十一話『絶世の美少女』
一週間のうち、特に何の進展もないまま四日が過ぎた。しかし、彼女は文学部の同じ学科で、僕と同じ授業を多く受けていること、どうやらいつも一人でいること、そして他のサークルや同好会の男たちも、彼女のことを狙っているということはわかってきた。
チャンスは何度もあった。何せ、彼女はいつも教室前方の端の席に一人で座っているので、声をかけようと思えば、いつでもかけることが出来る。しかし、頭では行こうとは思うものの、あと僅かな勇気がどうしても出なかった。
僕は駅からの慣れた道を、早歩きで進んでいく。今日の講義は一限からなので、すれ違う人はほとんどいない。みんな、眠たげな顔で小路を進んでいく。
あのイタリアンの前を通るも、扉には『準備中』の札がたてかけられている。この店の前を通る度に、僕は田畑さんの姿を探してしまう。あれから一度もこの店では見たことはないが、パフェを食べた日の翌日に、もう少し先にある店に入っていくのを、僕は偶然見かけた。
そういえば、あの時は急いでいたので確認出来なかったが、田畑さんはどんな店に入ったのだろうか。少し見てみよう、と僕はさらに早歩きで、田畑さんが入った店へと向かった。
イタリアンから二分ほど歩いた先に、その店はあった。立ち止まると後ろから来る人の邪魔になるので、僕は歩を緩めて、その店を観察する。外壁は緑と白、そしてオレンジで塗られていて、白の中には無数の赤い水玉模様が散りばめられている。飲食店なのだろうが、外観からは、何の店なのかは全く想像もつかない。
さらに注視すると、扉の上に、何やら店の名前のようなものが、ローマ字で書かれているのを見つけた。
『SAMURAIJA』
侍じゃ。しかしこの名前では、やはり何の店かはわからない。和食なのだろうか。しかしそれだと、名前があまりにも奇抜過ぎる。
そもそも飲食店なのか。あれこれと考えを巡らせているうちに、学校に着いた。今日から大学生活が二週目に入る。僕は一先ず気持ちを切り替え、エレベーターのない三号館の七階へと向かった。
「今日はあいつ、いないのか?」
「侍だろ。あれ、一年じゃないみたいだぜ」
「え? じゃあなんで、先週ここにいたの?」
「わかんない。ってかそもそも、ここの学生じゃないって噂もあるらしい」
後方から、そんな会話が聞こえてくる。授業開始から既に十分が経過しているが、まだあの痩身の外国人講師はやってこない。
だが、僕はそんなことを気にしている場合ではなかった。何と今、一つ空席を挟んだ僕の隣に、あの女子学生が座っているのだ。これは、千載一遇の大チャンスだった。きっと、これを逃したら、これ以上の話しかける機会はやってこないだろう。
しかし、どうしてこの子がここにいるのか。確か、先週はいなかったような気がする。それを訊くことを話すきっかけにしようか。しかし、先週は田畑さんというあまりに印象強い存在がいたせいで、彼女に気付かなかったという可能性もある。ここは、慎重にいかなければならない。
シャツが冷たく身体に貼りついているのに、顔は妙に熱を帯びている。指の先に、汗が溜まっては雫を作っている。たった一言、話しかけるだけなのに、こんなにエネルギーを使うなんて。そもそも、まだ話してすらいないのに。
それでも、話しかけなければ前に進めない。僕が覚悟を決めたその時、タイミング悪く、講師が小走りで教室へと入ってきた。
「スミマセン。ちょっとそこで、宇宙人に襲われて」
面白くも何ともない言い訳に、教室が水を打ったように静まり返る。しかし、講師は気にした様子もなく、パン、と手を打ち、「では始めましょう」と、講義を開始した。
僕はゆっくりと息を吐き、肩を下ろす。心臓の音が、彼女に聞こえるのではないかと思うほど、暴れ回っている。
一旦、落ち着いてから機会を窺おう。そう思ったその時、講師が突然、「ヘイ」と僕の前に立ち、僕を見下ろした。
「前にいたサムライ、知りませんか?」
僕が目を丸くしていると、講師は白い歯を見せる。
「ほら、ユーの隣にサムライ、座っていたでしょう。ボク、彼とまた会えるのを楽しみにしていたんですけど、今日はいないみたいです」
僕は「ああ」と苦笑する。
「先週は、偶然隣に座っただけですので」
しかし、講師は「ヘンですねー」と顔を傾けて眉をひそめる。
「僕、あのあと、ユーとサムライが一緒にいるところを、見かけたような気がします」
見られていたのか。僕はたじろぎながら、「そ、それは」と誤魔化す。
「隣に座ったのがきっかけで、あのあと少し話したんです」
「じゃあ、トモダチになりましたか?」
友達。僕はその問いかけに、何と答えればいいのだろうか。多分まだ、友達までにはなっていないような気がする。だからといって、ただの知り合いでもない。
僕は逡巡する。別に今、ここに田畑さんはいないのだから、適当に「違います」と首を横に振ってしまっても問題はないはずだ。
しかし、僕はそれを否定したくはなかった。
僕は小さく笑みを浮かべ、そして頷いた。
「はい。友達になりました」
後方から、小さな話し声が聞こえてくる。おそらく、僕のことを話しているのだろう。だけど僕は不思議と、恥ずかしいとは思わなかった。きっと、この場をやり過ごすために首を振っていた方が、よっぽど恥ずかしかっただろう。
僕の答えを聞いた講師は、親指を立てた。
「オー。そうですか。なら、サムライに、ボクがぜひ刀を見せて欲しいと言っていたと、そう伝えておいてくれませんか?」
僕は「わかりました」と親指を立てて返した。講師は満足気に頷くと、「では」と空咳をし、黒板に英文を書き始めた。ようやく、授業が始まるようだ。
教科書を開き、ペンを持つと、僕は次第に冷静になってきた。そして、今の自分の行動を振り返り、自分は何をしてしまったんだと後悔する。今ので隣に座る彼女はきっと、僕のことを変な人間だと思ったに違いない。そんな変な人間から声をかけられたら、構えてしまうのではないか。
いやしかし、ここは僕らしくなく、ポジティブに考えてみよう。彼女は今、僕のことを『侍と友達になったと言っている変な奴』と思っているはずだ。ということは、既に変人のレッテルが僕に貼りついている以上、話しかけたくらいでは何とも思わないのではないか。
つまり、逆に話しかけ易くなったのではないか。勧誘という目的が果たせるかどうかは、別として。
僕は無理矢理自分を納得させ、大丈夫だと言い聞かせる。するとその時、講師が額に手を当て、「オー」と項垂れた。
「スミマセン。忘れ物をしてしまいました。急いで取りに行くので、近くの人とおしゃべりでもしておいてください」
講師はそう言うと、軽快に教室を出て行った。遅刻に続き、忘れ物まで二週連続。おっちょこちょいなのか、それとも講師の母国の国民性なのかはわからないが、どちらにせよ、これはチャンスなのではないか。
教室には、話し声が広がり始める。
ここで話しかけなければ、もう無理だろう。僕は深く息を吸い、そして思い切って身体を彼女へと向けた。それが思いのほか、大きな動作になったせいか、彼女は驚いた様子で身体を引き、丸い目で僕を見る。
ここまで来たら、もう引き返せない。僕は吸った息を、声にして吐き出していく。
「あ、あのさ、大学はどう? 慣れた?」
彼女は唖然とした様子で、「はい?」と僅かに首を傾ける。しまった。何も考えずに、思いついたものをそのまま口に出してしまった。一体、僕はどの立場でそれを訊いているのだろうか。
僕は「い、いや」と慌てて首を振る。
「ご、ごめん。ほら、新しい環境に僕自身、結構困惑してるからさ。他の人はどうなんだろう、と思って」
彼女は「ああ」と納得したようで、困惑した様子ながらも、微笑を浮かべる。
「うん。わたしも同じかな。大学に行く他には特に何もやっていないのに、家に帰ったら凄く疲れちゃって」
「そうだよね。気疲れするよね」
僕は意識して、顔に笑みを貼りつける。会話を続けたいが、何も言葉が出てこない。考えれば考えるほど、頭の中は真っ白になっていく。
すると彼女が、「あ、そうだ」と僕に向かって手を合わせた。
「あのさ、お願いがあるんだけど。……もし授業中に教科書を使うってなったら、見せてくれないかな?」
「教科書? いいけど、忘れたの?」
「うーん。忘れたというか、わたし、先週のこの授業、ちょうど熱が出て休んじゃって、どの教科書を買えばいいかわからなかったの。講義要項には、最初の授業で発表するってあったし、この英語のクラスに知り合いがいないから、訊くに訊けないし」
道理で先週、見かけなかったのか。
「最初の授業の日に熱が出るなんて、災難だね」
彼女は「自業自得なんだけどね」と苦笑する。
「二日目には熱も引いたから行けたんだけど、初日にあった講義は全部、話を聞けてなくて。ほら、入学説明会の時に、必ず一回目の授業は出席するようにって言ってたでしょ。だからこのあとの授業、ちょっと行き辛いんだよね。教科書を買えてないのもあるし」
「授業って、何を取る予定なの?」
彼女は鞄から、時間割表を取り出して広げる。
「えっと、二限に取れるのがないから、三限と四限に、これとこれかな」
彼女が自然と空いた席へと移動し、僕の身体は強張る。これだけ女の人と近付いたのは、一体どれくらいぶりだろうか。とはいっても、ただ隣に座っているだけなのだが。
僕は彼女が指を差した先を見て、「ああ」と頷く。
「この授業、僕も取る予定だよ。あ、それじゃあ最初の授業で先生が言ってたこと、まとめてあるから、見せてあげるよ」
僕は鞄からルーズリーフを取り出すと、彼女へと渡した。受け取った彼女は、それと僕を交互に見て、屈託のない笑みを浮かべる。
「わー、本当に助かるっ。ちょっと待ってね。急いで書き写すから」
「いや、来週のこの時間に返してくれればいいよ。字が汚くて読めない字なんかがあったら、それはごめん」
彼女は「ありがとう」と小首を傾げると、僕の渡したルーズリーフを、可愛い猫のキャラクターが描かれたクリアファイルへと仕舞った。僕のものが、彼女の所有物の中へと入るのが、何とも不思議な感覚だった。
講師はまだ、帰ってこない。勧誘するなら、早くしなければ。そう思った時、「あのさ」と彼女が好奇心に満ち溢れた目で、僕を見る。
「さっきの侍がどうって、何?」
僕の心臓が、嫌な跳ね方をする。
「……ああ、ちょっとね」
やはり気になるか。しかし、あの同好会に勧誘する以上、田畑さんのことを説明しないわけにはいかない。いや、むしろそこから誘うという手もある。僕が考えを巡らせていると、彼女は「もしかして」と人差し指を立てる。
「侍って、あの袴を着て、帯に刀を差して、後ろで髪を結っている人のこと?」
「あれ? 知っているの?」
「知っているというか、何回かキャンパスの中で見かけたの。すっごい真顔でわたしのことを見てくるから、何だろうなって思って」
その光景が容易に想像出来て、僕は苦笑する。
「うん、そうだよ。先週、この授業に出ていてさ。そこで偶然、話すようになったんだ」
「同学年なの?」
「いや。そもそも、この大学の学生かどうかもわからない」
彼女は「何それ」と笑う。
「それで、友達になったの?」
「うーん。まだ会って一週間だから、友達って言っていいのかどうかはわからないけど、その侍が入っている同好会に、僕も入ったんだ」
彼女は「へえ」と驚いた表情を浮かべる。
「どんな同好会なの?」
「それがさ、それもよくわからないんだよね」
「どういうこと?」
「同好会の名前は日本文化研究会って言うんだけど、日本の文化について研究している人はいないんだって」
彼女の眉が八の字に寄せられる。それを見て、僕は「ほら」と説明する。
「キャンパス西側の端にさ、古い寮みたいな建物があるんだけど、知らない?」
「ああ、オープンキャンパスの時に見たかも。でも確か、昔は使っていたけど、今はここで講義はしていないって、職員の人が言ってたけど」
「うん。今は講義には使用していないんだけど、代わりに同好会やサークルに、その教室を貸しているんだって」
彼女は「もしかして」と呆れた表情を浮かべる。
「その部屋を借りるために、形だけ同好会を作ったの?」
「……みたいだね」
僕が苦笑すると、彼女も同じように笑う。
「そっか。じゃあ、何も活動はしていないってこと?」
「いや、それがそうでもなくて。でも、言葉で説明するのは難しいんだよね」
どう説明するか、と僕が考え始めた時、遠くから走ってくる足音が聞こえた。講師が戻って来たのだろう。僕は彼女に、思い切って提案してみる。
「あのさ、このあとかなり時間空くと思うんだけど、予定とかある?」
彼女は「ううん」と首を振る。
「どうやって時間を潰そうか、迷っていたの」
「じゃあさ、もしよかったら、一回だけ同好会、見に来ない? まあ、見るようなものは何もないんだけどさ」
僕がそう問いかけると、彼女は「えっと」と少し不安気な表情を見せる。
「……あたしが行っても大丈夫なのかな?」
「何の問題もないと思うよ」
むしろ、連れてこいと言われているんだよ、とはさすがに言えなかった。彼女は安心したように微笑を浮かべると、顔を僅かに傾ける。
「じゃあ、一回、見てみるだけ見てみようかな。お侍さんがどんな人なのかも、少し気になるし」
僕はガッツポーズしたくなる衝動を懸命に抑え、「わかった」と小さく頷いた。
そこからの授業、僕はほとんど集中出来ず、いつもより早く進む時計の針を、意味もなく眺めていた。




