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―――キーンコーンカーンコーン
「あぁーっ!」
チャイムが……鳴った。
授業、始まっちゃった……。
まただ。
また今朝と同じ状況。しかも今度はゆーくんが助けにきてくれない。
私は道に迷った。
さっきまでなんとも感じていなかった掌の擦り傷が痛んだ。唇を噛み締めて痛みに耐える。
うぅぅぅぅぅー!
どうして私って、こんなにダメダメなのぉ……?
叫びだしたかった。
校舎中に響き渡るぐらい、それこそ私を置いていったゆーくんに聞こえるぐらい大きな声で。
……ううん、駄目。
私は首を横に振った。
ちゃんと考えなきゃ。
冷静に、冷静に。
たしか、さっき授業を受けた物理室は西校舎だったはず。1ー3の教室も同じ校舎だから、そう遠くはないはずなんだけど……。
教室から物理室に行くまでに何階分の階段を上り下りしたか思い出さなきゃ、と思った。
教室は西校舎の2階。ゆーくんに何度も念を押されたからそれだけはしっかり覚えてる。
私は辺りを見回した。背中側に物理室。先の方までずっと続く廊下は曲がることなくどこまでも真っ直ぐ。その左手の脇には大きな窓が連なっている。
窓から外を見てみると、ここは3階らしかった。
そうわかって、ほっとした。
1階分だけ下りればいいんだ。
ほらね、ちゃんと冷静になって考えれば私にだってできるんだから。
これで少しだけ、ダメダメを抜け出せたはず。
ダメダメな花恋でも、やればできるんだよ。
気持ちを奮い立たせて、1歩踏み出す。
階段はどこにあったっけ。とりあえず1本に伸びている廊下を進んでみる。しばらく進むと、壁だった右手側にぽっかりと空洞みたいな暗い階段が現れた。
あった。ありました……!
私は嬉々としてそれを下る。
たしか階段から3つ目の教室だよね。
うん、この調子ならたどり着けそう……!
私はまるで小さな子みたいにスキップしてしまいたい気持ちを抑えながら、それでも軽い足取りで階段をトントンと下りる。
トンッと最後の1段を下りきって、1、2、3。そう、3つ目の教室。
今朝は緊張していて気づかなかったけど、教室の前の扉には1ー3と書かれたプラスチックのプレートが掛かっていた。
うぅ、これに気づけば朝もあんな恥ずかしい思いしなくて済んだのに……と今さらな後悔。
もう授業始まってるし、怒られちゃうかな、と思いながら、後ろの扉をそーっと開ける。カラカラッと小さな音を立ててしまった。全員ではないけど、結構な人数の注目が集まる。
「す、すみません……遅れ、ました……」
教室に入るのが怖くて、扉のほんの少しの隙間から消え入りそうな声で言うと、
「ほらね、先生。だから言ったでしょー?」
窓際の席から声が上がった。にこにこしながらこっちを見てる。
「椿さーん、手当て終わった? そんなとこで固まってないで、早く入ってきなよー」
坂井さんだった。にっこり笑って手招きまでしてくれた。
教室中のほとんどの視線が私に集まっていた。先生も私を見ていた。2時限目は数学だったみたいだ。教壇に立っていたのは担任の前嶋先生だった。
「椿さーん?」
坂井さんが呼んでいる。行かなきゃ、と思った。でも足がすくんで動かない。
自分に集まる視線が針みたいに突き刺さって怖かった。見られてる、と思うと身体中が強張って動かなくなった。
朝はゆーくんが一緒だったから。
だから大丈夫だった。
でも今はひとり。
全然大丈夫じゃない。
私はひとりじゃ何もできないダメダメな子。
手が、半開きの扉の端をつかんだまま震えていた。それをガッと大きく開けることができなくて、だからといって、閉めて背を向けて逃げ出す勇気もなくて。
ゆーくん……。
思わずゆーくんの方を見てしまった。
教室の真ん中の席に座っているゆーくんの影。
ほとんどが私に注目している中で、たったひとりだけ、こっちを見てない。黒板の方をじっと見つめて、私に背を向けている。
「椿。どうした? また体調が悪いのか?」
前嶋先生が尋ねてくる。別にその口調は怒ってない。先生は授業が中断されてしまったことになんて怒ってなくて、逆に私を本当に心配してくれていた。たぶんすごくいい先生、なんだと思う。
でも私はその声にすくみあがってしまった。もう駄目だ、とまで思った。
身体が動かない。声も出ない。どうすることもできない。
それまで静かだった教室がざわめき始めた。誰も私を責めてなんてない。扉にいちばん近い席だった女の子が「大丈夫?」と声をかけてくれた。でも私は、答えなかった。
私……何やってるんだろう。
私はここで何をやってるの?
ほら、扉をもっと開けて。
足を踏み出して。
もう1度先生と皆に謝って、席に着いて。
クスッという笑い声が聞こえた。小さな声だった。
ナニアレ、ダッサ。
あ……と思った。
ガラッ。大きな音を立てて、扉が全部開いた。私の手はずるッと扉から滑り落ちた。