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目覚まし時計の音で目が覚めた。完全には開かない目をこすり、手探りで音を止めて、ベッドから起きる。
気のせいかお腹を刺激するいい匂いが漂ってくる。くーっ。抑える暇もなくお腹が鳴った。
パジャマのまま部屋を出て、ダイニングに行く。匂いはそこから漂っていた。
「あれ? 花恋、おはよー。珍しいね、目覚ましで起きたの? これから起こしに行こうと思ってたのに。熱、もう下がった?」
ダイニングの奥のキッチンでは、いつもの紺色のエプロン姿のゆーくんがお皿に何かを盛りつけているところだった。エプロンの下は制服。前に見たときはぼーっとしてたから思わなかったけど、ちょっとアンバランスだ。
「ゆーくん……おは、よ……」
朝の私はテンションが低い。というより半分寝ぼけている。挨拶を返せただけで上出来だ。
「よかった。今日は元気そーだね」
ゆーくんは朝の私を知っているので、ほっとしたように笑った。
「昨日、朝食べただけでずっと寝てたからお腹空いたんじゃない? もーちょっとでできるから席ついてね」
「はぁ……い」
ダイニングのテーブルの指定席にちょこんと座る。
「お待たせ……あ、花恋。パジャマのボタン、ほらそこ、外れてるよ?」
お皿をキッチンから運んできたゆーくんが、私の首もとを指した。
ん……?
あ、ほんとだ。
糸が切れてボタン自体が取れかかっていた。
「あとで直しとくね」
ゆーくんがエプロンを脱ぎながら言った。
私はこくっと頷く。
「ありがと……」
「さ、食べよっか」
甘ーい匂いがふわふわと空気中を染め上げている。私は夢見心地な幸せな気持ちで手を合わせる。
「いただき……ま、す」
目の前の席にゆーくんが腰を下ろした。
「卵いっぱい買ってきたからフレンチトースト作ったんだけど……花恋は病み上がりだし、重かったかな」
私はふるふると首を振って、かぷっときつね色のフレンチトーストにかぶりついた。ほんのり優しい感じの甘さで、甘すぎなくて美味しい。
うん……ゆーくんのお料理はなんでも美味しい。
「美味しい?」
「うん!」
だんだんと目が覚めてきた私は、大きく頷いてまたフレンチトーストにかぶりついた。
「ひゅーふんは、おひょおりのふぇんふぁいふぇす!」
「どーもです」
ゆーくんは、お料理の天才です!
口をいっぱいにした私の言葉を難なく解読すると、ゆーくんは自分もフレンチトーストを食べながら「花恋、寝癖ついてる」と笑った。
「ん、ふぇぐせ……ど、どこ」
ごっくんと口の中のものを飲み込み、慌てて頭を押さえる。
「えーっとね、そこ。こめかみから5センチ上にいって、そこから3.25センチ右にいったとこ」
「3.25センチ……」
む……これはからかわれてるな、と気づいた私は「ゆーくん」と非難がましく言ってふくれる。
「あー、ごめん」
ゆーくんは濡れたように光る黒目を私に向けて、
「花恋の好きな髪型にしてあげるから、許して?」
と小さく首を傾けた。さらさらっとゆーくんの長めの髪が肩からこぼれる。前髪をピンで留めて半分むき出しになった額がギリギリまで近づいてくる。
ゆーくん……肌、綺麗だなぁ。日焼けしてるのにすべすべ。
「駄目?」
「うーん、と、いい、よ?」
洗顔クリーム使ってるのかな、あとで何使ってるのか聞いてみようと思いながら頷く。
「じゃあさ、あれは? サイドを編み込みにして、アップでまとめるやつ」
「ゆーくんがやってくれるならなんでもいい」
「オッケー。任せてね」
ゆーくんは器用だ。お料理は上手だし、雑誌とかに載ってる可愛い髪型も簡単にくるくるっと仕上げてしまう。ほかの家事全般完璧にできちゃうし、ゆーくんにできないことなんてきっとない。
「花恋も回復したみたいだし、今日から登校できそうだね」
「うん……。昨日はごめんね、ゆーくんまで休ませちゃって。せっかくの入学式だったのに」
「だから花恋は気にしなくていーの。それより花恋、学校では気をつけてね」
「え? ……何、を?」
「そのボタンみたいに」
ゆーくんが私の首もとの取れかけのボタンを指さす。
「あんまり隙見せちゃ駄目だよ? 俺の前だけにしてね、そーゆーのは」
「……はぁい」
幼馴染の冬野優人くん。通称ゆーくん。マンションのお隣さん。
お父さんが単身赴任で、お母さんは仕事で家を空けることが多い私の面倒を見てくれている。
……情けないことに私たちは同い年で、なんでもひとりでできるゆーくんと違って私は包丁すらろくに握れないし、ひとりじゃ何もできないダメダメな子だ。ゆーくんがいてくれなかったら、こんな生活能力のない私は餓死して死んでしまう。
ゆーくんは家の合鍵を持っていて、朝、私が目覚めるとキッチンではゆーくんが朝ご飯を作ってくれている。
最初の頃はゆーくんの家でご馳走になったりして飢えを凌いでたんだけど、数年間前にゆーくんのご両親が海外に行くことになって、それができなくなった。本当はゆーくんも着いていく予定だったんだけど「俺が行っちゃったら花恋がひとりになるから」と残ってくれた。それでゆーくんは今、お隣で独り暮らしをしている。
いつの頃からか、だんだんと埃の積もっていく部屋や山積みになった洗濯物の山を見て、ゆーくんが家事全般をやってくれるようになった。「ひとり分洗濯するのもふたり分やるのも変わらないから」と。
ありがとうございます、ゆーくん!
ゆーくんは花恋の神様です!
というかゆーくんは私のお母さんです!
と、ゆーくんには感謝してもしきれない。
昔から両親は仕事が忙しくてあまり構ってくれなかった。一緒に食卓を囲むことなんて滅多になかったし、独りっ子の私はずっと寂しい思いばかり。
そんなとき、私と一緒にいてくれたのがお隣のゆーくんだった。
両親も「優くんなら安心」と認めてくれていて、ふたりが忙しくて帰って来られないときにはお隣のゆーくんのお家で一緒に夕飯を食べたり、ふたりでゲームをして遊んだりして。
本当は今、お母さんとふたり暮らしのはずなんだけど、お母さんは仕事が忙しくてなかなか帰ってこない。帰ってきても、またすぐ行っちゃうし。
だからどっちかっていうと、私とゆーくんのふたり暮らしだ。
朝、目覚めるとゆーくんがいて、夜寝る前にゆーくんは自分の家に帰っていく。
ゆーくんに頼りっぱなしの私。これじゃいけないってわかってる。こんなダメダメな子、きっと誰もお嫁にもらってくれない……。
どうにかしなきゃって、思うんだけど……。
「花恋? 手が止まってるよ?」
私と違って、ゆーくんは立派なお嫁さんになるんだろうなぁ……あれ、ゆーくんは男の子か。
うぅ、私、ゆーくんをお嫁にもらいたい……。
「お腹いっぱい?」
「あ、ううん。食べるよ!」
私は止まっていた手を動かして、残りのフレンチトーストとサラダを食べる。
「ねぇ、ゆーくん……私、一生お嫁に行けないかも……」
「花恋? 急にどーしたの?」
「こんなダメダメじゃ、誰も相手にしてくれない……」
「花恋。花恋はダメダメじゃないよ」
そう言ってくれるのはゆーくんだけだもん。
私はうなだれる。
「白馬に乗った王子様が、迎えに来てくれないかなぁ」
よしよし、と先に食べ終わったゆーくんがお皿を片付けながら私の頭を撫でていく。
「いつかね」
「いつか? ネズミとカボチャとトカゲを用意したら来てくれる?」
「そーだね。花恋、足のサイズ小さいからガラスの靴もはけるよ」
「そうかなぁ」
なんか軽くあしらわれた気がする。
私はなんだかモヤモヤしながらも、そのあとゆーくんがくるくるっと手際よく髪をセットしてくれて「花恋の髪ってふわふわしてて食べちゃいたくなるよね。綿菓子みたい」と冗談を言われて、むうっとふくれたら、ほとんどそのモヤモヤも消えてしまった。