9
突然扉が開いたのは、私が開けたからじゃない。
私の頭を通り越して、すっと白い腕が伸びてきて。
その腕が、扉を開けた。
それまで寄りかかるようにつかんでいた扉が突然目の前から消えて、バランスを失った。
「ひゃ、あ、あぁ!」
私は素頓狂な声をあげて、そのまますてん、と教室になだれ込んで床に頭を打ち付けた。
「花恋!」
ゆーくんが叫んで、ガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。
あれ……なんか、今日はよく転ぶ日だなぁ。
道には迷うし、ゆーくんは怒らせちゃうし、朝の占い見忘れちゃったけど、実は運勢最悪なのかな……。
そんな呑気なことを考えた。
床に打ったせいで、頭がおかしくなったのかもしれない。
もともとダメダメだった脳が、とうとう馬鹿になっちゃったのかも。
それからどこかうとうとと微睡んでいるみたいな感覚に陥った。
午後の日射しに照らされてお昼寝するみたいな心地よさを感じて、しばらくその感覚から抜け出せなかった。
それが覚めたのは、首筋に突然温かいものが触れたときだった。
……ふみゃ?
心の中で、私はまた変な声をあげた。すっごく間抜けな声。
やっぱり私、危ない打ち方をしちゃったんだと思った。
もう頭の中は幼児なみの回路しか残ってないんだ。
こんなとき、王子様が目の前にいて、私の首筋に触れてるなんて。
目がおかしくなっちゃったのかもしれない。
これは夢? それとも幻?
王子様は私の首から手を離すと、今度は私の右手を持ち上げた。擦り傷が少しだけ痛んだ。
王子様の手が、静かに私の手を撫でた気がした。
「花恋! 大丈夫!?」
あぁ……ゆーくんの声だ。心配かけないでって言われたばっかりなのに、私、またやっちゃった。
ごめんね、ゆーくん。
こんなダメダメな花恋でごめんね。
ゆーくんが近づいてくる気配がして、それと同時に王子様が私から離れていった。
「つ、椿! 意識はあるな? 大丈夫だな?」
慌てふためいた前嶋先生が近寄ってくる。その顔はひどく青ざめていた。
「東条、おまえ、いくらなんでもこれはただじゃ済まないぞ! 冬野、椿を起こすの手伝ってくれ」
ふたり分の腕が私を抱き起こした。前嶋先生と、もうひとりは……ゆーくんだ。ゆーくんが助けにきてくれた。
「花恋、大丈夫? 俺のこと、見える?」
ゆーくんの濡れたように黒い瞳が私を見ている。
あれ……ゆーくん、怒ってないの?
「ゆぅ……くん?」
「花恋」
ゆーくんが私をぎゅっと抱きしめた。ぎゅーってものすごい力を込めてきて、痛かった。
「ゆーくん……痛い」
だんだん意識がはっきりしてきた。
目の前のゆーくんと、すぐ隣に心配そうな顔の前嶋先生。
それから、その後ろに王子様……?
私の声が聞こえたのか、ゆーくんは少しだけ力をゆるめてくれた。
「東条、だっけ……?」
ゆーくんが私を抱いたまま、視線を王子様に向けた。
「どーゆーつもり? これ、どう責任取ってくれるの?」
煮えたぎるような目でゆーくんが王子様を睨み付ける。まるで獲物を狙う肉食獣、ううん、それよりどんな怨みかわからないけど相手を呪い殺してしまいそうな目で。
「2度も花恋を傷つけるとか、それだけの覚悟あるってことだよね?」
見ている人を震え上がらせるような目で、それでもゆーくんは笑った。死を宣告する悪魔みたいな顔だ。とにかく、怖い。
逆に王子様はというと……まるで表情を浮かべていなかった。驚くぐらい無表情。
私はそのとき初めて王子様の顔をちゃんと見た。
今まで私が王子様の顔を見たときは、全部泣いていたから。視界がぼやけて見えなかった。
色素の薄い透き通ったブラウンの瞳と、すっと通った鼻筋、形のいい薄い唇。
本当に絵本に出てくる王子様みたいだった。
制服の紺のブレザーを着ているのがもったいない。西洋のもっときらびやかな服を着たら、絶対に似合う。
蜂蜜色の髪と陶器のように白い肌も、まるで絵に描いたみたいに綺麗で。本当に、絵本から抜け出してきてしまったかのように……。
どこか夢見心地で、ふわふわしてる。
心臓がきゅんと跳ね上がった。鼓動の音を飛び越えて、空までいってしまいそう。
世界の色が変わった気がした。それまでの色とまるで違う。これまで見たことない特別な色。
こんな気持ちは初めてで、よくわからなかった。
あんまりな浮遊感が私を支配して、おかしくする。
すごく変な気持ちなのに、不思議とイヤじゃない。とっても温かい感情なんだって、どこかでわかってるからかな。
そう、私はそのとき。
王子様に恋をした―――――――――