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「ゆーくん?」
戸惑った表情をしながらも坂井さんが先に教室に帰ったあと、なぜかゆーくんの腕に囲まれて身動きが取れなくなっていた私は、ゆーくんを呼んだ。
物理室にはもう誰も残ってなくて、私たちふたりだけ。
「あの、怪我なら大丈夫だから……教室、戻ろ?」
「隙、見せちゃ駄目って言ったのに」
ゆーくんは怒っていた。ゆーくんの胸に顔を押し付けられていて表情を見ることはできないけど、この声は絶対怒ってる。
「ゆーくん……?」
「お願いだから、言うこと聞いて」
「え……?」
ゆーくんはいきなり私の顔をくいっと持ち上げて、視線を合わせてきた。
「あの女子……坂井、だっけ。もう近づくの禁止」
「えっ、な、なんで?」
私は慌てた。
だって坂井さんはこの学校で初めてできたお友達なのに!
近づくの禁止なんて……。
「なんでって……花恋のそーゆーとこが隙なんだよ? わかってる?」
ゆーくんは溜め息をついて、目を反らした。
「隙って……何?」
私はこのままじゃ駄目だと思って、覚悟を決めてゆーくんを睨み付けた。
「ゆーくん、意味わかんないよ。坂井さんは私のお友達だもん。近づいちゃ駄目なんて、なんでゆーくんにそんなこと言われなきゃいけないの?」
ダメダメな花恋は卒業するんだ。ゆーくんに助けてもらってばっかりのダメダメな私は。
しっかりしなきゃ。
「花恋」
「もう私に構わないで。私、ゆーくんがいなくても大丈夫だもん。ダメダメなんかじゃ……ないんだから!」
私はそう言い捨てると、ゆーくんの腕を無理やり潜り抜けた。ゆーくんは驚いていた。
「花恋。いきなりどうし……」
「私は、ダメダメを卒業します!!」
あぁ……言っちゃった。
言ってやりました、私。
私は卒業するんです、ダメダメな私を!
本当はそんなことできるわけないって、頭のどこかではわかってる。でも、でも。
ゆーくんにお世話してもらって、ゆーくんの言うことだけ聞いて。
もしゆーくんがそんなダメダメな私を嫌いになったら?
ゆーくんに見捨てられちゃったら?
私、独りぼっちになっちゃう……。
そうなる前にどうにかしなきゃ。せめてゆーくんに心配をかけないぐらいにはならなきゃ。
私は決心した。
ゆーくんに頼らなくても生きていけるように。
お料理も掃除も洗濯も、自分のことは自分でできるようになって。
方向音痴も記憶力の悪さも直して。
話下手を克服して友達もいっぱい作って。
ダメダメじゃない、キラキラな花恋になってやります!
「花恋……花恋はそんなに、俺に構われるのがイヤ?」
ゆーくんがゆっくりと腕を下ろした。さっきまで私をぎゅってしていた腕。日に焼けた、きめの細かい肌。
「ゆ、ゆーくんだって私のお守りなんてイヤでしょ? ダメダメな私をいっつも仕方なくお世話してくれて……」
「そんなふうに、思ってたの?」
さっきまでとは違う。ゆーくんが本気で怒ってる。声に抑揚がない。まるで機械みたい。
怖い。ゆーくんが怖い。
こんなの初めてだ。
でも、と私は拳を握りしめる。
「もう、ゆーくんに迷惑かけたくないの……」
声が震えた。次に口を開いたら涙が溢れそうだと思った。それぐらい、怖かった。
「―――そっか」
ゆーくんが低い声で言った。
「わかった。花恋がそう言うなら、もう俺は何もしないよ。余計なことも言わない」
「………………」
ゆーくんが本気で怒ると静かなんだと思った。怒声をあげたり、暴力をふるったり、物にあたったりもしない。ただ静かに怒りを発する。
今まで心配かけるなって怒られたことはあっても、本気で怒ったゆーくんを見たことはなかった。
どうして、と思った。
私は、ゆーくんに迷惑をかけたくないだけなのに。
どうしてゆーくんは怒るの?
「花恋、次の授業始まるよ」
ゆーくんが私に背を向け、教室を出ていく。
「ゆ、ゆーく……」
置いていかれる。ゆーくんは振り向かない。
ゆーくんがドアノブに手をかける。
待って、と言いそうになった。待って、ゆーくん。置いていかないで。
舌の先まで出かかったその言葉を、必死に飲み込む。
ゆーくんに頼っちゃ駄目。
ゆーくんに迷惑をかけちゃ駄目。
私はダメダメを卒業するんだから。
物理室を出ると、もうゆーくんの背中は見えなくなっていた。
置いていかれたことにショックを覚えながらも、自分でそうお願いしたんだから、と気を持ち直す。
腕時計を確認すると、次の授業が始まるまであと2分しかなかった。教室までたどり着けるかな……。
「……あ」
少し歩いたところで思い出した。行きはゆーくんたちと一緒だったから物理室まで行けたけど、私、道覚えてない……。
時間の問題だけじゃない。これじゃ、いくら時間があってもたどり着けるわけないよぉ。
うぅ……。
早速挫折の危機です。