第4話 魔獣
ベロニカの街へと伸びる林道――商隊が襲撃を受けた場所だ――から二日ほどかかる距離にある村の入口に四人の男女がいた。
一組はダイアンとロアンナ。もう一組はローブの少年と獣人の少女だ。
あたりは暮れてきて夕闇が迫りつつある。
しかし、先の襲撃から半日も経ってはいない。
驚くべきことに、ローブの少年が三人を担いでここまで疾駆してきたのだ。
「本当にありがとう! 君のおかげでロアンナを取り戻すことができた」
「私からもお礼いたします。ありがとうございましたっ」
ダイアンらはローブの少年に頭を下げて礼を述べている。
「いや、いい。俺は仕事をしただけだ」
少年はそっけない態度だが、ダイアンらは繰り返し繰り返し礼を述べてから村へと帰っていく。
取り残されるはローブの少年と獣人の少女。
少年はダイアンらを見送ると不意に踵を返し、村の外の森へと足を向ける。
少女は最初呆気にとられた。
(えっ⁉ わたしは放置されるんでしょうか……)
奴隷商の許から連れ去ったのは彼だ。にもかかわらず、攫っておいて一顧だにせず少年は歩み去ろうとしていた。
「あ、あのっ。待ってください!」
少年を追って少女が静止の声を掛ける。が、少年の脚は止まらない。
「……待ってください。ご主人様」
少年の歩みがぴたりと止まる。
「俺はお前の主人じゃないっ」
少年は背を向けたまま強い語調で告げる。
「で、でも……」
「俺はお前の主人じゃないし、お前の主人になるつもりもない!」
「だったら、だったらどうして……わたしを連れて来たんですか?」
しばしの沈黙の後、舌打ちが聞こえ……。
少年の姿が一瞬で消えてしまった。
「えっ?」
しかし、高速で遠ざかっていく葉擦れの音が聞こえる。
「ま、待ってください!」
少女は少年が跳んで行ったであろう森の奥へと駆け出した。
しかし、少女の脚は狼人族、いや獣人族として見ても遅い。ヒューマン族の娘と比べてもどっこいだろう。
「待ってください。置いていかないでください!」
このままではこの森の中に、独り取り残されてしまう。
寄る辺のない孤独の心細さに不安になったとき
――…………ゥガアアァァァァ……
獣の咆哮が少女の耳に届いた。
「ひっ」
この森にも魔獣が生息しているのだろうか。
恐怖がじわじわと足元から上ってくる。
「あ、あの……どこにいらっしゃるんですか? 置いていかないでくださいっ」
けれども応えはなく、魔獣と思しき咆哮が鳴り響く。
孤独と怯懦で心を占められたとき。
ガサガサッ
すぐ近くで茂みを揺らす音が耳に届いた。
「――えっ?」
驚いて振り返ると、いつの間に接近していたのだろうか。十数頭の大型犬よりも大きなハイエナ型の魔獣が弧状に並び、少女を包囲しようとしていた。
「ひっ」
少女は動けなかった。
今までの恐怖が〈予感〉なのだとしたら、今目の前に存在する恐怖は〈現実〉の恐怖だった。
足がすくんで動けない。
「「「グルルルルルルルルルゥゥゥゥゥゥ」」」
そうしている間にも魔獣らは少女ににじり寄っている。
魔獣の唸り声で、金縛りにあっていた少女はやっと後退ることができた。
しかし、その間にも魔獣らとの距離はじりじりと短くなっていく。
「あっ」
そしてあまり逃げることもできず、木の根か何かに躓いて少女が尻もちをついてしまう。
「グルル、ガウッ」
これ幸いとボスらしき一頭が一鳴きすると、ハイエナ型の魔獣らが獣人の少女に躍りかかる。
「きゃああぁぁぁぁっ」
(誰か、助けて……)
少女の瞑った瞼の裏には不還の森で出会った少年、奴隷商の許から自分を連れ去ったローブの少年が映っていた。
でも、そんな都合のいいことは起こらない。なぜなら少年は自分を置いて森深く先へ行ってしまったから。
ところが、いつまで待っても襲い掛かるだろう爪や牙による痛みがやってこない。
恐る恐る瞼を開くと、橙金色の髪が靡きローブを纏った背中がそこにあった。
振りぬかれた両腕の先には殴り倒されたハイエナが三頭。白目をむいて起き上がる気配は見られない。
仲間がやられたことに意表を突かれたのか、ハイエナらは動かない。
少年が無造作に一歩踏み出すと、十数頭のハイエナも一歩、二歩と後退る。
少年の次の一歩は誰にも、ハイエナらにも認識できなかった。
少年の姿が掻き消えたかと思われたその次の瞬間には一番近くのハイエナの目前に姿を現し、腕の一振りで殴り飛ばす。次の瞬間には別のハイエナに拳をめり込ませ、かと思えば、その次の瞬間には別のハイエナの脳天に少年の踵が落とされ、頭蓋が割られた。
着地した少年が次の獲物めがけて踏み出してからようやく殴り飛ばされた二頭が樹の幹にぶつかって地に伏した。
それからは一方的な虐殺だった。つい先ほどまで狩る側だったハイエナどもが、たった一人の少年を前に狩られる側へと転落したのだ。
その場を逃げ出そうとしたものもいたが、それが叶うこともなく少年に追いつかれて殴られ、あるいは蹴られて絶命した。
この間、すべての魔獣が駆逐されるまでに二十秒もあっただろうか。
あまりの光景に狼人族の少女は茫然としていた。
人間業ではなかった。狼人族でもここまで速く、そして力強く敵を殲滅することは不可能だろう。
少年は、見た限りではヒューマン族だった。しかし、ヒューマンでは有得ない運動性能だった。規格外だった。
ふと、少年が少女の方に振り向く。少女は目が合った気がして自失から覚めた。が、少年は踏み込む脚に力を入れると、一瞬の後に少女に向けて躍りかかった。
少女はあまりのことに目を瞑ることもできなかった。
繰り出される少年の腕。向けられた手のひら。
それらが少女の頭上を通過していく。
少女が見上げて少年の手の先をみると、ハイエナが一頭、その首を掴まれていた。もう一頭だけ生き残りがいたのだ!
恐らく、気配を絶って回り込み、少女を狙おうとしていたのだろう。その首が少年の手に少し力が入るだけでポキリと折れ、絶命した。
迫りくる少年の姿に少女は襲われるのかと思い、ドキリとしていたのだが、最後は安堵にため息が漏れる。
少年はそれを一瞥すると、手の中の肉塊を放り捨てて踵を返す。
少女は慌てた。
「ま、待ってください!」
彼が立ち去る前に少年の纏うローブを掴んで捕まえる。
「わたし独り、置いていかないでください……」
心細そうに少年の機嫌を窺うような声音でお願いした。
「ちっ」
舌打ちするも少年は少女の手を振り払うことはせず、そのまま歩き出した。少女もそれに従って歩を進める。少年のローブを両手で握りしめたまま。