表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
侍に誘われて  作者: ゆず
第一章~侍に誘われて~
1/51

一話『侍、現る』


     1


 出会いと別れの花弁が、無骨なアスファルトを鮮やかに彩る。


 僕は鞄の紐を握り締め、視線を散らしながらキャンパスを歩く。一限目の英語の授業が三号館の教室で行われるらしいのだが、僕はその三号館がどこだかわからないでいた。授業開始が九時。腕時計を見ると、針は八時五十分を差している。大学生になって初めての講義、遅刻だけは絶対にしたくなかった。

 

 それほど多くない学生数に対して無駄に多い学部の数のせいか、建物の数もかなりある。その中で僕の属する文学部の建物は、三号館と四号館。四号館は大学のパンフレットの表紙にもなっているのですぐにわかったが、三号館はどこにあるのだろうか。


 案内図を探そうにも、その案内図が見当たらない。事務課に行って訊けば済むが、僕は自分から人に話しかけたりするのが滅法苦手なので、出来ればそれは避けたい。しかし、あまり悠長にしている時間もない。


 焦りからか、ねっとりと身体にしがみつくような汗が、背筋を撫でていく。やはり、事務課で場所を訊かなければいけないか。そう思った時、すれ違った学生たちの会話が耳に飛び込んできた。


「授業、三号館だよな。どこだっけ?」

「確かこっちだったはず」


 僕はゆっくりと足を止め、そして踵を返した。後ろを歩いていた女子学生が怪訝な顔で僕を見たので、身体を小さくして頭を下げる。そして僕は、会話を交わしていた学生二人のあとをつけた。


 三号館は、四号館から少し離れた場所にあった。他の建物よりも少し古い外観。足を踏み入れると、エスカレーターやエレベーターなどは見当たらず、薄暗い階段が風を吸い込み、不気味な音を吐き出している。


 僕は時間割表を鞄から取り出し、教室を確認する。三の七の二。


 三は三号館。なら、七の二は。


 僕は階段を見上げ、そして腕時計を見た。八時五十六分。授業開始まで残り四分。次の瞬間、僕は全力で階段を駆け上った。しかし、普段全く運動などしていないせいか、僕は四階で力尽き、そして遠くで鐘の音が鳴った。


 結局、教室には五分遅れで着いた。後方から入ろうとするも、鍵が閉まっていて入れない。仕方がなくそっと前方のドアを引くと、既に学生たちが席に着いていた。僕へと一手に集まる粘ついた視線。そして、異様なまでに張りつめた緊張感。しかし、どうやらまだ講師は来ていないようだ。


 ほとんどの席が埋まっているものの、その中に不自然なほどに誰も座っていない箇所があった。教室一番前、中央の席。大学でもあの席は不人気なのか、と思いながら僕はその席へと向かったが、途中でふと、その違和感に気がついた。


 そこに一人の学生、いや、侍が座っていたのだ。


 そんなはずはない。僕は目を擦ってもう一度よく目を凝らす。しかし、やはりそこにはどこからどう見ても、侍が毅然とした姿勢で着席していた。暗めの黄土色の和服に、紺色の帯。無造作に伸ばされた髪は後ろで結わえられ、髭の剃りあとが薄っすらと顔の輪郭を覆っている。そして机の上には、二本の刀らしきものが置かれていた。一つは長く、一つは短い。


 僕が教室を見渡すと、学生たちは僕から視線を逸らした。そうか。この一帯に誰も座っていないのは、前方だからではなく、この得体の知れない侍を避けているからか。部屋に入った時に感じた緊張感の理由を、僕は理解した。


 僕が困惑して立ち尽くしていると、侍が僕へと目を向けた。太い眉に真っ白な肌。おちょぼ口に、ぐっと親指で押し潰したような団子鼻。しかし、年齢が全くわからない。高校生くらいにも見えるし、三十代と言われても違和感はない。童顔ではあるものの、髭のあとやその雰囲気から、貫禄のようなものも窺える。


 侍はしばらくじっと僕を見つめていたが、やがて何かに気がついたようで、慌てて席を詰めた。わざわざ席を空けてくれたということか。出来れば隣には座りたくないが、空けて貰って別の席に座ることも出来ないので、僕は仕方なくその席へと腰を下ろした。


「あ、あの、ありがとうございます」


 僕が礼を言うと、侍は口を真一文字に結んだまま、うむ、と頷いた。隣に座ると、侍からはタンスの奥に顔を突っ込んだような匂いがした。


 やがて授業開始時刻から十分ほど経って、英語の講師が入ってきた。背が高く痩身で、白髪の黒い眼鏡をかけた外国人の講師。講師は侍を見て「ワオ」と呟くと、目を輝かせて何かを捲し立てるように英語で話し始めた。それに対して侍は、全てに「センキュー」と返していた。どうやら、英語はあまり得意ではないようだ。


 侍との会話を終えた講師はようやく授業を始めるかと思われたが、突然頭を抱えると、小さく首を左右に振った。


「ソーリー。忘れ物をしてしまいました。取ってくるので、その間、隣の人と出来るだけ英語を使って自己紹介でもしておいてください」


 講師はそう言うと、小走りで教室を出て行った。投げやりな指示を出された学生たちは始めの方こそ戸惑っていたものの、やがてポツポツと話し声が聞こえ始めた。僕がおそるおそる隣を見ると、侍は僕へと身体を向け、物凄い目力で僕を見ていた。


 やがて侍は、僕に手を差し出す。


「私の名前は田畑耕作だ。よろしく頼む」


 田畑耕作。こんなに侍みたいな恰好をしているのに、田畑を耕作。喉までそれが出かかったが、僕は何とかそれを飲み込み、差し出された手を掴んだ。


「え、えっと、僕は本多武蔵です。よろしくお願いします」


 僕がたどたどしい挨拶を返すと、侍は驚いた様子で目を開き、そして固まってしまった。その手は強く、握られたままだ。


 僕が「あの……」と軽く手を揺すると、侍は慌てて手を離した。


「ああ、すまぬ。あまりに立派な名前だから、つい感動してしまった」

「立派、ですか?」

「ああ。とても強そうな、いい名前だ」


 確かに、名前に関してはそう言われることが多い。実際、両親も強くなって欲しい、という意味を込めて『武蔵』と名付けたらしいのだが、残念ながら今のところ、僕はこの屈強な名前とはまるで正反対の、臆病で卑屈な人間に育ってしまっている。


 周囲で会話が弾み始める中、侍はじっと正面を見たまま、何も話さない。沈黙は気まずいものの、僕は自分から話しかけることなんて到底出来る性格ではなく、ただただ脇の下に汗が流れていくのを、感覚で追っていく。訊きたいことはたくさんあるのに、疑問を言葉にする勇気はない。


 すると、侍が突然、「武蔵」と僕の名前を呼んだ。


「私のことは、田畑と苗字でそう呼んでくれ」

「え、うん。わかったよ」


 言われなくても、僕は侍のことはそう呼ぶつもりだった。それよりもむしろ、いきなり下の名前で呼んでくるその馴れ馴れしさに、僕は驚いていた。しかしだからといって、侍、いや、田畑がそれ以上の会話を振ってくることもなく、田畑はまた正面を向くと、何も書かれていないホワイトボードをじっと見据えていた。 


 講師が帰ってきてようやく、僕は重い沈黙から解き放たれた。




 初めての大学での授業は、オリエンテーションで終了した。軽い自己紹介とこれからの授業形式、そして購入しなければならない教科書などの説明を終えると、講師は陽気に演歌を口ずさみながら、教室を出て行った。時間にして僅か三十分足らず。九十分で一コマなので、一時間以上も時間が余ってしまった。


 教室の中には、この短時間で既に、いくつかのグループが出来ていた。初々しい会話が、僕の耳に入ってくる。


「すげえ訛ってない? どこから来たの? 東北?」

「教科書って、どこで買うんだっけ?」

「なあなあ、受験、前期で受けた? 初日の国語の試験めっちゃ難しくなかった?」

「え? 下宿してんの? じゃあちょっと、部屋行ってもいい?」


 つい三十分ほど前までは点の集まりだったのに、もう線が何本も出来ている。僕は鞄を抱えると、そこから逃げるように教室を飛び出した。


 階段を下り、三号館から出ると、柔らかい太陽がサーチライトのように僕を照らし出す。僕は三号館の裏手に回って日陰へと入ると、そこで時間割表を鞄から取り出した。二限目に取れる授業がないため、次は三限目の一般教養となる。現在の時刻は九時四十分。三限目は十三時半からなので、四時間近くも時間が空くことになる。


 僕は下宿しているわけではなく、実家から一時間をかけて通っているため、一旦家に帰るのは厳しい。大学のキャンパスは都会の真ん中に立地しているため、大学を出れば時間を潰せるような場所はいくらでもあるが、僕は一人でそんなところに行くような勇気を持ち合わせてはいない。では一体、この四時間をどうやって有効に使えばいいのか。僕は建物の陰で、立ち尽くした。


 キャンパス内を歩く大勢の学生たち。そのほとんどの顔には、新たな生活に対する期待からだろう、煌々とした表情が浮かんでいる。僕はかけていた眼鏡を外し、シャツの裾でレンズを拭う。それでも、心の中の靄が晴れてくれたりはしない。


 眼鏡をかけ直すと、僕はとりあえず昼食を買うことにした。大学を出て信号を渡ったところに、確かコンビニがある。そこでおにぎりかパンでも買って、どこかのタイミングで食べよう。


 そう思って歩きだすと、ふと、気配を感じた。見ると、いつの間にそこにいたのか、田畑が僕の前に立っていた。


 田畑は円らな瞳を僕へと向ける。


「どこに行くんだ?」


 僕は思わず「え?」と訊き返した。すると、田畑は僅かに眉をひそめる。


「だから、どこに行くんだと訊いているのだ」


 どうしてそんなことを、田畑に言わなければいけないのか。そう思ったものの、僕はいつものように愛想笑いを貼りつけて「コンビニだよ」と答えた。すると田畑は、腕を組んで首を傾ける。


「どうしてコンビニに行くのだ?」

「……どうしてって、昼食を買っておこうと思って」

「昼食を買う? どうしてわざわざ、こんなにも早く、それもコンビニで買うのだ? ここらには飯屋が山ほどあるが」


 僕は身体を引き、「そ、それは」とたじろぎながら答える。


「昼になるとどこも混むだろうし、それに、一人でお店なんて入れないから」

「一人で店に入れない? どうしてだ?」

「……何だか恥ずかしいからだよ」

「恥ずかしい? 飯屋に一人で入るのが恥ずかしいのか?」


 僕は「そうだよ」と小さく頷いた。田畑は全く理解出来ない、とでも言うように、瞠目して顔を小さく左右に振る。彼のようないかにも羞恥心の欠片もなさそうな人間からすれば、理解出来ないのも当然だろうな、と僕は思った。


 田畑は「でも」と僕の肩に手を置く。


「だったら、その心配は不要だ」

「どういうこと?」


 田畑は目を丸くする。


「私がいるではないか」


 僕は少しの間、田畑が何を言っているのか理解出来ず、じっとその白皙の肌を見つめていた。その間、田畑もマネキンのように微動だにせず、僕を見返してくる。


「……えっと、どういうこと?」

「そのままの意味だ。一人では無理でも、二人ならば問題ないのだろう?」

「それってもしかして、一緒にご飯を食べようってこと?」


 田畑は大きく頷く。


「ああ、そうだ。飯は一人より、大勢で食う方が美味いからな」


 僕はとりあえず苦笑を浮かべ、一旦整理することにした。


 僕は今、おそらくだが、友人を作る機会を得ている。それは決して自分から話しかけることの出来ない僕にとっては、願ってもないチャンスであり、これを逃すと次の機会がやってくるかどうかは定かではない。


『大学は最初に友人が出来るかどうかが重要』


 大学に入る前、僕はこんな言葉を何度も聞いた。小、中、高とそれなりに仲の良いクラスメイトこそいたものの、友達と呼べる友達が一人もいなかった僕にとっては、その言葉を聞く度にとても耳が痛くなった。僕はその時点で既に、一人で寂しく大学へと通う自身の姿を想像してしまっていた。


 そんな僕に、友人を作るチャンスがやってきた。


 僕は田畑を見つめ、そして心の中で溜息を吐いた。一体、どうして普通の人ではないのだろうか。いや、普通の人ではないなんて言っては失礼かもしれないが、それでもやはり普通ではない。往来する学生たちはみんな、田畑を見て、見てはいけないものを見てしまったかのような反応をしているから、僕の感覚は間違っていないはずだ。


 僕が何も言わないでいると、田畑は大きな欠伸をした。立派な奥歯が、ちらりと見えた。田畑は潤んだ目を人差し指で擦りながら、僕に訊ねる。


「武蔵はこれから、何か予定はあるのか?」

「いや、どうしようかなと思って。……えっと、田畑くんは二限目、授業なの?」

「私はない。次に行くとしたら、五限だな」

「五限? そんなに空くの?」


 僕が驚くも、田畑は「ああ」ともう一度、今度は中くらいの大きさの欠伸をした。


「まあ、行くかどうかはわからんが。というか、多分行かんな。気分じゃない」


 最初の授業は大事なのに、気分で出欠を決めていいのだろうか、と僕は思ったが、他人のことなので敢えて何も言わないでおくことにした。しかし、同じ文学部なら、三限目の社会思想史が取れるし、四限の基礎演習に至っては必修科目なのに、取らなくても大丈夫なのか。それとも、僕がまだ履修の仕組みを理解していないだけなのだろうか。僕は何だか、不安になってくる。


 そんな僕とは対照的に、田畑は何も考えていないような間抜けな顔で、じっと空を眺めている。僕も何となく見上げてみるものの、特に何の変哲もない空が広がっているだけ。一体、田畑は何を見ているのだろうか。


 すると、田畑が「よし」と大きく頷いた。そして僕に向かって「行くぞ」と言うと、颯爽と歩き出した。


 僕は慌てて田畑を追いかけ、そして訊ねる。


「ちょ、ちょっと待って。行くぞって、僕も行くの?」


 田畑は僕を一瞥する。


「暇なんだろう? それとも、用事でもあるのか?」

「いや、別にないけどさ。……それより、どこに行くの?」

「とりあえず、静かなところに行く。ここは少々、騒がしいからな」

「静かなところって?」


 僕がそう訊くも、田畑は「ついて来ればわかる」と答えたきり、黙り込んでしまった。僕は仕方なく、田畑の隣に並んで歩く。


 田畑に集まる視線が、僕にも流れてくる。僕は大きな羞恥心に耐えながら、重い足を懸命に前へと進めた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ