十八話『間接キス』
等間隔に聞こえる寝息。大洞さんはお鶴さんの身体からそっと膝を引き抜くと、お鶴さんの身体にタオルケットを優しくかけた。
「もう、眠ったかな?」
大洞さんは「うん」と頷く。僕が「何か飲む?」と訊ねると、「お水を貰おうかな」と大洞さんは微笑んだ。
僕が冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターをコップに入れて手渡すと、大洞さんはそれを両手で持ち、ゆっくりと飲んでいく。そして、一度も息をつかないままそのまま飲み干すと、今度は大きな息を吐いた。
「ありがとう。本多くんも飲めば?」
そう言って、大洞さんは僕へと空になったコップを手渡した。僕は「そうだね」とそのコップを受け取ると、別のコップを用意して水を飲んだ。実はずっと喉が渇いていたのだが、大洞さんよりも先に飲むのは気が引けたので、我慢していたのだ。久しぶりに取った水分は、濁流のように身体の中を駆け抜けていく。
コップの底から視線を外すと、なぜか、大洞さんがじっと僕を見ていた。
「えっと、どうかした?」
僕がそう訊ねると、大洞さんは自身が飲んでいたコップに視線を向けた。もしかして、足りなかったのか。
「あ、まだ飲む? 飲むなら、入れるけど」
しかし、大洞さんは左右に首を振る。
「ううん。もう大丈夫」
それでもまだ、何かを言いたげな表情。そして、その小さな唇が開かれる。
「……どうして、コップを替えたの?」
その予想外の問いかけに、僕は「え?」と抜けた声が出る。大洞さんは少し怒ったような顔で、僕の目を真っすぐ見つめる。
「どうして、わざわざコップを替えたのかな、と思って」
「いや、だって、大洞さんが飲んだやつだから」
「だから、何なの?」
いつもの穏やかな大洞さんとは違い、問い詰めるような口調。僕は一体、何をしたのだろうかと冷や汗を掻きながら、探り探りに答える。
「……えっと、嫌かな、と思って」
「嫌って、何が?」
「その、大洞さんが口をつけたものを、僕が使うことが」
「わたしが嫌がるってこと? どうしてそう思ったの?」
矢継ぎ早に飛んでくる質問に、僕は困惑を隠せない。
「……女の人は、普通は嫌がると思うんだけど。違うかな?」
「それは相手によるよ。でも、わたしは本多くんに、わたしが使ったコップを手渡しした上で、『本多くんも飲めば?』って言ったでしょ。それは、いいって意思表示だと思うんだけど」
大洞さんはソファーからゆっくり立ち上がると、僕へと近付いてくる。僕はいつもと違う大洞さんの雰囲気に、何だか怖くなってくる。
「ご、ごめん。全く何も考えていなかったよ。無意識に、コップを替えたんだ。本当、無意識に」
そもそも、大洞さんは何に怒っているのだろうか。大洞さんが口をつけたコップを僕が使って、それで怒るのなら理解出来るが、コップを替えて怒られるというのは、残念ながら今の僕には、何が何だかさっぱりわからない。
大洞さんは真剣な表情で、その距離を詰めてくる。僕は立っていられなくなり、ずるずると壁を背中が這い、やがて尻が床へと着く。
「無意識ってことは、あの瞬間、何も考えなかったってこと? わたしのことを、意識しなかったってこと?」
「意識って……。大洞さん、どうしたの? 大丈夫? もしかして、熱でもあるんじゃないの? 外、暑かったし」
僕がそう言って乾いた笑みを浮かべるものの、大洞さんの表情は変わらず、やがて大洞さんの影に僕がすっぽりと入ってしまうほど、その距離は小さくなった。
「ねえ、本多くん」
囁くような大洞さんの声。僕はその恐ろしい声に、唾を飲まされる。
「……本多くんは、わたしのこと、好きじゃないの?」
その抑揚のない冷たい声と、妖艶で危険に濁った瞳が、僕の全身にこれまで味わったことのない、不思議な戦慄を走らせた。
今、一体、何が起きているのか。
とりあえず整理しなければとは思うものの、狼狽してしまって、何の言葉も浮かんでこない。
その時、「ハッックショイコラボケーっ」とお鶴さんの大きなくしゃみが部室に響き渡り、それに驚いた大洞さんが、目を見開いた。そして、まるで我に返ったかのように僕と目が合うと、慌てて後ろに下がって、一旦視線をお鶴さんへと向ける。お鶴さんは寝返りを打つと、また寝息を立て始める。
大洞さんはもう一度僕を見ると、「……ごめん」と頭を下げた。その目がいつもの大洞さんのものに戻っていたので、僕は安心し、そして苦笑する。
「いや、大丈夫だよ。それより、大丈夫? 具合、悪いんじゃないの?」
よく見ると、冷房が効いているにも関わらず、大洞さんの額には汗が滲み、前髪が海藻のように貼りついてしまっている。僕だったら悲惨な姿になっていただろうが、さすがは大洞さん。前髪がそんなことになっていても、しっかりと可愛らしさは維持されている。
大洞さんは首筋に手を当てると、「もしかしたら」と力なく笑う。
「ちょっと、頭がぼんやりするかも」
「だったら、横になっていた方がいいよ」
「じゃあ、ちょっとだけ休もうかな」
大洞さんはソファーの空いたスペースへと腰掛けると、頭を背もたれへとつけ、じっと壁を見つめる。そしてもう一度、「……ごめんね」と謝ると、そのままそっと目を閉じた。
部屋には冷房の作動音だけが、静かに響いている。それなのに僕はどうしてか、酷く落ち着かなかった。




