十五話『三ヶ月』
大学入学から三カ月。人間、三カ月もすれば大抵のものに慣れてきて、そしてだれてくる。四月には人で溢れ返っていたキャンパス内も、今では時間帯によっては閑散とするほどになっている。
しかしお鶴さんが言うには、試験が近付くとまた人が増えてくるらしいので、広々と道を歩けるのを、今のうちに楽しんでおいた方がいいのかもしれない。
隣を歩く大洞さんが、携帯電話で時間を確認する。
「ちょっと早いけど、教室、行ってようか。そろそろ人も多くなってくるだろうし」
僕は「そうだね」と頷く。今ではすっかり、大洞さんとこうして歩くのも慣れてきた。始めは訝しい目で僕のことを見ていた他の学生たちも、僕たちが恋仲にあるわけではなく、同じ同好会に所属しているために一緒にいるだけだと認識したらしく、そういった目を向けてくることもなくなった。
その一方、最近では、別の特異な目を向けられるようになってきた。お鶴さんがかつて言った通り、田畑さんと日本文化研究会の存在を理解する新入生が増え始め、僕と大洞さんがその『変人が集まる同好会』に所属しているという情報も、どうやら浸透してきているようだ。
しかし、やはり噂というのは綿菓子のようなもので、回れば回るほど、どんどん大きくなっていく。学生たちの間では、日本文化研究会のメンバーはみんなぶっ飛んでいるなんて情報が当然の如く流布されているが、実際はそうではない。僕はこの三カ月の間に、数人のメンバーと会ったが、みんな思っていたよりは普通で、結局のところ、田畑さんを超えるインパクトのある人は、今のところいなかった。
ただ一つ、確かに彼らには、他の大多数の学生とは違うところがあった。
それは、彼らはみんな、『確固たる自分』を持っていて、自分自身に大きな自信と全力の熱意があるということだ。それは侍然り、ハリウッド女優然り。そして僕は未だ、その大多数の学生の中にしっかりと埋もれている。
教室に入ると、冷えた空気が僕たちを出迎えてくれた。今は心地良いものの、講義中に寒くなってきそうだ。
僕たちは教室の中列、端の席に着いた。『日本美術史Ⅰ』というこの講義は、お爺ちゃん教授が九十分間、授業に関係あることないこと、好きなだけ捲し立てるように話す。一番前に座っていると、何度も質問される羽目になるので、僕たちはこうして真ん中の列に座るようになった。
「誰も前に行かないね」
大洞さんが誰も座らない前方の席を見て苦笑する。
「そりゃみんな、当てられたくないだろうから」
「授業に関係のあることなら、わたしは前に座ってもいいんだけどな。ほとんど、関係のない質問ばっかりなんだもん」
「でも、この様子だと、マイクを持って真ん中に立つんじゃないかな。前みたいに」
「ああ、あったね。でも、気持ちはわからなくはないかも。多分、一人で話していると、虚しくなっちゃうんだと思う」
確かに、自分が話すことに誰も反応しないと、それは辛い時間になるだろうな、と僕は自分が教壇に立つ場面を想像して、一人で勝手に慄く。
「あ、先生来たよ」
大洞さんが教室入り口を見る。教授はいつもと同じく、今日も本を五冊ほど抱え、ゆっくりと教壇へと向かっていく。実は百歳を超えている、なんて噂もあるが、さすがにそれは言い過ぎだろう。しかし、かなりの年齢であるのは間違いない。お鶴さんによると、この教授が文学部では一番偉いらしい。
教授は教壇に立つと、息を吐きながら本を教壇に置いた。毎回持ってきているものの、あの本が開かれたことは一度もない。そもそも、美術史だから美術作品が講義の議題となることがほとんどなのだが、その作品を資料として、授業で実際に見たことはない。
教授はいつも、「各々が持っているその小さな電話で調べるように」と、隠れて携帯電話をいじる学生に視線を向けて、悪戯な顔で笑う。
教授は腕時計を確認し始める。
「あと一分で講義が始まるね」
大洞さんの言葉に、僕は「そうだね」と小さく笑う。僕が自分の腕時計を見ると、針は二時三十九分を差していた。四限目は二時四十分から始まるのだが、教授は三十九分になると、開始時刻までの一分間を、こうして腕時計を見つめて過ごす。毎回決まった行動を取るのは、きっと教授の中で、流れが確立されているのだろう。
二時四十分ぴったりになると、教授はマイクを手に取り、口を近付けた。強烈なハウリングが、気の抜けた学生たちに喝を入れた。
四十分くらいは頑張って聞いていただろうか。しかし、あまりに脈略なく飛び回る話と、お経のような抑揚のない話し方に、ついには僕も話を捕まえきれなくなり、集中力が切れてしまった。
ふと隣を見ると、大洞さんが船を漕ぎ始めている。そんな姿も、容姿が整っていればなかなか様になるんだな、と思いながら、僕は放っておくことにした。もし教授が近付いてきたら、その時に起こしてあげればいいだろう。
僕は教授自身が上梓した教科書を適当にパラパラと捲ってみる。分厚い装丁の割に、中身はかなり薄っぺらい。それは内容のことではなく、厚みの話だ。内容については、読む気が全く起きないのでまだわからない。『日本美術の変遷』といういかにも堅苦しいタイトルなのにも関わらず、一切資料のない文字だけの本なので、少し読むだけですぐに眠気に襲われてしまう。
板書もせず、レジュメが配られるわけでもない。レポートはなしで出席点が二十パーセントなので、出席だけでは単位は取れない。となると、八十パーセント分の試験ということになるが、僕には、単位が取れるイメージがまるで湧かなかった。というより、もし授業の中での教授の話がそのまま試験に出るのなら、おそらく単位が取れる学生なんていないだろう。
しかし一体、どんな試験になるのだろうか。そもそも、僕はまだ大学の試験というものを一度も受けたことがないので、その形態が全くわからない。確か文学部は持ち込みが多いと聞いたが、それも経験がないので、予想がつかない。学科こそ違うが、一度お鶴さんに訊いてみるか。そんなことを考えていた時、
「では」と、教授の声が僅かに大きくなった。
「誰かこの中で、わかる者はいませんか?」
僕は嫌な予感がして、顔を上げた。教授はこう問いかけ、誰も答える者がいないと、前の方から順番に学生を当てていく。そして大抵は答えられないので、その時間、当てられた者は曝し者となり、他の学生たちからの憐憫の込められた視線を、嫌というほど浴びることになる。
前方の席に誰もいないと、僕たちが当たる可能性も充分に有り得る。僕が慌てて大洞さんを起こそうとしたその時、視界の端で、高々と手が上がったのが見えた。
自分から答える人がいるのか。
僕が驚いてその人物へと視線を向けると、それは田畑さんだった。
田畑さんは背筋をぴんと伸ばし、そして真っすぐと手を上げている。さっきまではいなかったはずなのに、一体いつから、そこにいたのだろうか。
そしてどうしてか、教授は特別な反応を示すことなく、「はいキミ」と田畑さんを当てた。田畑さんはわざわざ立ち上がって答える。
「マニエリスム美術であろう」
「違います。日本の話です」
「では、バロックか?」
「人の話を聞いていますか?」
二人の噛み合わない会話に、教室が静かにざわつく。その音で、大洞さんの漕いでいた船が停泊した。大洞さんは目を擦りながら、田畑さんの存在に気がつく。
「あれ? 耕作さんがいる」
「そうなんだよ。いつの間にかあそこにいたんだ」
「しかも、当てられているね」
「自分から手を上げたんだ。しかも、頓珍漢な回答ばかりしてる」
とはいっても、田畑さんは至って真剣な様子で、わからないことは逆に教授へと質問している。教授はさぞかし迷惑だろうな、と思って僕はその様子を見ていたが、むしろどこか、楽しんでいるようだった。
「……あの人、やっぱり凄いね」
呟くように言った大洞さんの言葉に、僕は「だね」と心から頷いた。




