第三十一話 第二次トリア平原会戦 後篇
「どうやら怪我はしておらんようじゃな」
戦場を大きく旋回するかたちでアミンの第一人者であるロイ・ボルンの指揮する左翼に合流したオルレインの第一人者デキムス・ノイアは再構築された左翼を見渡しながら言った。すでに太陽は山合に沈み、今は残照だけが兵士たちを赤黒く染めている。
「ええ、なんとか。ネロ殿もトリエル軍の突撃をしのいだようです。当初とは大きく変わりましたが敵を包囲するという目標を果たせます」
同盟軍の構想は鶴翼陣型にトリエル軍を誘い込んで三方から押しつぶすというものであった。しかしこれは、トリエル軍が正面攻撃を避けて左右にまわりこんだことで不可能となった。トリエル軍を包囲するつもりが逆に挟撃されることになった同盟軍であったが、メスの第一人者であるネロ・リキニウスが指揮する重装騎兵三千とデキムスの指揮する右翼五千の努力と機転によってこれを避けることに成功した。
ときおかずにルギィとリンゲンの残兵からなるランディーノ・フィチーノの隊がトリエル軍の進路を塞いだ。結果として同盟軍は、トリエル軍を挟撃できる好機を得たのであった。
「ランディーノらが鎚というわけじゃな」
「ええ、彼らは簡単に退くようなことはありません。私たちは鉄床となってトリエル軍を叩き潰します」
ロイはこのとき自己嫌悪を感じていた。ランディーノ隊の不退転は勇敢でも同盟への献身でもない。単にトリエル軍への復讐心であり、失ったものを強引にうめるための自慰行為に過ぎないことを彼は知っていた。そして、それを理解しながらも止めずに利用している自分というものに嫌悪さずにいられなかったのである。
だが、良心の呵責とは関係なくロイの頭は最善策を提示し続けている。この戦いが終わる頃、ランディーノ隊で生き残っている者はおそらく千を割るに違いない。だがそれでも同盟軍が勝利を得るためには彼らに犠牲は必須なのである。
「ロイ殿。あなたの判断は我々全員の判断じゃよ」
デキムスは無表情に言った。ロイは自分の顔にそこまで感情が出ていたことに驚きながらも、自分よりもはるかに長く同盟を守り慈しんできたこの老兵に敬意を払わずにはいられなかった。
「私はまだまだ未熟ですね」
「その歳で円熟に達しておれば先への可能性がない、とは思わんかな。未熟なうちはまだ伸びしろがあるのじゃから」
孫をあやすような柔らかな言い方でデキムスはロイを諭すと前方に向かって厳しい目つきを向けた。闇の帳が落ちる直前。群青に染まった平原の各所で黄金色の光が現れた。夜戦を見越してランディーノ隊が松明に火を灯したのである。
「我らも火をつけろ」
ロイは兵士に明かりをつけさせた。もし、ランディーノ隊とのあいだに何もなければ松明の光は何にも遮られることはない。だが、光が何かに遮られればそこには間違いなく何かがいる。今回、それはトリエル軍に間違いない。ロイ達は光を隠す影に向かって矢を射掛け、槍を突き出せばいいのである。
松明に火がつけられると、平原に二つの光の線が浮かび上がる。一つはランディーノ隊の灯り。もう一つはロイとデキムスの灯りである。
その明かりに照らされてさまざな影が平原に浮かび上がる。腰ほどまで伸びた長草の影に混じって動く影がみえる。それはまさに馬のそれであった。
「弩兵は矢をつがえろ! 先ほどの礼を返す」
「重装歩兵! 弩兵を守れよ」
ロイとデキムスがそれぞれの兵士に声をかける。
前列の重装歩兵が隙間なく盾を構え、後列の弩兵は今度こそ号令を聞きそびれないように息を殺す。同盟軍は、その状態で前進を始めた。闇夜に染まった平原を光の壁が鈍い靴音を立てて動き出す。一方の黒い影となったトリエル軍は動く様子を見せない。ときより馬が首を動かすことで彼らがそこにいることがかろうじてわかる。
両軍ともに声を発する者はいない。
ロイははやる気持ちを抑えながら敵の影を睨みつけていた。野戦では距離を測りにくい。近づきすぎたくらいでなければ矢を正確に撃つ事は難しい。だが、誤ってトリエル軍の射程に入り込んでしまえば先ほどの二の舞になりかねないのである。
一歩、また一歩と前進し、ついに馬のたてがみの影までみえるところでロイは叫んだ。
「放て!」
彼の声は、平原に響き渡った。
いままで溜め込んだものを爆発させるような大声で弩兵は叫ぶと影に向かって矢を一斉に放った。矢の群れは影に吸い込まれるように真っ直ぐに飛んだ。鈍い刺突音に混じって人の悲鳴や馬のいななきが響き、矢を浴びた馬が崩れ落ちる重い音がロイの元まで聞こえた。
「明かりを振れ」
ロイはそばにいた兵士に松明を大きく弧を描くように振らせた。それに呼応するようにランディーノ隊の松明も丸い軌跡を描くように振られた。そして、ときをおかずに獣のような叫びが聞こえたかと思うとランディーノ隊の明かりが一気に動いた。
「蛮族を殺せ!」
「これまでの屈辱を返すんだ!」
「子供達の仇だ!」
松明の明かりに照らされた彼らはまさに鬼であった。鬼の一団はここぞとばかりに駆けた。ときより乗り手を失いさまよっていた数頭の馬が彼らの進路を邪魔したが、彼らはそれを突き殺し進んだ。まさに巨大な槌が振り下ろされたのである。
そして、矢が降り注いだ地点にたどり着いたときだった。先頭の兵士が異変に気づいた。
「どうなってる。蛮族がいない。馬ばっかりじゃないか!」
「謀られたのか!?」
「では、蛮族どもはどこに行った!」
影がいた位置には千頭ほどの馬の死骸と全身に矢を受けた馬がふらふらと歩いている姿しかなく。肝心のトリエル兵の姿が見えなかった。このランディーノ隊の狼狽は、包囲をゆっくりと狭めていたロイ達にも判った。
何かを探すように松明が揺れ動いているのである。
その様子に苦笑した者がいるトリエル王ブレダ・エツェルである。
「まずは天の利は俺たちについた、と言えるかな」
「貴重な馬を千頭も失いましたがな」
トリエル軍の将軍であるアルダリック・モラントは呆れ声をあげた。アルダリック達、トリエル人にとって馬は自分たちの半身と言ってよい。その馬を千頭も囮にしたブレダをアルダリックはやはりトリエル人として異質な存在であると思わずにはいられない。
重装騎兵への突撃が失敗したあと、ブレダは夕闇に乗じて兵士たちに下馬を命じて千頭の馬を囮にして残り七千騎を平原に伏せさせたのである。馬の口には馬銜をふくませ鳴かぬようにした。膝をついて座らせた馬を沈めるように兵士たちは頭をなでたり、さすってやった。
幸いにも伏せてしまえば、平原のいたる場所に生えている長草が姿を隠してくれる。太陽が出ていればひと目で看破されたに違いない。だが、闇夜ではそれも可能になったのである。
「騎乗せよ。奴らを喰らう」
ブレダが短く述べると兵士たちは待っていたとばかりに愛馬にまたがった。馬たちも窮屈な思いから解放されてか、戦友の仇を憎んでか、力強く立ち上がった。
「よし、一気に行くぞ」
ブレダは槍をくるりと回すと風を切る音が響く。その音を合図に七千の騎兵が動き出した。彼らが伏せていた位置からランディーノ隊がいる位置まで五十馬身もない。走り出した騎馬の足音はすぐに彼らの知るところになった。しかし、明かりを持たずに突撃してくるトリエル軍の姿は彼らの目からほとんど見えなかった。
最初の餌食になったのは松明を持った兵士だった。トリエル軍は動く明かりめがけて攻撃を仕掛けていた。暗闇の中でもっとも目立つのは光なのである。すぐさま三百程の兵士が地に沈んだ。縦横から突撃してくる騎兵の攻撃に対してランディーノ隊は具体的な対応策を持ち得なかった。
しかし、それでも霧散しなかったのは彼らの強い憎しみとランディーノの存在であった。
斧槍を携えて、迫り来る騎兵を叩き割っていくこの男の姿を見て兵士たちはここを死地と見たのである。リンゲンで生き残った自分たちは、どうしてまだ生きているのか。どうしてあのとき死ななかったのか。その理由を求めた彼らが行き着いた答えが、「仇を討つ」であった。蛮族を殺すために生き延びた。だから、ここで刺し違えても戦うのだ。その思いの具現がランディーノであった。
ランディーノがいる場所では血煙が湧くたびにトリエル兵が倒れていく。返り血と自身がおった大小の傷から溢れ出た血で真っ赤に染まった彼はまさに赤鬼であった。火を噴くような攻撃というものがあればまさに彼がそうであった。
「陛下、行って参りましょうか?」
部下たちが次々に討たれていく様子に業を煮やしたアルダリックが駒を進めようとする。ブレダは槍で彼を押さえると自らの馬を進めた。後ろでアルダリックの制止する声が聞こえたがブレダはそれを無視した。
「それ以上、俺の兵士を殺してもらっては困る」
ランディーノが振り上げた斧槍を槍で押さえてブレダは言った。斧槍の餌食になりかけていたトリエル兵は驚いた顔でブレダに礼を述べると二人のあいだから離脱した。ランディーノは、ブレダを数秒見つめたあとに笑った。
その笑い声はひときわ大きく奇異であった。
「ようやく会えた。貴様さえいなければ我らは――」
吠えるように叫んだ言葉は不明瞭で、ブレダには後半を聞き取ることができなかった。「幸せでいられたのに」あるいは「こうならずに済んだ」、そんなところであろうかと思いながらブレダは「だろうな」、と呟いた。それはランディーノには聞こえなかった。
ブレダの槍を力任せにはねのけたランディーノは、斧槍を振り上げる。ブレダがはじかれた槍を強引に振り下ろす。槍と斧槍が激しくぶつかり火花が闇に弾ける。ランディーノは身を素早く沈めると、ブレダの愛馬めがけて斧槍を振るう。が、斧槍の馬の足に届く前に垂直に突き出された穂先に遮られる。それでもランディーノはひるまずに斧槍を振りかぶる。
振りかぶった際に空いた腹にめがけてブレダを槍を叩き込む。本来ならば、甲冑を抜くはずの槍が鈍い音だけ鳴らす。見れば穂先が折れている。斧槍を防いだ際に欠けたらしい。それでも衝撃は伝わったらしくランディーノは斧槍を振り下ろせずに片膝をついていた。
ブレダはもう一度、槍を構えると今度はランディーノの首元に狙いを定めた。甲冑の隙間ならば穂先が欠けていようと貫けるはずであった。
「ランディーノ殿!」
板金鎧に身を包んだ重装騎兵は長槍と盾を構えて二人の間に割り込んだ。ブレダの槍はこの重装騎兵の盾にはばまれていた。
「……ネロ殿か。すまない」
「もうすぐ、ロイ殿たちが駆けつけます。そうすれば勝てます」
トリエル軍の突撃をうけて後方に下がっていた重装騎兵が戻ってきていた。ネロはランディーノ隊が襲われたのを察するとすぐに重装騎兵を動かしたのである。それゆえにすぐに戦線復帰できたものは千五百騎に満たなかったが、崩れかけていたランディーノ隊を支えるには十分な数であった。
「厄介なやつだ」
ブレダが一人毒づくとネロは「敵将からそう言ってもらえるとはありがたい」、と言った。ブレダからすれば褒めたわけではないが、ネロから見れば敵将に認められたようなものであった。この名誉欲の強い若者はランディーノほど強い憎しみを持っていないだが、それでも戦う意思は強かった。
人馬一体となったネロは分厚い鎧と盾に守られている。それが長槍を構えて突っ込んでくるのである。突破することだけを考えた攻撃であった。ブレダの槍はすでに穂先が折れており、この鎧や盾を破ることができない。馬を狙うことも考えたが、馬も金属の板を結び合わせた鎧を身につけており一筋縄ではいかなかった。
数合槍を合わせたブレダは大きく息を吸い込むと手綱を短く持ち直した。それはネロからも見て取れた。手綱を短く持ったことからネロは、ブレダが急な方向転換をしようとしていると踏んだ。まっすぐ突くと見せかけて側面を狙う。軽騎兵だからできる芸当である。ネロにとっての好機はこの側面攻撃であった。敵が攻撃を仕掛けてくるときに長槍でも盾でも薙ぎ払えれば、落馬を狙えるのである。
ブレダを乗せた栗毛の馬が駆け出すとネロも駆け出した。ネロはじっとブレダの手元を見つめる。手綱をどちらに引くのか見極めなければならない。そして、二人の距離が縮まったときブレダの手が大きく左にきられた。
ネロは盾をつき出すと左に機動をずらしたブレダの顔めがけて横になぎ払った。
次の瞬間、ネロの身体に強い衝撃が走った。それは敵に盾を叩きつけたものではなかった。彼が落馬した衝撃であった。土にまみれながらネロは、背中の痛みに気づいた。同時にブレダが手綱を短く握った理由を理解した。
ブレダは馬上で身体を大きく反らせるために手綱を短くしたのである。長ければ、反らした上半身をすぐにおこす事ができない。だが短ければそれができるのである。そして、その上半身を起こす勢いを使ってすれ違いざまにネロの背中を突いたのだった。
空を見上げる形で、倒れたネロの上に人馬の影がたつ。ブレダである。彼は無言で槍を構えた。
「まだ、死にたくないな」
ネロは自身でも信じられないくらいに自然にこの言葉が出た。ブレダは「そうか。でも仕方ないさ」、と言うと槍を振り下ろした。槍はネロの甲冑を砕いた。激しい強撃とともにネロの意識は消えた。
周辺の兵士たちを中心に動揺が広がり始めた。そのうちにトリエル兵が「お前らの大将は死んだぞ!」、と叫びだす。夜韻のことである事実を確認することは難しく、ネロの声も戦場に響かない。動きの鈍った重装騎兵はトリエル兵によって馬から叩き落とされた。一度地面に落ちた彼らは簡単に騎乗することはできないからである。ネロを失ったことで重装騎兵の抵抗は統率を欠くようになった。
「同盟はもう終わりだ!」
「まだだ、まだロイ様やデキムス様がいる」
「なら、どうして来ない!」
無名の兵士たちの叫びはロイとデキムスに届かなかった。そのころ、二人は全く別の敵から攻撃を受けていたからである。ネロがランディーノ隊の救援に動いたとき、二人の第一人者も軍を動かそうとしていた。だが、その背後から三千の矢が降り注いだのである。
「後方からだと!?」
デキムスは狐につままれたような声をあげた。トリエル軍は前方でランディーノ隊とネロの重装騎兵と戦っているはずである。その彼らが後方に兵力を送れるはずはないのである。だが、現実に攻撃は背後から行われていた。
「弩兵は反撃を開始!」
呆然としているデキムスに変わり、ロイは反撃を命じる。弩兵が後方に向かって射撃を行うが闇が深く相手の位置がわからないため思うほど効果があがらない。それに対して、後方から放たれる矢は正確に同盟軍に向けられていた。
「松明を投げろ! 敵は火を狙っている」
兵士たちが松明を四方に投げると、敵の射撃が散らばるようになっただが、現状では何の解決になっていない。敵からの攻撃は断続的に続いており切れ目をなかなか見せない。
「これはトリエル軍の矢ではない。同盟の矢に似ておる。まさか、とは思うが」
デキムスは地面に刺さった矢をまじまじと見つめると、困惑した声で言った。同盟で使われている矢は弩で使うために規格が揃えられている。長さはおおよそ大人の手を縦に三つ並べた程度である。それに対してトリエル軍の矢は騎射で使うためもう少し短いのである。
「いえ、裏切り者はいません。おそらくこれを射ているのはピートの市民兵です」
「まさか!? 確かに彼らはトリエル王国に属すことを決めた。だが、彼らの中にはまだ同盟への未練がある者もいる。そんないつ裏切るともしれない兵を使うなど」
「正気ではない。そうかもしれません。でも、だからこそトリエル王は夜戦になってから彼らを投入したんです」
ロイはこのときようやくトリエル軍の奇行の意味を正確に理解した。彼らがあえて緩慢に動いたり、無意味な降伏勧告を行ったのは確かに開戦の時期をずらす目的だった。だが、それは物資不足からではない。ピートの市民兵はもともと同盟の一員であった。当然、かつての仲間に対して弓を引くことには気が引ける。それは相手の姿がはっきり見えればなおさらである。ゆえにブレダは輜重に擬態した市民兵が夜になってから到着するようにした。
夜ならば敵の姿は見えず、彼らの罪悪感は薄れるからだ。
「とはいえ、このままではわしらも危ない。攻撃を仕掛けるか」
「いえ、このままランディーノ殿やネロ殿と合流します。ピートの市民兵はこちらが近づけば退くように命令されているはずです。追いかければ追いかけるほど、こちらの戦力が分散することになる」
「では、急ごう。このままでは槌の方が持たぬ」
ロイは五百人ほどの兵士に散発的な攻撃を行うように命じて前進を再開した。ピートの市民兵の驚異は大きいものではない。だが、こちらからの攻撃がなくなれば間違いなく前進を開始する。そうなれば、同盟軍はその度に歩みを止めなければならなくなる。
こうして、ロイとデキムスの前進は遅れることになったが、それでも合流したのであった。合流した二人はネロの戦死を伝え聞くと、すぐさま残存する重装騎兵に集合を掛けた。だが、重装騎兵が再集結する前に彼らはトリエル軍からの猛攻を受けることになる。
「ウァラミールの弁当がうまく効いたようだな」
ブレダは笑ってみせたが疲労の色は隠しようがない。兵の損耗も激しくすでに千五百人が失われている。だがそれでも撤退を叫ぶものはいなかった。もし、戦闘が長引けばさらにトリエル軍は劣勢に追いやられるのである。
「本人は嫌そうでしたがな。ピートの市民兵の指揮は私でなくとも! 、と言っておったがわしらのなかでロルム人から人望があるのはあいつだけですからな。ロルム人を救うために戦ったあの件が効いておるのでしょう」
「まぁ、これも人の利と言えるかな」
初めて騎兵以外の兵を率いることになったウァラミールにブレダもアルダリックも同情はしたが代わってやる気はなかった。
「さぁ、あの壁を超えれば終わりだ。夜明けまでには終わらせるぞ!」
ブレダが声をあげるとトリエル兵は生き返ったように叫ぶと槍や剣を構えて駆け出した。夜の戦いではあまり弓は効果を発揮しない。それは昼間と違い標的を定めるのが困難であるからである。
白兵戦となった。
敵陣を乱すように小集団に分かれて突撃と離脱を繰り返すトリエル軍に対して、同盟軍は重装歩兵の戦列を堅守しながら長槍を使って騎兵を一人一人と無力化していった。反対に列を乱された同盟軍は飛来する騎兵に数を削られている。
「敵は堅固だな」
「我らにとって彼らにとっても乾坤一擲ですからな。さて、そろそろわしも出るとしよう」
そういうとアルダリックは槍を片手に愛馬を駆って飛び出した。ブレダの祖父の時代からトリエル王国に使える彼は年齢を感じさせない動きで次々と敵を葬る。この老将の進路を防げる者はいないのか綿布を裂くように同盟の陣列が乱れていく。
このアルダリックの前進によってトリエル軍全体が押し上げられたとき、それは起こった。
トリエル軍に突破されたランディーノ隊が後方から再び攻撃を開始したのである。その勢いは暴風のようであった。彼らは騎兵の正面にたつと剣を馬や兵士に向けたのであった。捨て身とも言える攻撃は容赦なくトリエル軍の命を奪った。そのような兵士が一人や二人ではないのである。百人単位の兵が無謀な攻撃の餌食となった。兵力が薄くなっていた後方ではかなりの死傷者が出た。
このときブレダも後方にいた。ブレダは兵に距離を取るように命じ、自身も剣をとって戦っていた。槍はネロとの戦闘ですでに失っており、馬上では使い勝手が悪い剣を使っていたのである。そこをランディーノに襲われた。
ランディーノは怪我人とは思えぬ力で斧槍を振り回した。ブレダはこれを剣で弾こうとしたがさばききれずに兜を吹き飛ばされた。飛ばされた拍子に額を切ったのか血が滴り落ちる。肉薄といっていい攻防であった。
ブレダは何度もランディーノに撃ち込まれた。その度に剣でいなすのだが、次第に劣勢に追い込まれていく。気づけば、剣はささらのようになっていた。
「その剣が砕ければお前は死ぬ。ようやくようやくだ。皆の代わりに私は」
ランディーノはどこのその元気が残っているのかというほどに傷ついている。だが、その動きがまったく衰えない。それどころかさらにきれをますようになっている。赤鬼と言われる彼はすでに人間ではない何かなのではないか、そう思えるほどである。
「悪いがまだ死んでやれんのだ。俺はもう少し生きたいと思っている」
ブレダがそう言うとランディーノは獣のように吠えた。彼は斧槍を横凪に振り抜いた。そのままであればブレダは愛馬とともに切断されるはずであった。だが、そうはならなかった。斧槍を飛び越えた愛馬から飛び降りたブレダの剣がランディーノの右腕を断っていたからだ。
ささらのようになっていた剣はこのとき折れた。ブレダは仕方なく落ちたランディーノの右腕から斧槍を奪うとランディーノに言った。
「俺は遠からず死ぬ。その時はお前の話を聞いてやる」
ブレダが斧槍を振りかぶったとき、彼は激しく咳き込むと大量の血を吐いた。そのまま崩れ落ちたブレダは、斧槍を杖のようにして跪いた。それがなければ彼はそのまま大地に伏していたに違いない。
「いま死ね! お前だけは殺さねばならないのだ」
息苦しさに耐えながら声の方に目を向ければ、片腕を失ったランディーノが立っていた。その顔からはすでに血の気が失われ幽鬼のようだった。それでも彼は残された左腕に短刀を握り締めていた。その刀身は鈍くひかっていた。
「陛下!」
ブレダに向けられた凶刃は寸前のところでとめられた。敵陣深くまで切り込んでいたアルダリックが一向に進んでこないブレダを訝しんで戻ってきたのである。アルダリックは短刀を素手で受け止めていた。そして刃が食い込むことを恐れず、力任せにランディーノから短刀を奪うとそのままランディーノの首を切り裂いた。
「……」
ランディーノは最後に何かを叫ぼうとしていたが、喉から血が溢れ出したせいで言葉は誰にも聞き取れなかった。
「みっともないところを見せた」
「ご無事でよかった」
アルダリックは微笑むと近くの倒れた兵士から革袋を奪い取るとブレダに渡した。革袋の水を舐めるように飲むとブレダは一息を付いた。咳病による吐血の頻度が増えている。それをブレダも感じずにはいられなかった。
「戦況はどうだ?」
「我らに有利に傾いています。敵の大将と思われる二人が最後の抵抗を行っています。それが片付けばすべてが終わりましょう」
このとき、同盟軍の大半が壊滅していた。唯一、ロイとデキムスが三千程の兵と共に方陣を組んで抵抗を続けていたが、それも限界が近づいていた。度重なる騎兵の突撃によって兵士たちは満身創痍であった。
「往くぞ。この戦いにケリをつけねばならない」
ふらつく足を引きずりながらブレダは愛馬にまたがると最後の抵抗を行う二人の第一人者の前へと向かった。そこはすでに膠着状態にあるのか両軍の兵士たちがにらみ合ったまま動きを止めていた。ブレダとアルダリックが到着すると兵士たちは、彼らの王がこの二人にどのような声をかけるのか聞き漏らすまいとした。
「圧勝したかったが、辛勝というとこだろうな。それに免じて降伏を許す。」
ブレダが言うと、敵陣の中から二人の男が出てきた。そのうち一人にブレダは見覚えがあった。かつてピートで出会った塩商人だという若者である。その横にいる老人は見たことがなかった。
「初めてお目にかかる。私はアミンの第一人者であるロイ・ボルン。隣にいるのはオルレインの第一人者であるデキムス・ノイアと申します。トリエル王ブレダ陛下とお見受けするが相違ないだろうか?」
通る声でロイと名乗った青年はあくまで初対面を気取るらしい。ブレダは巡り合わせの妙を感じながらもそれを入れた。
「正しく、俺がトリエル王ブレダである。世には略奪王など言う者もいるようだが、小国の王に過ぎない。さて、ロイ殿は降伏の意思はあるか?」
ブレダが問うとロイはちらりととなりの老人を見た。老人は小さく頷いてみせた。おそらく、アルダリックとそう変わらぬ年であろう。ブレダはそう思いアルダリックを見た。彼は痛みを堪えるような険しい顔を崩さず、じっと二人を見つめていた。
「我ら同盟の兵士は、職業軍人ではない。家業を持ち家族を持つ市民である。彼らの生命を保証していただけるだろうか?」
ロイは自身の命については質問しなかった。
「良かろう。認めよう。では、次だ。ピートは我が国に属することを市民自身が決めた。それに伴い新しい国境を定めたい。リンゲン以東でいかがか?」
「認められぬ。ピートの領域であるトリア平原までであれば認めるが、リンゲン以東とはちと欲が深いと言わざるを得ないのう」
ロイの隣にいた老人が口を開いた。
「デキムス殿はリンゲンが既に失われたことをご存知ないか?」
ブレダは高圧的に言った。それは単なる嫌がらせではない。彼らを通して六都市同盟という国の心が既に折れているか否かをはかる言葉である。これを認めるようならば、同盟は早晩に歴史から消えるに違いない。
「トリエル王は草木が夏に茂り、秋に実を結び、冬に枯れ落ち、春にまた芽吹くことを知らぬのか。六都市同盟にとっていまが冬よ。春が来ればまたリンゲンという町は息を吹き返そう。それゆえに国境はこの場から以東になされるが良い」
デキムスという老人はもう一戦も辞さない覚悟を見せた。おそらくそれは張子の虎である。それでも彼は強者に屈しない意地を見せようとしていた。
「良かろう。国境をこの場より以東とする。相違なければ、速やかに武器を捨て故郷へと戻られるが良い」
そう言うとブレダは兵を集めた。同盟軍の方も残された兵を集めている。だが、彼らの武器は一箇所に積み上げられている。最終的にトリエル軍は八千騎のうち四千が失われていた。同盟は一万六千人のうち生き残ったのは六千人。そのうち三千人は負傷していた。勝ったトリエル軍にしても辛勝と言うべき戦いであった。
「よし、ピートに戻るぞ。アルダリック」
アルダリックに声をかけると、彼は額から汗を流し、虚ろな目をしていた。それはあまりにも異常な様子で近くの兵士が駆け寄ると、アルダリックはそのまま崩れ落ちた。彼をよく見れば右手が紫色に腫れ上がっていた。それは、ブレダを助けるためにランディーノの短刀を掴んだ手であった。
「アルダリック!」
ブレダの叫びはアルダリックには届かなかった。トリエル王家三代に使えた老臣は敵の短刀塗られていた毒によって倒れた。歴代の王に『城壁よりも堅き者』と呼ばれた老将の最後であり、ブレダにも敵対していた同盟からも後味が悪い最後であった。




