第七話 公僕英雄
ロイ・ボルン。
第一次トリア平原会戦が終了した時点で、この名前を知る者はほぼいなかった。彼はこのときただのしがない三等書記官という立場にあり、アミンの政庁で訪れる市民の抗議を受け取るだけの日々を過ごしていた。だが、幾人かの人々が知っていた。あるいは思い出していた。二百年前、六都市同盟がトリエル人を追い返し、再び自治を取り戻した際、戦場に散った悲運の英雄レイモンド・ボルンの名前を。そして彼らは今一度、英雄を求めていた。
結果、その裔孫であるロイ・ボルンに白羽の矢が向けられたのである。
「この未曾有の危機を救えるのは君しかいない」
「英雄の血が流れている君だけが頼りだ」
「あのレイモンド・ボルンの子孫が兵を率いるとなればトリエルの連中はさぞ肝を冷やすに違いない」
ロイの元を訪れた人々は、思い思いの主張を述べると善意しかありません、という顔で彼をみつめた。だが、この主張はロイにとって到底受け入れられるものではなかった。六都市同盟では都市の代表は第一人者と呼ばれ、市民による投票によって選ばれる。それは血筋による支配を嫌って始まった。トリエル王国から独立した直後に起こった世襲による混乱は、六都市同盟全体に世襲という賢愚を選べない政体を拒絶させる下地を作った。
それだというのに、危機に際してかつての英雄の子孫だからという理由で名指しされるというのはとても認められるものではない。
「待ってくれ! 私はただの公僕に過ぎない。先祖が英雄だから第一人者になれだなんて、馬鹿げている!」
アミンの第一人者の候補に自分の名前が乗っていることを知った彼は、声を張り上げて無責任に彼を祭り上げようとした人々を批難した。声だけは大きいがロイの容姿は貧相というのがふさわしい。色白の肌に痩せ過ぎな身体には枯れ枝のような手足がついている。顔も可もなく不可もなくと言ったもので、タレ目がちな茶の瞳がどこか眠そうな印象を見る者に与える。先祖のレイモンドが眼光鋭く、鷲のごとく、と呼ばれたのと随分と違う。
「あら、よろしいではございませんか。ロイ様ならできましょう」
鈴の音のような高い笑い声が聞こえる。ロイは彼のもとを訪れた無責任な推薦者たちのなかからその声の主を探すが、人々のなかにその姿を見つけることはできなかった。一体どこから声がするのか彼が辺りを見渡すと、「ええい、どきなさい。この有象無象!」という怒号と共に桃色の塊が一群のなからにじり出た。
「はじめまして、ロイ様」
桃色の薄布を幾重にも重ねた長衣に身を包んだ声の主は、不敵な笑みをしていたが、その姿はまだ十五、六の背の低い少女であった。この年頃の少女の多くが襟首で髪を切り揃えているのと同様に彼女も黒髪を綺麗に切りそろえている。ただ、その瞳だけは少女というよりも女というべき色香を備えている。
「君は……?」
ロイは自信げに胸を張っている少女の前に立つと、彼女の首根っこを掴むと人々の脇に彼女を移動させた。少女は手足を激しく降って抵抗したが、ロイは気にする様子はなかった。
「何をするのです! 淑女を猫のように掴むとは!」
「ごめんごめん。だけど、お嬢ちゃん。いま私たちは政治の話をしてるんだ。あと五年ほど経って立派な大人になってから来てくれるかな? それまではちゃんと勉強して淑女に相応しい教養を身につけるんだよ」
ロイが苦笑混じりに退席を促すと、少女は肩をわなわなと震わせた。もしかして、泣かせてしまったのかと思いロイが少女は、顔を真っ赤にして怒っていた。一体何が少女を怒らせたのか分からず、彼は狼狽した。公僕である自分が市民を、しかも年端もいかない少女を泣かしたとなればいらぬ問題が生じかねないのである。
「お嬢ちゃん、何に怒っているのかわからないが気をなおしてくれないか。そう、君ならきっと素敵な女性になれる。市民の多くが振り返って見てしまうくらいの女性にね」
「……ロイ様、素敵な慰めをありがとうございます。では、二十である私はあと何年すれば素敵な女性になれるのかしら?」
その微笑みからは、押し殺された黒い感情がにじみ出るようであった。ロイは少女に気圧されるように二歩下がった。彼は祖先譲りの深い茶髪をかくと「困ったな」と呟いた。それは心からの言葉であった。
「すまない。女性の歳は若く見積もれ、というのが我が家の家訓なんだ」
「英雄レイモンド・ボルンの家訓が女性の歳に関するものだとは知りませんでしたわ。その優しい家訓を考えた方に免じて先ほどの非礼は許します。申し遅れました、私はクレア・モロシーニと申します」
クレアと名乗った彼女は優雅に長衣の裾を両手で掴んで頭を下げた。ロイは呆然とした立ち尽くしたままそれに軽い会釈を返した。洗練という言葉からかけ離れた対応であったが、クレアは特に気にした様子もなくそれを受けた。
「では。クレア。先程も申しましたが、私はしがない公僕に過ぎません。第一人者に推挙されるような功績もなく、ただ祖先がレイモンドであるというだけで祭り上げられる、というのは困るのです」
柔和な外観に比べてロイの言いようは断固としたものであった。
「そうでしょうね。私もロイ様の立場であるならそう申しましょう」
「なら、私以外の人を」
「いいえ、駄目です。私はロイ様を信じていっているのです。決して、英雄の子孫だから贔屓しているのではないのです」
クレアは全てを見透かしたような瞳で彼を見つめると「信じているのです」、と言った。
三年前。ロイは政庁に入りたての五等書記官であった。書記官の下には官吏がつく。官吏は書記官と異なり一つの業務に熟練しており、五等書記官のはじめの仕事は彼らを通してアミンの行政や税制、内政、外交の表裏を理解することである。四等書記官になれば、実際的に他の都市との渉外や新しい法律の制定や改正に携わることになる。
彼は外交を担当する第二書記局に配属された。ちょうどこの頃、トリエル王国とベルジカ王国が争った第三次アウグスタ攻防戦が起きている。この戦いは、最初こそトリエル王国が優勢であったが、オルセオロ候爵ルキウスとネウストリア大公ニコロが連携し、トリエル王国を敗北させている。この戦いによって当時王太子であったブレダ・エツェルは捕虜となった。
このブレダの扱いに関して、第二書記局はさまざまな意見が飛び交った。
「捕虜は死刑だ。王殺しのルキウスが他国の太子に遠慮するとは思われない」
「このまま捕虜として留め置き、いまのトリエル王が崩御した時を狙って軍と共に帰すのではないか。そうすれば、トリエル王国を後ろから制することができる」
「いくら、逆臣ルキウスといえどもベルジカ王国の臣下だ。ブレダは王都に送られるのではないか」
このどれもがありそうな話ではあったが、正確な情報は一切入ってこなかった。その主な要因は二つ。一つは、六都市同盟がトリエル王国とベルジカ王国の二国とさほど友好的でなかったことが挙げられる。六都市同盟は建国以来トリエル王国と犬猿の仲であるが、ベルジカ王国とも剣呑な間柄である。それは単純な領土争いから生じたものであったが、単純ゆえに絡み合った問題は容易に解決できずに五十年に渡って領土争いを繰り返している。そのため、公私ともに外交的な窓口が狭い。
二つは、六都市同盟としての制約である。六都市同盟に参加する都市は他国に使者を送る際には必ず、他の都市に対して断りを入れなければならない。これは各都市が勝手に他国と結び、他の都市を征服することがないように定められたものである。しかし、今回のような場合でも他の都市の承認が認められるまで使者が派遣できないのでは、入ってくる情報が少なくなる。
このような要因からベルジカと国境を接していないアミンは情報を掴むことしかできなかった。唯一入ってくる情報源はルギィ経由でベルジカ王国にはいる行商人のものであった。
これらから得られた情報ををまとめていたロイは、
「少し出ます」
と昼食に出るような気軽さで述べると政庁をあとにした。
先輩の書記官らはこのロイの独断を無視した。より正確にいえば、入庁したての五等書記官が何をしていようと気にする余裕がない状況にあった。それだけ、彼らは隣国の状況を得ることが難しい状況にあったと言える。
ロイが向かったのはアミンでも商人たちが集う街の一角であった。
「今一番、隣国の情勢に詳しいのはオヤジさんだと確信しました。ベルジカのこと、トリエルの王太子ブレダの処遇のことを教えていただきたい」
「面白いことを聞く書記官もいたものだ。だが、俺じゃなくてもベルジカとの交易をしている商人はいくらでもいるだろう。それに俺がどうしてそんな込み入った事情を知っていると思うのだ?」
男はアミンで塩の商いをするマウラ・モロシーニという。彼の経営するモロシーニ商会は塩の商いとしてはアミンでも五指に入るが、商会としての規模はさほど大きくない。情報という点では、各地に商館を置く大商会を頼る方が正確なものが得られる、と言うのが先輩の書記官たちの一致した意見であった。そのため、中小の商人から上がってくる情報は取るに足らないものとしてロイに任されていたのである。
「マウラ殿は、塩を商っておられる。アミンの塩商人の多くは西のベリア帝国から買い付けているものが多く、ベルジカ王国で買い付けを行う者は少ない。ゆえにあなたの元を尋ねたのです」
マウラは濃い眉を撫でながら話を聞いていたが、ふん、と鼻で笑うと、「俺以外にもベルジカで買い付けを行う者がいるのならそっちを当たればよかろう。俺である理由がないなら帰れ」と威圧感のある声で述べた。
ロイは随分な偏屈とあったのもだと思いながら苦笑した。
「ベルジカ王国での塩の産地は、古くはネンシス、そしていまはベネトが一番だという。そしてそのどちらもいまはオルセオロ侯爵ルキウスの所領になっている。そして、あなたは彼の所有しているオルセオロ商会から直接買い付けを行っているが、あなた以外の商人は他の商会から塩を購入している」
「どうやって調べた?」
偏屈な商人は全く笑みを見せずにロイを促す。
「アミンの城門では街に出入りするすべての物資を確認しています。その記録を調べました。あとは行商人から聞いた話をまとめるとあなたが一番オルセオロ侯爵に近い商人だということ、そしてあの戦のあとに塩を持ってアミンに帰り着いていることが分かりました。それで答えになりませんか?」
ロイが口を閉ざすと、短い沈黙が降りた。
「なるほど、書記官殿はよほど奸智がきくか、でなければよほどの愚か者でしょうな。アミンの城門をくぐる膨大な物資の出入りを調べるなんぞ。正気ではない」
マウラはようやくニヤリと笑ってみせた。
「真面目に職務を果たしていると行っていただきたいものです」
「公僕の鏡というわけか。なんにせよ。俺にたどり着いたことを評して俺の知ってることを教えてやる」
相手を認めたからといって必要以上に笑顔を向けるようなマウラではなかったので、話は短時間で終わった。これによってロイはもとよりアミンは捕虜となっていたブレダがひと月ばかりでトリエル王国に帰国していることを知った。
「父は言っていました。あれは書記官にさせておくのは勿体無い。ああいうものは役人のように型に嵌ったものではなく広い場所に出してこそ価値があるのだと」
あれから数度、マウラとは情報の交換を行ったが、それほどまでに自分を買ってくれているとは驚きであったが、あの無表情の髭顔からいま目の前にいる娘が生まれたということの方が驚きであった。ロイが第二書記局から内政を行う第一書記局に移動してからは交流が途絶えているが、自分を知っている人からの推挙と言うのは悪くない気持ちだった。
「買いかぶりでしょうが嬉しいです。オヤジさんは元気ですか?」
「父は亡くなりました。塩の買い付けの帰り道をトリエル軍に襲われたそうです。今は私が商会を預かっております」
「それは……ご愁傷様でした」
ロイは頭を下げならも自分の語彙の無さを恨んだ。もっと気の利いた言い方があったのではないか、と思うのだがそれ以上の言葉は思い浮かばなかった。クレアの方はさも気にしていないのか、「どうも」と小さく述べただけであった。
「さて、ではロイ様。第一人者なっていただけますか?」
「それはさっきも断ったはずだよ。私は英雄であった先祖とは違う。三等書記官として僅かな俸給に胸を膨らませるのが私の器というものさ」
「どんな英雄も最初から英雄でなかったはずです。素敵な家訓を生んだレイモンド・ボランも最初はどこにでもいる靴屋だったではありませんか? それがトリエルとの争いを経て英雄となった。ロイ・ボルンがそうならないという理由にはどこにもないではありませんか?」
可能性という点では、誰もが英雄になる可能性を持っている。だが、現実には英雄になろうとしてもなれぬ者、なりたいわけでもないのになってしまった者がいる。無責任な者に言わせれば「英雄になる運命であった」ということになるのだろう。
「ロイ・ボルンに関してはそれはありえない。その器量も意思もない」
「では、どうしてもロイ・ボルンは英雄にはならないと?」
「そうです。私は公僕として生きて死ぬ。英雄なんて身の丈に合わないことはしません」
「分かりました。私が第一人者になります。そして三等書記官ロイ・ボルンの命じることにします。英雄としてアミンの兵を率いなさい、と」
威厳に満ちた声であった。こういうところは父親に似ているのかもしれないとロイは感じた。
だが、それは夢見物語の類である。もし、いま彼女が第一人者の候補に手を挙げれば人々は、
「英雄レイモンド・ボルンの子孫ならまだしも塩商人の子などでは」
「女子供が差し出がましい。まず、女が第一人者に立候補すること自体、例がないことだ」
「親を殺された娘が、敵討ちのために第一人者になる。物語の筋書きであればよい。が、現実では喜劇以下でお笑い話にもならない」
と、考えることだろう。
だが、そう思考する人々も自分が第一人者に、と手を上げる者はいない。この最悪の状況で、火中の栗を拾うような真似をできるのはよほどの自信家か愚者なのである。
その人物の器量が凡庸であれば、アミンは再び多くの若者の命を失うことになる。
――だが、自分ならそれを防げないにしても少なくすることができる。
ロイは一瞬自分の中に浮かんだ思いにゾッとした。それは増長というべきでものであった。ロイは必死でその思いをかき消した。
「できる力があるのにやらないのにしないのは怠慢ではありませんか? ロイ様」
「どうしてその力があると判るのです。神でもなければ判らぬことではないですか?」
「それは簡単です。私が信じているからです」
勝ち誇ったような笑顔でクレアが微笑む。それはかつて読んだ英雄譚に出てくる女神あるいは魔女に見えた。
「君は私は導こうとしているのか? それとも誑かそうとしているのか?」
「あなたが望むなら私は、女神にでも魔女にでもなりましょう」
「私の望みではないだろう。それは君の望みだろう」
ロイはクレアを凝視した。
「そうです。私はロイ・ボルンが英雄になることを信じ、望みます。あなたならできる。そう、あなたが一瞬でも思ったならそれを現実としてください」
彼女は両の手を胸の前で結ぶと、祈るように頭を傾けた。
「……分かった。なろう。君が望む者に。だけどそれは私が英雄の末裔だからじゃない。君が――クレアが信じたからだ。私ならできる。この思いが私の増長であることを願うよ」
彼はすべてを諦めた口調で言った。
こうして、三等書記官は英雄への道を歩き始める。