第二十七話 ネロの挫折
メスの第一人者であるネロ・リキニウスは、挫折を知らない若者であった。
二十代後半という若さでありながらメスの第一人者に就いた彼は、前任の第一人者カシウス・モルデリーニが残したいくつかの問題を直ちに解決した。その一つが、隣国ベルジカ王国との捕虜問題である。ベルジカ王国では数年前に内乱が起きた。その際、メスに接する領地を持つネウストリア大公が国王によって誅殺された。だが、その王も逆臣ルキウス・オルセオロによって討たれた。そのため、ネウストリア大公領は一時的に支配者不在となった。
この混乱を利と見たカシウスは、六都市同盟の許可を取らず独断でネウストリア大公領の南部に市民兵を差し向け、占領した。しかし、ネウストリア大公家の分家から新たに大公が選ばれると戦況は一変した。新しく大公となったニコロ・ネウストリアは領内の勢力をまとめあげると一気に南部を取り戻した。押し戻されたカシウスはニコロによって捕らえられ殺された。残された市民兵の多くはニコロの捕虜となった。
第一人者に就任したネロは、ただちにニコロに面会を申し出ると、身代金なしでの捕虜開放を取り付けることに成功する。これはネロの交渉がうまかったこともあるが、ニコロ側にとっても大勢の捕虜を食わせていく余裕がなかったことも挙げられる。ともあれ、ネロは着任早々に捕虜となった市民兵を無事に家族のもとに返すことによって市民から信頼を勝ち得たのである。
その後も彼は、歩兵中心であった軍制を重装騎兵中心とした突破力を重視したものに改革する。他にも農業振興のために低金利での融資を行うなど多くの政策を実施した。その多くは成功し、ネロにはあと十数年もすればメスが六都市同盟最大の都市であるリンゲンを超える大都市になるとさえ想像できた。
だが、順風であったネロにも挫折が訪れる。
それが第一次トリア平原会戦である。
彼が育てた重装騎兵はその分厚い鎧と盾によってトリエル軍の軽騎兵が放つ矢を簡単にはねのけた。このとき、ネロを含め兵たちもが勝利を確信した。
「肉薄さえすれば、トリエル軍を壊滅できる」
長槍を構えて突撃を行う彼らに対して、トリエル兵は慌てた様子で馬首を反転させると撤退を始めた。それを好機と見たネロたちは、他の同盟軍を残して追撃を開始した。だが、すぐにでも縮まるかと思われた両者の間隔は時間が経っても変わらず、最後には徐々に引き離されていった。
それは明快な理由であった。重装騎兵と軽装騎兵では馬にかかる負担が異なる。重い板金鎧の兵士を乗せた馬が、革鎧のような軽い兵を乗せた馬と同じ距離を走ることはできないのである。まんまと主戦場から離されたネロ達メスの重装騎兵は、引き返すこともできず。遠目に数を減らしていくルギィやリンゲンといった他の同盟軍を眺めるしかできなかった。
会戦はトリエル軍の快勝によって幕を閉じた。だが、このときでもネロを含めメスの重装騎兵は意気を失ってはいなかった。
「今回は、うまく躱されたが正面からぶつかればトリエル軍にこちらの防御を崩すことはできない」
「他の都市はどうあれ我らには被害らしい被害はない」
「奴らはこちらを完全に警戒している。それは自分たちに勝つすべがないからだ」
彼らには再戦の機会があれば、自分たちは決して負けない、という自信があった。だが、その自信は長く奪われることになる。会戦の敗北によって各都市の敗残兵はそれぞれの都市へ戻っていた。ネロもそのつもりでメスを目指していた。だが、それを阻む者がいた。
それは、会戦で兵と第一人者の両方を失ったルギィからの使者であった。
「ネロ様、どうかルギィをお守りください。我らルギィの民は第一人者を含め多くの市民を失いトリエル軍に対抗する術を一夜にして失いました。このままではピートのようにルギィはトリエル軍に蹂躙されてしまいます」
そうネロに声をかけたのは、ルギィの市民議員を長く勤めるトマーゾ・スカンツィであった。人の良さそうな丸顔に少し肥えた体躯はとても戦場という争いごとの舞台に縁があるようには見えなかった。
「よかろう。メスが誇る重装騎兵は貴君らルギィを守る盾になろう!」
ネロは彼の申し出を快諾した。そこには二つの思惑があった。
一つは、ネロには野望があった。彼はメスを六都市同盟の盟主にしたかった。それが彼の望みであり、ひいては自身が六都市同盟を率いる、という彼のソレだった。そのためネロはルギィの防衛を受けることで恩を売りつけ、同盟内での発言権を強化できると考えたのだった。
二つは、重装騎兵に再戦の機会を与えるためである。先の会戦においてネロの率いる重装騎兵はトリエルの将軍アルダリック・モラントの軽装騎兵を深追いしすぎたために他の第一人者との連携を欠いた。その結果が、同盟の敗北とアミンとルギィの第一人者の敗死につながった。このことはネロを含め兵たちに僅かに後悔の念を抱かせていた。それゆえに兵たちはまだ戦えるという自信とともに再戦を渇望していた。それゆえに彼はこの発言に食いついた。
「ありがとうございます。ルギィの市民一同はネロ様への恩を終生忘れません。」
トマーゾは頭が床につくのではないか、と思うほどに頭をさげ続けた。こうしてルギィの防衛につくことになったネロに対してルギィの市民議会は『臨時第一人者』の称号を与えた。この役職は正規のものではない。ネロのためだけに用意されたものである。
ネロは当初、これを喜んで受けたがのちに激しく後悔することになる。
ルギィに入ったネロは旗下の重装騎兵三千を二つに分けた。一つは、ルギィの防衛としての千騎。残りは周辺都市防衛のための遊撃部隊となった。その指揮を取るつもりだったネロだが、ここでルギィの市民議会から横槍が入る。
「臨時第一人者として市民議会に参加していただきたい。それは臨時であっても第一人者の義務です」
それはネロにルギィ防衛を依頼してきた丸顔のトマーゾ議委員であった。彼はさらに「議会に参加中は私が騎兵をお預かりしましょう」、と笑顔で騎兵の指揮権を奪っていった。議会で行われる議事は、些細な法律の改正や予算の改訂などでとてもネロが参加しなければならないような重要なものは含まれていなかった。だが、ルギィの議員たちはネロを拘束するかのように議事をゆっくりとすすめつづけた。
「いや、なにぶん規則ですので」
「我々の決定が市民の生活に関わるのです。議論しすぎるということはありますまい」
「多数の意見を聞くだけではなく、少数の意見も聞いて判断をくだす。それが公平というものでしょう」
それは明らかにネロと重装騎兵を会わせない口実であった。このときになってネロはルギィの議員たちが何を望んでいるかを理解した。彼らはていのいい用心棒を欲していたのである。ルギィの兵が失われることはそのままルギィの市民が失われることになる。だが、メスの兵が失われる分にはルギィの腹は痛まないのである。兵を養うために多少の出費があろうと市民が減ることと比べればよほど効率がいい、という考えなのである。
重装騎兵たちは、少数に分けられ各地の防衛という名目でルギィの衛星都市に振り分けられた。彼らはその命令がネロから出ている、と思っていた。だが、実際にはトマーゾから出ており彼らがネロと面会ができないようにあえてルギィから離れた場所に彼らは送られていった。
こうして、ネロは動きを封じられた。
リンゲンがトリエル軍によって包囲されたとき、救援を求めるリンゲンの使者は彼のもとにたどりつけたもののルギィの議員たちの抵抗によって兵を出すことができなかった。
「いまならリンゲンの包囲を破ることができる。私に指揮権を返すのだ。トリエル軍に遊軍はない。後背を脅かすだけで戦況を変えられるのだ!」
ネロは議員たちに叫んだ。だが、議員たちの反応はひややかなものであった。
「リンゲン攻め自体が囮で騎兵が動いたところを見計らってトリエルが攻めてくる可能性がある」
「そもそも各地の防衛に出した兵を戻すのには時間がかかります。もう間に合いますまい」
「その使者がトリエルの間者なのではないか? 包囲されたリンゲンから抜け出してきたというのが嘘くさい」
思い思いに好き勝手なことをいう議員をネロが睨みつけていると、ひとをくったような笑顔のトマーゾが手を挙げた。
「いやいや、リンゲンの大事だ。兵をだそうではないか」
否定的な意見を述べていた議員たちは驚いた顔でトマーゾを見つめる。その目は明らかに「本気ですか?」と問うものであった。トマーゾはゆっくりと頷いてみせるとさらに続けた。
「だが、みなの思いも分かる。どうでしょうか。ここは五十騎ほどの斥候をだして真偽をはかっては?」
「そんな悠長な場合ではない! 最低でも千騎は出さなければ戦況は変わらない」
ネロは声を荒げてトマーゾに詰め寄る。それでも彼は顔色ひとつ変えることなく微笑むと言った。
「臨時第一人者殿は五十騎では足りぬともうされる。では、こうしましょう。議会で決をとるのです。ですが、今日の今日では議論の情報が少ない。明日までに精査して議論を尽くしましょう」
「それでは間に合わないんだ! 隣家の家事はすぐにでも迫ってくるのだ。リンゲンを守ることがルギィを守ることになることがわからないのか?」
ネロはトマーゾを殴りつけたい気持ちをおさえていった。
「臨時第一人者殿。思い違いをされておられませんか。第一人者は議員の代表でありますが決定権は議員全てにあるのです。それをそうわがままばかり言われてはこまりますなぁ」
トマーゾの言うことは基本的には正しい。規則は守られるべきなのである。だが、それは平時の理屈である。戦時には戦時の理屈があるはずなのだが、このルギィの議会にはそれを理解する者はいない。いや、理解しようとしていないのである。
「わがままだと、それは貴方がたではないか。ピートに続きリンゲンまでが陥落すれば同盟はもう同盟でいられなくなるぞ。ルギィあっての同盟ではないのだ。同盟あってのルギィであり、メスでありリンゲンなのだ」
ネロは六都市同盟の首座につきたいという野心がある。だが、それはリンゲンやピートといった六都市があるうえでの同盟である。ほかが失われて名だけが残っていても意味がないのである。
「臨時第一人者殿はお若い。そのような甘いお考えではルギィを任せることはできませんなぁ。議員諸君! 私、トマーゾ・スカンツィから臨時第一人者ネロ・リキニウス解任の決を取りたい。彼は議会を軽視するだけではなく、冷静な判断を欠いているように見える。私に賛同するものは声を上げよ」
芝居がかった調子でトマーゾが叫ぶと議員たちの間から、
「その通りだ」
「いかにも」
「メスの小僧では荷が重かったのだ」
と、賛同の声があがった。ネロは歯を食いしばった。
彼の人生の中でここまで屈辱的なことは何一つなかった。その姿を嘲笑うかのようにトマーゾは、両手で議員たちの声をおさめた。そして、ネロに言った。
「いままでご苦労様でした。臨時第一人者殿。いえ、元臨時第一人者殿」
「トマーゾ殿。私は解任されたのですね」
ネロは確認するように訊ねた。
「あなたはもう元臨時第一人者です。肩の荷が降りたのではありませんか?」
「なりません。私の肩には兵の命がずっと乗っている。メスの兵は返してもらいます」
ネロが議会の出口へ向かおうとすると、トマーゾが静止するように立ちふさがった。その顔にはいやらしい笑みが張り付いている。
「困りましたなぁ。いまメスの兵を手放せないのです。彼らはルギィを守るのに必要なのです。そう、あなたはいらなくても彼らはいるのです。なので、元臨時第一人者殿にはいままでの労をねぎらうための館を用意しております。そちらでゆっくりお休みください」
そういってトマーゾが手を上げると議場を警護していた複数の衛士がネロを取り囲んだ。
「トマーゾ殿、私からのお礼です」
そう吐き捨てるとネロは、拳を振り上げてトマーゾの顔面に叩きつけた。乾いた音が議場に響き、トマーゾが床に膝をついた。鼻からは血が流れ出しており、たれ落ちた血が床に赤黒い花を点々と咲かせた。
ネロはもう一発ほどトマーゾに加えたかったが、衛士によってネロは後ろから羽交い絞めにされる形で取り押さえられた。トマーゾは、顔を両手で抑えながら「そいつをとっとと連れ出せ!」と命じた。
こうして、ネロは監禁された。
挫折を知らない若者はこうして、すべてを奪われたのである。
監禁されてからひと月後、ネロは唐突に自由をえる。
「こんなところで何をしているのです」
それはかつて見たことのある顔であった。だが、声色も人相も全く別人のようであった。ネロはランディーノ・フィチーノに会ったとき「リンゲンは陥落したのだ」、と悟った。そして、このリンゲンの一等書記官の怒りは隠すことができないほどに燃え上がっていることを理解した。
「見事に騙されてしまいました」
「あなたの兵はルギィの集まりつつあります。今度こそ、あの蛮族を殺し尽くすためにお力を貸していただけますね?」
それは静かだが有無を言わせぬ気迫を持った言葉だった。
「もちろんです。そのために同盟はあります」
ネロは大きく頷いた。
「それ以外の答えならあなたをここから出す必要がなくなるところでした。あなたをここから出すために随分と金も力もを使いました。私の金ではないがそれでも無駄金は避けたい」
ランディーノはネロを睨みつけて言った。
「いったいどういうことです?」
「ついてくれば分かります」
ネロはランディーノにうながされて外へ出ると、見知ったルギィの議員が剣や槍を持った男達に囲まれていた。男たちの身なりは悪く、正規の兵にはとても見えなかった。
「貴様らルギィの議会は同盟の理想を忘れ、自らの都市の存続だけをはかった。それは裏切りといっていい行為である。ゆえに私はその主犯の死刑を執り行う」
ランディーノが淡々と述べると男たちが手に持った武器を一人の議員の首に向ける。トマーゾである。それを見た他の議員たちは歯を震わせたり、声にならぬ声で男達にすがろうとするが、足蹴にされるのがおちであった。そんな中にあって一人すました顔でトマーゾは声をあげた。
「裏切りだと? 我らは常にトリエル軍からの攻撃を受けていた。衛星都市の多くは略奪の対象になり、我らは第一人者と多くの市民を戦没者の名簿に加えることになった。リンゲンが蛮族によって炎上したことは痛ましいことだとは思うが、我らとて援軍をおくる手立てがなかったのだ!」
「ならば、なぜメスの第一人者を監禁した。彼の兵はどこへ送られた?」
ランディーノはトマーゾの顔を覗き込むように訊ねた。
「その小僧は、この混乱を利用してルギィを武力で制圧しようとしたのだ! だからやむなく監禁したのだ」
ネロは笑いそうになった。「ネロ様、どうかルギィをお守りください」、と言ってきたのはどこの誰であったか。それが制圧者あつかいである。とてもではないが節度ある人間には言えぬことである。
「そうか。私の得た情報とは違うな。ネロ殿を利用して衛星都市を守らせて自分たちはこのルギィで篭城できるように食料や武器を買い込んでいたそうじゃないか」
「そんなことはない。根も葉もない流言だ」
「ならば、彼から話を聞いてみよう」
ランディーノは、兵士に怯えている議員のひとりを指差した。
「証言してくれますか? あなたが金貨の袋と交換にある塩商人に言ったことを」
議員はもうすでに腰が抜けているのか、這い蹲ってランディーノの方に近づくと震える声で言った。
「アミンとオルレインの第一人者が、トリエル軍に勝てば同盟について、負ければトリエルに降伏するつもりだった。勝負つかずならどちらにもつかずに篭城する。そのつもりで食料や武器を買い込み。周辺都市にはメスの兵士を送った。どうしようもなかったんだ。それ以外にルギィを守る方法がないんだ」
議員は泣け叫ぶような金切り声で語った。
それを聴き終えたランディーノは腰に下げた剣を抜き払うと議員の胸を一突きにした。議員は口から呻きと血を吐いて絶命した。
「それを裏切りというのです。さぁ、これでも流言だというのですか?」
「確実な方法を選ぶことの何が悪い! 説を曲げてでも生き残る、事の何が悪い。だれも死ぬより生きていたいはずだ」
トマーゾは悪びれることなくランディーノを見据えた。ランディーノはそれを正面から睨みつけると小さく言った。
「それさえできなかったものはどうすればいい」
トマーゾはランディーノのこの問いかけを最後まで聞くことはできなかった。ランディーノの剣は問いと同じ速さでトマーゾの首を襲っていたからだ。胴から離れた首はゆっくりと地面に落ちると鈍い音だけ立てて動かなくなった。
ネロはその光景を見ながら、彼が求めた同盟がすでにどうしようもなく壊れていたことを知った。




