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ゆーくんが教室の後ろの扉を開けると、教卓のところに若い男の先生が立っていて、ちょうど出席をとっているところだった。
開いた扉に注目が集まり、先に教室に足を踏み入れたゆーくんが、
「すみません、来る途中で椿さんの体調が悪くなってしまって……」
しれっと涼しい顔で嘘をついた。
私はできるだけ目立たないようにゆーくんの後ろにぴったりとくっついて教室に入った。
「あぁ、椿と冬野だな。たしか昨日、椿は病欠だったか。まだ体調が優れないようなら保健室で休むか?」
先生はゆーくんの嘘を疑いもせず、
「花恋、どーする? 大丈夫?」
「あ、うん……ごめんね、もう平気」
という私たちのやり取りを心配そうに見守っていた。
「座席は名簿順だ。えっと……冬野がそこの真ん中で、椿が窓側のあそこだな」
先生は座席表を確認しながら、空いている席を手で示した。
あぁ、ゆーくんの席、遠いな。教科書忘れてきても見せてもらえない……。
私はちょっとがっかりした。
「残念だね」
小声でゆーくんが言い、ぽんぽんと私の頭を撫でた。
途端に教室がざわつく。
「そこの遅れてきたふたり、さっさと席着け」
先生はなんだか苦笑いみたいな表情を浮かべていた。
慌てて席に着くと、あれ、と思った。
始業時間は過ぎているのに、隣の席が空いてる。お休みなのかな。
「よし、これで揃ったな。昨日欠席だったふたりも来たことだし、一応自己紹介しとくな。1-3の担任、前嶋孝輔。担当教科は数学だ。よろしく」
20代後半ぐらいかな、よろしくって言ったときににっと笑った顔がちょっと幼く見えて可愛い。あんまり怖そうな先生じゃなくてよかった……。
「ねえねえ椿さん」
出欠確認が終わってホームルームが始まると、前の席の女の子がくるっと振り返った。
「あの冬野くん? って子と知り合いなの?」
肩ぐらいの髪を内巻きにしたその子は、ぴんっと反り返った睫毛をぱちぱちさせながら聞いてきた。
「あ、うん……幼馴染だよ」
「へえー。朝から見せつけてくれちゃって、仲良しなんだねーっ」
その子がにこにこしながら言うから、私もこくんと頷いて、精一杯の笑顔を浮かべた。
「うん。仲良し」
「……KYかよ」
その子がぼそっと低い声で何か言ったけど、よく聞こえなかった。
「……なぁに?」
「ううん。なんにもー。それよりさ、その髪型可愛いね。そんなのできちゃうなんて、椿さん超器用なんだー?」
「あ、これは私じゃなくて……」
ゆーくんがやってくれたんだと言おうとしたら、チャイムの音に遮られた。
「部活登録は今月中に済ませること。1年は全員登録だからなー。じゃあ、チャイムも鳴ったことだしホームルーム終了。各自解散」
前嶋先生がそう言って教室を去ると、何人かが席を立ち始めた。
前の席のその子も椅子を引き、
「1時限目、教室移動だよ。物理室の場所わかる? 椿さん、一緒に行こうよ」
とにこにこしながら誘ってくれた。
私も立ち上がりながら頷く。
「あ、うん……」
「花恋」
気づくと、目の前にゆーくんが立っていた。ゆーくんは私の前の席の女の子を一瞥すると、すぐに私に顔を向けた。
「次、物理室だって」
「うん」
その子はゆーくんが当たり前のように私に声をかけてきたことにちょっと傷ついたみたいな顔をした。でもまたすぐににっこりと笑った。
「冬野くん、椿さんと“仲良し”なんだっけ? 私、椿さんの友達の坂井絵美里。よろしくねー」
あ、坂井さんっていうんだ……。
さっきから話しかけてくれているのに私はその子の名前を知らなかったことに気づいた。
「これから椿さんと一緒に物理室に行くところなんだー。冬野くんも一緒に行こうよ」
坂井さんは笑うと片えくぼができるみたいだ。薄くお化粧してるのか、唇がぷるんとピンク色。
「花恋の、友達?」
「うん。席が前後でしょ、ちょっと話したらなんかすごく気が合っちゃって! ね、椿さん?」
「え? あ、えっと……」
少しも崩れることない笑顔を向けられて私が返事できないでいると、坂井さんは「ねー?」ともう1度言った。
「うん……」
「ふーん、そうなんだ。よかったね、花恋。新しい友達ができて」
ゆーくんはそう言うと、坂井さんに向かって微笑んだ。
「よろしくね、坂井さん」
「うん。よろしくー」
坂井さんは私とゆーくんの間に入り込み、
「早くしないと遅れちゃうよ。行こっ」
と促した。
それから3人で物理室に向かったんだけど、坂井さんは終始にこにこしていて、ゆーくんも穏やかに笑いながら談笑していた。
私とゆーくんで坂井さんを挟むように歩いていて、坂井さんはほとんどゆーくんの方を向いていた。
ちょっとつまらない。
「へえー! 冬野くん、サッカー得意なんだー。うちの学校のサッカー部って結構強いよね。冬野くんが入ったら全国大会行けちゃうかも!」
「坂井さんは? 何部にするか決めてるの?」
「うーん。中学のときテニス部だったし、高校でもって思ってたんだけど。でも、ここは硬式でしょ? うちの中学は軟式だったから、どうしようかなーって」
「そっか」
「でね、マネージャーもいいかなー、なんて」
ふたりとも笑顔で楽しそう。ゆーくんは聞き上手だし、坂井さんも喋ってるうちにすらすら言葉が出てきてすごいなぁ。
私はゆーくん以外の人と喋るときは緊張しちゃって、途切れ途切れになる。だから坂井さんもゆーくんとばっかり喋るんだよね。
私ってやっぱりダメダメ、だなぁ……。
「花恋、制服の襟、折れ曲がってるよ」
それまで坂井さんと話していたゆーくんが突然言った。
「えっ?」
「あ、直してあげるよー」
坂井さんがにっこりと笑った。でもそれより先にゆーくんの腕が伸びてきて、さっと素早く襟を直した。
坂井さんは一瞬戸惑ったような顔をした。
私は慌ててお礼を言う。
「あ、ありがとう……」
「隙、見せちゃ駄目って言ったよね?」
いつの間にかゆーくんが坂井さんを通り越して私のすぐ目の前にいた。
「俺以外の前で」
ゆーくんの目が……笑ってない。
「ゆ、ゆーくん……?」
「あんまり心配かけないでね」
ゆーくんの手が私の頭の上に載って、ゆっくりと動いた。頭を撫でながら、ゆーくんは表情をやわらかくした。
よかった、怒ってないみたい……。
「もうすぐ授業始まるし、ちょっと早足で行こっか」
ゆーくんが腕時計を見て、そう言った。
「うん……」
頷いてから、視線を感じた。ゆーくんの背中越しに坂井さんがこっちを見ていた。キッと目が細くつり上がっている。
「椿さん、どうしたのー?」
目が合ったと思ったら、坂井さんがにこっと笑った。
あれ……さっきの、気のせいかな?
たしかにさっき、椿さんが私を睨んでいるように見えた。
うん……きっと、気のせいだよね。
にこにこしながら「椿さん?」と首を傾げた坂井さんに、私は「ううん、なんでもないよ」と返した。