十話『侍は震える』
あれだけ目につく姿をしているのに、こちらから探すと見当たらないのは、どうしてだろうか。僕はまだ不慣れなキャンパス内を練り歩きながら、田畑さんの姿を探す。
時刻は二限目が始まる二十分前。少し早めに来て、田畑さんに話をしようと思っていたのに、肝心のその田畑さんが見つからない。部室には鍵がかかっていたし、飲食店はまだほとんどが開いていなかった。
もしかして、来ていないのか。出来れば今日、まだ僕の決意が固いうちに会っておきたかったが、いないのなら仕方がない。諦めて、早めに教室へと入っておくか。そう思った時、ふと、「侍」という単語が僕の耳に飛び込んできた。周囲を見渡すと、喫煙スペースで数人の学生が談笑していた。
僕はゆっくりと近付き、鞄の中を探るふりをしながら、彼らの会話に耳を傾ける。
「はい、絶対嘘。そんな奴いないって」
「いや、本当だって。さっき見たんだよ。地下の喫茶店で、めちゃめちゃでかいパフェ食ってた」
「あ、俺もそいつ、前に見たぞ。中央の芝生で、大の字になって寝てた」
「マジかよ。この大学、そんな変な奴が……」
地下の喫茶店か。確か、二号館から行けたはずだ。僕はその場を去り、早歩きで二号館へと向かう。
その喫茶店へと着くと、確かにそこには、田畑さんがいた。田畑さんはとても大きなパフェを前に、真っ青な顔を浮かべている。
「あの、田畑さん、何をされているんですか?」
僕が近付くと、田畑さんは「武蔵か」と顔を上げた。その唇は青紫色に変色し、よく見ると、小刻みに身体が震えている。一体、どうしたのだろうか。僕が呆れていると、店員のおばさんが近付いてきた。
「キミ、このお侍さんのお知り合い?」
「ええ、まあそうです」
おばさんは僕の肩に手を置き、田畑さんの前の席へと無理矢理座らせる。
「だったら、このパフェ、食べるの手伝ってあげてちょうだい。これ、本来はみんなでわいわい食べるもので、一人で食べるものじゃないのよ。お侍さんにはそう言ったんだけど、大丈夫だって言うから」
「えっと、大体何人前ですか?」
「十人前よ。まだ半分だから、五人前は残っているわね。じゃ、頑張ってちょうだい」
おばさんはそう言うと、僕の前にスプーンと小皿を置き、店の奥へと消えていった。僕は腕時計を確認する。授業まで残り十五分。移動時間も含めると、十分といったところか。
僕はスプーンを手に取ると、「手伝いますよ」と田畑さんを見る。田畑さんはかちかちと歯を鳴らしながら、小さく頷いた。
僕は深く息を吸い、それと一緒に固めてきた決意を一気に吐き出す。
「……あと、新入生歓迎の話ですけど、僕、やってみたいと思います」
田畑さんが目を僅かに開き、僕は続ける。
「勧誘出来るかどうかは、自信がないですけど、頑張って声をかけます」
田畑さんは「うむ」と開いた目をぐっと細め、そしてスプーンをパフェへと伸ばした。僕も小皿にアイスとコーンを入れ、やけ食いするように、一気に口へと運んだ。
結局、十分間で全てを食べ切ることは出来なかったが、それでもかなり貢献出来たのではないだろうか。僕は急いで教室へと向かい、何とか授業開始前に席に着いた。
隠れて出したゲップは、とても甘い香りがした。
授業を終え、鞄に荷物を詰めていると、教室の後方が何やら騒がしくなった。嫌な予感がして振り返ると、そこにはやはり、田畑さんの姿があった。田畑さんは目の上に手を翳して教室を見渡すと、僕を見つけてそのままこちらに向かってくる。
僕の隣に座った田畑さんは、「武蔵」と頭を下げる。
「助太刀、感謝致す」
僕は一瞬、何のことかわからなかったが、田畑さんの唇の端が薄っすらと白くなっているのを見て、思い出す。
「……ああ、パフェのことですか。結局、食べ切れましたか?」
「何とか食べ切れたが、しばらく便所で籠城する羽目になった」
それでこの時間になったのか。きっと田畑さんなら、授業中であってもすぐに報告しに来るのではないかと思っていたので、僕は納得した。
田畑さんは「それで」と、僕に真剣な眼差しを向ける。
「勧誘、する気になったんだな」
僕は「は、はい」と唾を飲み込む。
「やるだけ、やってみようと思いまして」
僕は昨日、お鶴さんと別れてから、自分が何をしたいのかを深く考えた。僕はこの四年間で何がしたくて、そしてどうなりたいのか。どうして、あの同好会を辞めたくないと思う自分がいるのか。そうして熟考を重ねた結果、輪郭を為していないものの、朧気な答えが見えてきた。
僕は、変わりたいのだ。
どう変わりたいのかは、今の時点ではわからない。だけど、僕は今の僕を脱ぎ捨てて、新しい自分になりたいのだ。
おそらく、このままでは僕は変われない。ずっと今の僕のまま、一生を終えることになりそうな気がする。だからどこかで、僕らしくない選択肢を取らなければいけない。そしてそれが今だと、昨日の僕はそう直感した。
田畑さんみたいになりたいとは思っていない。僕は侍にも変人にも憧憬を抱いていないし、そもそも会ってからまだ三日しか経っていないのだから、田畑さんも、そして他の日本文化研究会のメンバーについても、知らないことだらけだ。
だがそれでも、田畑さんやお鶴さん、そしてまだ会ったことのない日本文化研究会のメンバーたちが、僕に持っていないものを持っていることは、何となくだがわかる。僕に欠けている大事なものを、みんなきっとたくさん持っている。だから僕は彼らからそれを学びたいと思った。
田畑さんが出した試練は、僕の視界を塞ぐかのように屹立している。僕にとってはとても大きく、高く、そして頑丈で強固な壁。だからこそ、まずはこれを乗り越えなければ、僕はあの同好会には入れない。形では入れたとしても、きっと僕はそのことを心に重荷として抱え続けるはずだ。そんなのはもう、嫌だった。
田畑さんは「よし」と僕の肩に手を回すと、ぐっと身体を寄せた。
「では、勧誘する相手だが……」
「ち、ちょっと待ってくださいっ」
僕は田畑さんから身体を離し、その円らな瞳をじっと見つめる。
「勧誘する相手って、もう決まっているんですか?」
「ああ、そうだ。何か不満か?」
「不満とかではなくて、その、田畑さんは、『全員に声をかけて、一人でも勧誘出来ればいいから、そう難しくない』とおっしゃってたじゃないですか」
「言ったのは、いつの私だ?」
「いつって、昨日ですけど」
田畑さんは小さく鼻息を飛ばす。
「昨日の私は、今日の私ではない。だからそんな私ではない人間の発した言葉など、どうだってよい」
僕はそのあまりに吹っ飛んだ理屈に、反論することが出来なかった。田畑さんは固まる僕の眼前で手を振ると、「どうした?」と眉をひそめる。
「大丈夫だな。では、話を続けるぞ。……お主が勧誘するのは、あの女子だ」
田畑さんはそう言うと、教室の前方を指差した。その先には、携帯電話をチェックする一人の女子学生がいた。黒髪を後ろで一つに括っていて、身体は小柄。周囲に友人がいる様子はないので、一人なのだろうか。
「あの、どうしてあの人なんですか?」
僕が訊ねると、田畑さんは「別嬪だからだ」と即答した。僕はおそらく聞き間違いだろうと思い、訊き直す。
「……えっと、すみません。今、何て言いましたか?」
「だから、あの女子が一番別嬪だからだ」
僕はじっと田畑さんを見る。田畑さんはいつも通り、真顔で僕を見返す。
「……可愛いから、あの人を誘うんですか?」
「そうだ。他に理由があるか?」
僕は「いえ」と首を振る。確かに、勧誘する理由としてはおかしなものではない。入学してから見かけたサークルの勧誘ポスターの中にも、『イケメン、美女大歓迎』という文言が入っているものが、たくさんあった。
しかし、だとすると尚更、僕にとっては壁が高くなる。相手が男であってもまともに話しかけられない僕が、女の子、それも可愛い子を同好会に勧誘するなんて、考えただけでも、夥しい量の汗が手に滲んでくる。
田畑さんは僕の肩から手を離すと、席を立った。
「では、期待しているぞ」
「ち、ちょっと待ってください。えっと、田畑さんは?」
「私は何もしない。私が手を出せば、何の意味もないではないか」
田畑さんは何を言っているんだ、といった表情を浮かべる。
「それはそうですけど、あの、期限なんかはあるんですか?」
田畑さんは「期限か」と腕を組み、視線を斜めに上げる。
「……そうだな。今日中と言いたいところだが、まあ、特別に一週間くらいは見てやろう」
一週間。田畑さんはそう言ったものの、僕はとってそれは、あまりに短い期間に感じられた。
田畑さんは「よし」と頷くと、「頑張りたまえ」と言い残し、颯爽と去っていった。混雑している教室の後方も、田畑さんが近付くと、道が開いていく。
そして僕へと集まる、白い視線。しかし、教室前方にいるあの女子学生は、全く田畑さんに気付くことなく、リュックサックを手に持つと、立ち上がってこちらに向かって歩いてくる。
目を逸らそうとした僕だったが、それは出来なかった。
彼女は確かにとても可愛らしく、つい目を奪われてしまったのだ。
僕はゆっくりと顔を回転させ、彼女の背中を視線で追う。他の男子学生たちも、見えない力に引っ張られるように、彼女へと視線を向けている。彼女はそんな視線に気付く様子もなく、教室を出て行った。
見たのは一瞬だったが、それでも鮮明にその顔を思い出すことが出来る。美人というよりは、可愛らしい。しかし、どこか垢抜けていない感じもして、それが僕にとっては却って好印象だった。もっとも、僕が偉そうに言えることではないが。
僕は椅子に背中を預け、身体の力を抜く。
あの子を、この僕が勧誘するのか。
そう考えると、何だか胃がきゅっと痛くなってきた。それは不安と憂鬱からなのか、それともパフェのせいなのか、それはまだわからなかった。




