつけることが出来ない。


 正直、サークルや同好会には入りたかった。華のある大学生活を送りたいし、友人や知り合いもたくさん作りたい。出来れば、人生で初めての彼女だって欲しい。そのためには、サークルや同好会に入っていた方がいいということくらいは、僕にもわかる。


 一方、不安もあった。面白いことが言えるわけでも、出来るわけでもない僕が、そういったものに入ったら、場の雰囲気を壊してしまうのではないか。そして、嫌われてしまうのではないか。お酒をすすめられたら僕は断れないだろうし、嫌な人がいても辞める勇気が出ないかもしれない。それに、ここは去る者を追わないとは言っても、この同好会を辞めたという事実は残る。キャンパス内でこの同好会の人と会う度に、白い目で見られるのではないか。


 考えれば考えるほど、僕の中の不安は膨らんでいく。


 やがて、一向に書かない僕に愛想を尽かしたのか、田畑さんは短い鼻息を吐いた。


「まあ、好きにすればよい。ただ、こんなことでうじうじと悩んでいるようでは、これからの激動の時代を生きては行けぬだろうがな」

「何、激動の時代って」


 お鶴さんが呆れた様子で言うと、田畑さんは「すぐそこまで来ているのだ」と目を細めた。お鶴さんは「何だそれ」と呆れるように小さく笑う。


 そんな二人の間にいると、僕はなぜだか惨めな気持ちになってきた。ハリウッド女優になると宣言するお鶴さんと、侍になるため、侍の恰好をしている田畑さん。それに対して、僕は同好会に入ることで逡巡している。


 これではまるで、僕がとてもつまらない人間みたいではないか。いや、実際に僕は中身も何もない、ちっぽけな人間なのだが、それでもずっとそうでありたいわけではない。

 変わりたい、のか。


 もしかしたら、僕は大学生活を通して、自分の中の何かを変えたいのかもしれない。それが何かはまだ全く見えていないが、そんな気持ちが沸々と湧き出てきた。


 僕はペンを持つ手に力を入れ、深く息を吸った。そしてそれを吐き出すと同時に、真っ白な世界に自分の名前を書き込んでいく。親から貰った、勇ましい名前を。


 田畑さんが、口許にほんの小さな笑みを浮かべたように、僕には見えた。お鶴さんは僕から紙を受け取ると、「じゃあ」と軽く手を叩く。


「入会ってことでいいのね?」


 僕は「はい」と小さく頷いた。


 入ってしまった。


 日本文化研究会。しかしながらそれは表面上の名称であって、日本文化の研究など全くしておらず、その内実は正直、まだほとんどわかっていない。現時点でわかっているのは、侍になりたい謎の人物とハリウッド女優の卵がいること、そして、時折人助けをするということだけ。要するに、よくわからない変な同好会。そんなところに、僕は入ってしまった。


 鎮まっていた心臓の音が、どうしてかまた、早鐘を打ち始めている。もしかしたらこれからの大学生活を大きく左右する決断を、僕は今、僕らしくない思考で決めてしまったのかもしれない。


 そうだ。嫌なら辞めればいい。僕はそう自分に言い聞かせ、そっと胸に手を当てる。しかし鼓動は、既にそんな場所にはなかった。耳のずっとすぐ近くで、まるではしゃぐような音を立てている。これまでに味わったことのない感覚が、僕の足の先から頭の先までを、支配している。この感じは一体、何なのだろうか。


 お鶴さんは腕時計に視線を落とすと、「あ」と僅かに目を開く。


「いけない。あたし、これからオーディションがあるんだった」

 田畑さんは眉をひそめる。


「だったらどうして、ここに来たんだ?」

「耕作に会っとこうと思ってさ。ほら、あんたを見ると、緊張感が和らぐんだよね」

「それは褒められていると解釈していいのか?」


 お鶴さんは「勿論」と笑うと、「じゃあね」と僕に手を振り、小走りで部屋を出て行った。僕はその大きな背中に、「が、頑張ってください」と精一杯の大きな声を届けた。それが届いたかはわからないが、届いていたらいいなと思った。


 沈黙が降りる部屋の中、どうしてか、田畑さんはじっと無表情で僕を見る。僕はどこに視線を向けていいのかわからず、天井から床へと、視線を散らす。やがて田畑さんは唇をほとんど動かさずに、「武蔵」と僕の名前を呼んだ。


「お主、今日の予定はどうなっておる?」

「一応、三限目までは何もないですけど」


 それを聞いた田畑さんは、「よし」と小さく頷くと、「行くぞ」とテーブルの二本の刀を手に取り、扉へと向かって歩き始めた。僕は「ちょっと待ってください」と田畑さんを呼び止める。


「行くって、どこにですか?」

「どこって、人助けだ」

「これからですか?」


 田畑さんは「ああ」と言うと、刀を帯へと差し込み、鞘についている紐のようなものを帯へと結び付けて固定した。そして、その上から風呂敷のようなものを被せて、刀全体を包み込む。落ちないようにするためだろうか。


 部室を出た田畑さんは、袴の中から鍵を取り出し、扉を施錠する。


「人助けって、一体何を?」


 僕が田畑さんに訊ねるも、田畑さんは「来ればわかる」とまたもや具体的な返事をせずに歩き出す。僕の中で、大きな不安と少しの好奇心がぶつかり、一筋の汗となって首筋をゆっくりと這っていく。


 僕は小さく溜息を吐き、田畑さんの髷を追いかけた。



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