第三十話 第二次トリア平原会戦 中篇
「実に嫌みたらしい物言いでしたな。陛下は実に口がお悪い」
ブレダ・エツェルが軍列に戻るとアルダリック・モラントが言った。その顔には、いかにも愉快であるというような人の悪い笑みが浮かんでいる。それは、ブレダからの降伏勧告のあと目に見えて同盟軍の動きが騒がしくなったことにたいする満足感でもあった。
ブレダの行った降伏勧告を聞いた同盟では指揮官同士の連絡を伝えるべく伝令兵が走り回っている。それがトリエル軍からも見て取ることができるのである。同盟軍を見つめたアルダリックは視線をそのまま空に向けた。太陽は既に中天を過ぎ去り傾斜を強めている。秋の日は釣瓶を落とし、とはよく言ったものでこのまま一刻も時間を稼げれば、太陽は山の間に消えるだろう。
「お前の方が嫌味な言い方をする。俺が好き好んで言っているわけではないことを知っているはずだろうに」
ブレダは本当に疲れたという声で文句をつけると愛馬から飛び降りた。しかし、着地がうまくできなかったのか、彼の身体は大きく傾いて愛馬にもたれ掛かるよう地面に座り込んでしまった。
その瞬間、あっと周囲にいた兵たちが声を上げた。その中にはアルダリックも含まれており彼は誰よりも早く動くとブレダの傍に駆け寄った。
「足が滑っただけだ! 問題ない」
駆け寄ろうとする兵士たちを片手を大きく広げてせいすると、ブレダはすっと立ち上がって見せた。周囲の兵士たちはその姿を見て安堵の声をあげた。その中でアルダリックだけが張り付いた笑みでブレダを見ていた。その視線に気づいたのかブレダは「詰の軍議を行う。士官を呼び集めよ」、と周囲の兵に命じた。兵たちは慌てて各所に配されている士官を集めるべく四散した。
「陛下、肝を冷やしましたぞ」
「どうもいけないな」
ブレダは、小さな咳をつきながら口を拭った。
「ここはわしが指揮を取りましょう。陛下はピートに戻られては」
「そういうわけにはいかない。兵たちは俺を見て戦っている。俺が姿を消せば兵たちが不安に思う。そうなれば勝てるものも勝てなくなる。なにあとひと踏ん張りだ。咳病ももう少しくらいは待ってくれるだろうよ」
ブレダはなにかに挑むような表情を見せた。アルダリックは理解した。自分もまた王を見ている兵の一人なのである。ゆえにブレダは彼にも王たらんと接する。それはつまるところアルダリックを含めたすべての兵がいる限りブレダは王であり続けるしかなく、決して止まれないのである。
「王とは難儀な仕事ですな」
「そうでもない。領地で見た農民やここで戦う兵たちの方がよほど難儀なものであろう。俺は偉そうにふんぞり返っていれば良いのだ。簡単なものだ」
そういったブレダの声は妙に澄んだ印象をアルダリックに与えた。
「それは良い仕事ですな。反対にいま一番難儀している奴をわしは知っておりますよ」
「ウァラミールか。あいつならうまくやるだろう」
「信頼しておられますな。同盟軍と小競り合いをしたときは随分とあれにキツくあたられた、というのに」
ウァラミール・ザッカーノは、ブレダがまだ王太子であった頃からの知己である。ベルジカ王国によって捕らえられた際は、ともに捕虜となった。将軍の一人になったあとも彼の純朴な人となりはいまも変わらない。
「俺があいつと同じ立場なら戦っただろうからな」
「呆れたものです。そのくせにあやつを怒られたのですか?」
アルダリックは別の地にいる同僚を不憫に思った。
「言っただろう。同じ立場なら、と。俺が将軍であればそうした。だが、俺は王だからそういうわけにはいかない」
「それを聞けばウァラミールは喜んで涙を流すでしょうな」
困り顔でアルダリックが言ったとき、にわかに周囲が騒がしくなった。各隊の士官が到着したのである。彼らは、一様に厳しい顔をしている。
「さて、もうじきにウァラミールが弁当を持ってくる。敵が気づいてくれれば食前の運動だ」
ブレダが言うと士官たちは短いが強い声で「おう」、と応じた。ここにいる者たちは開戦からここまで戦ってきたトリエル軍一万騎がすでに八千に落ち込んでいることを知っている。そして、これ以上の損失は騎兵として組織だった戦闘が難しいことを理解している。ゆえに、この戦いは彼らにとっても決戦であったのである。
「魚鱗の陣を中央から分ける左翼をアルダリック。右翼を俺が率いる。各々は部隊の位置を確かめよ。一人の失敗が百人、千人の戦友を殺すことになる。覚悟せよ」
士官の誰もが言葉を発しなかった。それは否定的な沈黙ではない。
やるべきことを明確に理解したものだけが持つ、肯定的な沈黙であった。
「とかく今回の戦いでは早さが物を言う。狼のごとく駆けて、食らいつくのだ」
ブレダはそう言うと士官に解散を命じた。士官と共にブレダのもとから持ち場へと移動するアルダリックは短い別れを述べた。
「では、陛下しばしの別れになります。のちほど戦場でお会いしましょう」
「ああ、短い別れだ。敵の餌食になるなよ」
こうして、ブレダとアルダリックの二人が短い別れを交わしているころ、同盟側ではアミンの第一人者であるロイ・ボルンのもとに一つの報告が寄せられていた。それは戦場であるトリア平原に放った偵察兵からであった。
「ピートから多数の荷駄を曳いた三千ほどの輜重隊がトリエル軍に向かっています」
この報告を受けたロイは、トリエル軍がわざとらしく開戦を遅らせている理由を見た気がした。騎兵に特化しているトリエル軍は、食料や武器を運搬する輜重隊との連携が取れなった。その物資不足から彼らは時間稼ぎを行った、ロイはそう判断したのである。
トリエル軍の緩慢さから奇策の可能性を疑っていたロイは、少し拍子の抜けた気持ちであった。
「両翼を前進させる。輜重隊が到着する前に敵を包み込む。」
ロイの命令はすぐに中央と左翼に伝えられた。
この命令に最も喜んだのは中央を指揮するランディーノ・フィチーノであった。彼のランディーノ隊はトリエル軍に恨みを持つリンゲンの残兵三千と、ルギィの議員とその子弟からなるルギィの市民兵二千を合わせた五千で構成されている。最前列を士気の低いルギィの市民兵がつとめ、その後方を高い士気を誇るランディーの隊が睨みを効かせている。
「ようやく。ようやくあの蛮族を殺せる! クラウス様や多くの同胞の仇を討ち果たすのだ」
ランディーノ隊は、狂気とのも言える喜びでこの命令を受けた。両翼がこのままトリエル軍を包囲すれば、敵兵は彼らの正面に嫌でも向かってくる。狩りで言えば、両翼は勢子であり、勢子に追い立てられた狼を狩る猟人がランディーノの指揮する中央なのである。
勢子の役割を与えられた両翼では、陣列を崩さぬようにゆっくりと、だが確実に前進が開始されていた。重装歩兵の歩速合わせるように動く彼らは大盾を槍の柄で叩き、その調子に合わせて動くのである。
この両翼の動きをトリエル軍から見れば、巨大な壁が左右からせり出してくるようであった。
同盟軍の前進に反応したのはブレダが率いる右翼であった。魚鱗が中央から裂けるよう割れるとブレダの軍は正面から迫る同盟軍の左翼を躱すように迂回を始めた。
「壁に真っ向からぶつかる馬鹿はいない」
四千の騎兵を指揮するブレダはそう言うと愛馬を駆って走り出した。
「陣列を左に回頭す……。いや、前進を継続! 加えてネロ殿に伝令。敵右翼を撃て」
このときロイは迷った。
ブレダの迂回に合わせてロイが回頭すれば、ランディーノ率いる中央とのあいだに隙間が生じる。この隙間をいまだに動かない敵左翼に攻められれば、ロイは前後から襲われることになる。それよりは、メスの第一人者であるネロ・リキニウスが指揮する重装騎兵と連携して、敵の右翼に当たる方が被害が少ない。ロイはそう結論づけた。
「同盟軍は思い切りがいい。だが、そうではなくてはな。弩の射程ぎりぎりを駆け抜ける! 俺の配下で矢に当たるような馬鹿はいないな!」
ブレダが言うと周囲の騎兵が叫ぶ。
「当たり前です」
「陛下の部下にそんな馬鹿はいませんよ」
「お前、そんなこと言って当たるなよ」
彼らは戦場の緊張を忘れるように笑うと身を低く馬の背に押し当てた。馬も主の意図を感じてかその脚を更に速める。
「弩兵は矢の装填を確認。構えよ!」
ロイは後列の弩兵に命じた。
「く、くるぞ」
「落ち着け、射程は弩の方が長いんだ!」
「だがよ。前を守ってくれる歩兵はいないんだぞ」
弩兵はアミンの市民兵であり、その多くはこれが初陣であった。弩という武器は矢を装填し引き金を引けば、簡単に矢を発射することができる。弓や槍、剣といった多くの武器と違って簡単な訓練でそれなりに扱えるのである。だからこそ、ロイは市民兵にこれを装備させたのである。
一つ、彼の想定になかったことは彼らが矢面に立つということであった。ロイは彼らを重装歩兵の後方――守られた位置から戦うことを前提にしていた。だが、ブレダが大きく迂回したことによってロイの想像に反した運用が行われたのである。
「まだ撃つな。引きつけるんだ!」
ロイは叫んだ。後方に回り込んだトリエル軍はまだ射程よりも内に入っていない。三馬身ほど外にいるのである。もう少し入り込んだところで撃てば、革鎧程度の装備であるトリエル騎兵を貫くことは容易だった。
だが、騎兵の恐怖に負けた者がいた。
彼は迫り来る四千の騎兵に臆したのである。たった一人が放った矢が呼び水になった。
弩兵たちはロイの号令がないままに射撃を始めたのである。千ほどの矢が散発的に降り注ぐが、それはブレダたちの元に届くことはなかった。
「敵に馬鹿がいたな。騎射を始めろ!」
ブレダは鼻で笑うと、部下に騎射を命じた。
トリエル軍の使う弓は弩よりも射程が短い。だが、弩よりも速射が効くのである。反対に弩は装填するために足で弦を引き上げなければならず、速射には向かなかった。初撃を躱したトリエル軍の騎射は激しかった。驟雨のようにどっと降り注いだ矢は千人近い死傷者を出して、急に止んだ。
生き残った同盟軍があたりを見渡すとネロ率いる重装騎兵が近くまで迫っていた。重装騎兵の到着を見たブレダの軍は後退を始めている。
「くそ、遅かったか。いや、まだだ。まだいける」
ネロはかつての会戦での失敗を思い出しながらも、かろうじて軍列を維持している左翼を見て言った。左翼の被害は大きかったが、まだ重装歩兵や長槍兵は健在であり、乱れを立て直すことは可能であるように見えた。
「落ち着け。まだ、我々は戦える。敵は重装騎兵に怯えて後退を始めた。今のうちに体勢を整えろ!」
ロイは負傷者を助け起こしながら叫んだ。
例え、いまの攻撃で千の兵が失われたとしてもまだ兵力では同盟軍の方が優勢なのである。
左翼がロイの命令に従って再構築されていく姿を見て、ネロ達は安堵した。まだ、同盟は崩れていない。それだけで第一次トリア平原会戦から苦汁をなめ続けている彼らにはまだ戦えるのである。
「敵を無理に追いかけるな。退きたければ退かせてやるのだ!」
ネロは前回の失敗を教訓に深追いを避けた。ブレダは重装騎兵の追撃がないことを確認すると弩の射程から二十馬身ほど離れた位置で右翼の動きを止めた。結果として、同盟軍の後方でネロの重装騎兵とトリエル軍右翼は向かい合った。
「陛下は無事に後方にまわられたか。では、わしらも行くとしよう」
大槍を高く掲げると、アルダリックはトリエル軍左翼を動かした。それはブレダの動きを左右変えて全く同じものであった。オルレインの第一人者であるデキムス・ノイアはこのアルダリックの動きの意図を察した。アルダリックに同盟軍右翼が迂回されると同盟軍はトリエル軍に後方に回り込まれた形になるだけではなく、ネロたち重装騎兵が前後から挟撃されることになるのである。
「ロイ殿とランディーノ殿に伝令を出す!」
デキムスは伝令の騎兵に命令を与えるとそれぞれに向けて馬を走らせた。その間にもデキムスの右翼の真横をトリエル軍左翼が駆けていく。デキムスの部下たちは口々に迎撃を進言するがデキムスは首を左右に振った。
「我らは反転せずに大きく左に迂回し、ロイの軍と合流して敵の右翼の後背を取る!」
デキムスは自軍が反転しても騎兵に追いつくことは難しいと踏んでいた。追いつけなければ先回りをすればよい。デキムスの右翼が大きな弧を描いて進めば、陣列を大きく乱すことなくトリエル軍右翼の後背に出られる。また、デキムスの背後を通過したトリエル軍左翼はそのままネロの重装騎兵にぶつかる。そこをランディーノの中央が押さえれば、同盟軍はトリエル軍を包囲できるのである。
だが、この策にはいくつかの問題があった。一つはネロの重装騎兵が一時的とはいえ挟撃されることである。二つは、デキムスの右翼の移動が遅れれば包囲が不完全になることである。もし、遅れればネロは敗れ、ロイとランディーノの軍が余勢をかった敵とぶつかるのだ。
「急げ! 敵の背後をつくのは今しかないのだ」
デキムスは顔が真っ赤になるほど大きな声で命令を下すと。兵をせかした。ネロはきっと敵の攻撃を耐え切ってくれる。ランディーノは必ずトリエル軍左翼の背後を押さえてくれる。デキムスは彼らを無条件に信じたと言って良い。
デキムスから伝令を受けたランディーノもこの信頼に応えた。
彼は自軍の背後を駆けてゆくトリエル軍左翼を追いかけるように部隊を回頭させた。この頃にはもう太陽は山合に沈むか沈まないかであり、平原には騎兵や兵士たちの長い影が乱立し、草木は真っ赤に染まっていた。
「まったく厄介な奴らだ」
ブレダは苛立ちを隠さずに言った。ネロの重装騎兵に対して小競り合い程度の攻撃を仕掛けたブレダであったが、矢は弾かれるだけで効果は見られない。そこへ大きく迂回したアルダリックの右翼が到着した。ネロの重装騎兵を挟み込んだトリエル軍は、一気に攻勢にかかる。
「突撃!」
「突破せよ!」
前後から攻め立てられたネロの重装歩兵はそれでも耐えたのである。
「円陣を組め! 隙間を作るな。敵の攻勢は直に止む」
ネロの号令円陣を組んだ彼らはお互いをかばうように支えあった。トリエル軍の攻撃で倒れたのは五百騎にも満たない数であった。これにはブレダもアルダリックも驚きを隠せなかった。満を持しての挟撃が防がれたのである。
「陛下! 今度は我らが包囲されつつありますな」
アルダリックは乱れた息を整えながらブレダの横に馬を並べた。周囲を見渡せば、敵の中央部と右翼がそれぞれ別の方向からブレダたちを包囲するように迫り出してきている。最初に一撃を加えた左翼もすでにほころびの繕いが終わろうとしている。
重装騎兵はブレダたちの追撃がとまったこの機会を逃さずに後方に下がり始めているが、隊列を整えればすぐにでも彼らは戦場に帰ってくるに違いない。
「同盟も粘り強い戦いをするようになったものだな。初戦はすぐに崩れてくれたというのに」
「それだけ彼らも必死なのでしょう。それは我らも変わりませんが」
「気持ちの上では条件は同じか。なら、あとは地の利、天の利、人の利、次第といったところか」
ブレダは人ごとのように呟いた。
「では、まず何の利から味方にしますかな?」
アルダリックは楽しむような口調で訊ねる。
「そうだな。まずは天の利から味方にするとしよう」
そう言ったブレダの声は、包囲されつつあるという危機感を見せないゆとりがあった。




