第一話 敗将の帰還
「父上が身罷られました。どうか、王都へ戻り王位に就いてください」
秋風とともにブレダ・エツェルの前に現れた弟は、落ち着きを払った声で言った。このとき、ブレダが最初に感じたことは、「オクタルも大人になったものだ」、ということだった。父の死に現実感が伴っていなかったこともあるが、久しぶりに会った弟の変わりぶりにブレダは驚いたのである。
ブレダが弟であるオクタル・エツェルに最後に会ったのはまだ彼が十七歳のころであった。今から三年前のことである。初陣に体を固くして馬に乗るのも精一杯という様子だったオクタルが、いまでは馬を手足のように乗り回し、精悍な顔つきになっている。当時の幼さはどこからも見て取れない。体つきもしっかりしたようで自分よりよほど王者の風格があるのではないか、とブレダは弟の成長を微笑ましく見た。
「兄上、ご返答を!」
自分を見たままわずかに微笑んでいるブレダを不気味に思ったのか、オクタルが強い語気で返答を迫る。ブレダは、そのまま数秒押し黙ったあと、一つだけ気になったことを尋ねた。
「それは父上の御遺志か?」
三年前、ベルジカ王国から解放されたブレダは父であるトリエル王ルアの不興を買った。その怒りは激しく、自領のクルニアに蟄居を命じられて以来、一切の交渉はなかった。ゆえにブレダには父が死に際して自分を次の王に指名するとは思えなかったのである。
「父上の御遺志です。父上はずっと後悔なさっておられました。ただ、あの敗戦の原因を誰かに被せなければならなかった。それゆえに、最後まで蟄居を解くこともできなかった、と」
父がそんな風に考えていたのか、とブレダは驚いた。
いまから三年前。ブレダは父であるトリエル王ルアに従って城塞都市アウグスタ攻略戦に副将として参戦した。ベルジカ王国では、二年前に内乱があり国王ルートヴィヒが殺された。それを主導したのが現国王フランツと群臣から悪意を込めて逆臣ルキウスと呼ばれるオルセオロ侯爵ルキウスである。この内乱でベルジカ王国が失った兵力は多く、元の兵威を取り戻すには十年近い時間を必要だと思われた。これを好機と見たルアは旧来の平和路線を捨て、ベルジカ王国へと兵を進めた。
「いまこそ、歴代の王の悲願を叶え。肥沃な大地を手にいれるのだ!」
トリエル王国の悲願、それは北方と西方に領土を広げることにある。大陸中央に位置するトリエル王国は山岳地帯にあり、南にネブラスカ山脈、東にランス山脈に囲まれている。そのため、農地に向く平地はほとんどない。人々は山々に張り付くような小さな土地で耕作を行っている。開けた大地をもつ北方と西方への進出はこの国にとって長年の課題であった。
その課題の一つが、北方のベルジカ王国である。ベルジカ王国はトリエル王国建国以来の仇敵である。両国の国境沿いにはアウグスタと呼ばれる城塞都市があり、このアウグスタを最前線としてベルジカ王国は、二百年に渡ってトリエル王国の攻勢を跳ね除けている。
「今こそ、要塞都市アウグスタを抜き、ベルジカ王国を切り取るのだ!」
群臣の前でルアは豪語した。彼には勝利を確信する理由が三つあった。
一つは、兵力である。アウグスタの守兵は五千。彼の率いる一万八千とは約三倍の開きがあった。次に騎兵の質である。トリエル王国はトリエル人と呼ばれる遊牧民族が築いた国家であり、馬を扱う事の巧さはベルジカ国の比ではない。一騎打ちでベルジカ騎兵とトリエル騎兵がぶつかり合えば、十のうち七はトリエルが勝つ。そのトリエル王国伝統の軽騎兵一万騎が彼の手中にあるのである。
最後にアウグスタを治めるルキウスである。ルキウスは先王ルートヴィヒを殺して自家の領地を増やした旧悪がある。それゆえにベルジカの貴族はルキウスを恐るとともに疎んじ「逆臣」と罵っている。このため、彼がトリエル王国に攻められても率先して救援に現れる貴族は皆無であると考えられた。ゆえにルアは勝利を信じ遠征を始めた。
しかし、このアウグスタ攻略戦は、ルアの考えとは逆に苦戦の連続となった。まず第一に、ルキウスはルアからの挑戦を受けず、固く門を閉ざしたまま籠城に徹したからである。会戦であれば兵力の差は結果に顕著に現れる。しかし、攻城戦ではそういうわけにはいかない。多数の兵が逆に進退の自由を奪うことも多い。なによりもルア自慢の軽騎兵は会戦では威力を発揮するが、攻城戦には不向きであった。結果として、虎の子の軽騎兵はアウグスタの周囲を駆け回るだけであった。そのため、ルアがアウグスタを包囲してひと月が経ってもまともな戦闘は起きず、小規模な小競り合いが城壁の各所で起こる程度で戦況は膠着した。
「なんたる臆病者か! さすがは蛇と言われる男だ。劣勢と見るや巣穴から出ることもせぬとは。アルダリック! アウグスタ周囲の村々を焼き討ちにせよ。ルキウスの臆病者に震え上がっているとどうなるか見せつけてやるのだ」
王命を受けたアルダリック・モラントは老臣であり、ルアが王位に就く以前からトリエル王国に仕えている。大地の上にいる時間よりも馬上にいる時間が長い、と言われる根っからの軍人である。卓越した武勇はないが、経験に裏打ちされた手堅い戦いをする。
アルダリックは、禿げ上がった頭を深々と王に下げると、「相分かり申した」、と小さく言って騎兵二千を率いて周辺の村々に火を放った。夕刻には、彼が放った火の煙が本陣からも見て取ることができた。アルダリックが帰陣するとルアは気色を隠さず彼をを労った。
「よくやった。これでルキウスの臆病者も領民を救うために出ざるを得まい」
「陛下。周囲の村々をまわり、火を放ちましたが人どころか家畜までいませんでした。敵将はすでに領民を何処かへ移したようです」
アルダリックは見てきた仔細をルアに伝えた。ルアは不貞腐れた大きなため息をつくと下がれ、と言った。この様子を伺っていたブレダは父であるルアに進言を行った。
「父上、ここで滞陣せずに進軍してはどうでしょうか。敵が巣穴にこもりきって出てこぬからといって我らが相手に合わせる必要はなく、このままベルジカの王都へ迫ってみてはよろしいのでは?」
「ブレダよ。わしは略奪を行いに来たのではない。このアウグスタを陥落させ、歴代の王が成し遂げられなかった肥沃な大地の入口に橋頭堡を築く。それがわしの責務だ。王都まで攻め入ったとして、そこでも籠城されれば我々は何らの益も得られぬまま帰国することになる。得られるのは王都を攻めたという名誉だけだ」
ルアは息子を正すように強い口調で言った。確かにそうであるが、このままアウグスタを攻略できなければ同じではないか、という疑問はブレダの中でくすぶり続けた。ブレダは副将という立場から、不満を隠して父の顔を見ずに「浅慮でした」とだけ小さく述べた。
それから数日後、アウグスタからの使者がルアの前に現れた。使者の名はカステッロ ・ミーラといい。白髪まじりの顎髭を蓄えた老臣であった。歳の頃はアルダリックとほぼ同じか少し若いくらいだろう、とブレダは見当をつけた。
彼はトリエルの本陣に到着すると歳に見合わない大声で、
「オルセオロ侯爵ルキウスに降伏の意思あり! アウグスタを引き渡すかわりに侯爵以下領民の安全な退去と家財の持ち出しを認められたし!」、と叫んだ。
この声は一般の兵にも聞こえたため、本陣のいたるところで歓声が上がった。これに気を良くしたルアは、使者の言を入れた。
「オルセオロ侯は若いが道理をわきまえた御仁である。安全な退去と家財の持ち出しを許可する。退去の期限であるが」
「ひと月の猶予をお願い申し上げる!」
ルアが期限を言う前にカステッロが声をあげた。非礼極まりない行いであったが、ルキウスの降伏に舞い上がっていたルアはこれを認めた。
「よかろう。ひと月の猶予を認める。だが、ひと月がすぎてもアウグスタに残る者がおればそれは一切の容赦は行わぬ」
「トリエル王の寛大な処置に感謝を申し上げます」
使者が帰ると本陣では、将兵を集めて酒宴が催された。しかし、ブレダは不安が拭えずにいた。領民を含めての退去だとしても、その期間をひと月とするのはあまりにも長い。いまのところベルジカ王フランツが王都を出た、という知らせはないがひと月もあれば兵を興すことは可能である。退去の期日はそのための時間稼ぎではないか。どうにもそう思えてならないのである。
「ブレダよ。浮かない顔をしておるがどうした?」
酒宴の場で暗い顔をしていたせいか、ブレダはルアから声をかけられた。ルアとしては将兵が喜んでいる場で、景気の悪い顔をするべきではない、と息子に諭したかったに違いない。次代の王が暗い顔をしていれば兵の士気に関わるのである。
「父上は、杞憂ともうされるでしょうが私にはこの降伏が擬態のように思えてならないのです。聞けば、オルセオロ侯は、策多き人とのこと。今回の降伏も偽りのものかもしれません」
「今回に限ってはそれはないだろう。そもそも、援軍が来る気配がない。アウグスタを囲んでひと月以上になるが、ベルジカ王フランツは王都から出る様子もなく、兵を集めているという噂も聞こえない。また、オルセオロ侯爵と並び大貴族とされるネウストリア大公も定まったばかりだ。さらに新しい大公はまだ二十歳にもならぬ小僧だという。とても援軍を送るゆとりはないだろう。次に周辺の貴族たちも内乱で自領を増やしたオルセオロ候爵をよく思っていない。いくら時間を与えられても援軍を出すことはしないに違いない。オルセオロ候は自らの旧悪によって見捨てられたのだ。それが分かるから余力のあるうちに退去することを決めたのだ。そういう意味では確かに小賢しい策士だ」
「確かに、そうかもしれません」
「そうであろう。ブレダ、もっと明るい顔をせよ。臣下が見ておる」
なにやら腑に落ちない、という不安をブレダは酒と一緒に飲み込んだ。ルアはその姿を見ると自らも手に持った杯を上げた。一気に煽ったせいか、ルアは少しむせたらしく咳き込むと「歳はとりたくないものだな」と照れくさそうに言った。
父として国王として、なにか遺したいという思いがこの遠征の根底にはある。在位二十年、領土を減らさなかったが増やしもしなかった。名君でもなければ暗君でもない、きつい言い方をすれば凡君なのである。それゆえにルアは焦ったのである。
「ブレダよ。わしの代で入口を築く。お前はそこから領土を広げてゆくことを考えよ。穀倉地を手に入れれば、我が国はいまより豊かになれる」
そこまで言うとルアは再び激しく咳き込んだ。肩を激しく揺らす父にブレダはそっと手を差し伸べる。久しぶり触れた父の背中は、思っていたよりも小さく痩せていた。そのことにブレダは驚きを隠せなかった。
「父上、大丈夫ですか?」
ブレダが背中をさすると少しは落ち着いたようで、ルアは「だめだな。飲み過ぎたらしい。わしはもう休む」と言って近侍をともなって陣へと戻っていった。ルアと入れ替わるようにオクタルが杯を片手に近づいてくる。
「兄上、どうやら今回の戦は戦闘らしい戦闘もなく終わりそうですね」
「初陣に物足りなさを感じているのか?」
オクタルが若者らしい功名心を満足させられないことに不満を感じているのではないか、と思ったブレダが問うと彼は、はにかんだような表情で言った。
「いえ、その逆です。実はアルダリック殿に同行させていただいて周辺の村々の焼き討ちに参加させていただいたのですが、無人とはいえ、家に火をかけたりと言うのはあまり性にあっていないようで……」
「父上が知れば怒りそうだな」
「まったくです。自分でもこんなに自分が臆病とは知りませんでした。できれば、戦は兄上に任せて私は宰相のロレンス殿のように内政に専念しようかと思います」
実際の戦場で自信を失っている弟に自分の初陣での失敗話でもしようかとブレダは思ったが、口にするのをやめた。オクタルは素直な人間である。ブレダが失敗談をすればますます戦場嫌いになるに違いない。それはトリエル王国の王族としては喜ばしいことではない。もし、父や自分にもしもがあればオクタルが軍を率いなければならないのである。
「ロレンスのような生き方というのもまた難しいものだぞ。彼は俺たちとは違いロルム人だ。それが宰相として俺たちトリエル人の国の高位にいる。その苦労は人並みのものではない。同じロルム人からは支配者の犬と呼ばれ、トリエル人からはロルム人が調子に乗ってと揶揄される。それでいながら税の徴収や行政などを司らなければならない」
トリエル王国は、蛮族と呼ばれたトリエル人がロルムス帝国属州ラエティアを征服して出来た国である。人口の大半を占めるロルム人を少数のトリエル人が支配している。トリエル人が主に軍事や行政を司るのに対してロルム人は主に農業、商業と言った分野を担当しいる。そんなロルム人でありながら、臣下の最高位とも言える宰相にまで上り詰めているロレンス・クルスは、トリエル人からもロルム人からも批難の対象になりやすい。しかし、その行政能力は誰もが認めている。トリエル王国にとって奇貨というべき稀有な人物である。
「ロレンス殿を悪く言う人が多いことは知っております。ですが、おごったところのない良き人物だと思います。兄上はロレンス殿がお嫌いですか?」
「いや、ロレンスを嫌ってはいない。だが、苦手だ。俺が小さい頃、ロレンスは俺の先生だった。宿題ばかり出すやつで、バカは王になれません、とよく言われた。いまでも会えばバカは王になれません、と言われるのではないかと不安になる」
「それは兄上が授業をよく抜け出しになったからでしょう? ロレンス殿が前に教えてくださいました」
オクタルが苦笑いをする。
「なんだ、知っていたのか。そう、俺はよくロレンスの授業を抜け出した。そして、ロレンスに見つかってはバカが王になれません、と怒られるこれが定番だった」
「ロレンス殿もさぞ手を焼かれたでしょうね」
「だろうな。それはさておき、俺には理解ができなかったが、ロレンスは土地を整備し、水路を張り巡らせれば耕地の少ないトリエルでも今の倍の小麦を収穫することができると言っていた。もし、お前が武をではなく文で国に貢献しようというのなら、ロレンスのように文で民が飢えぬ方法を考えることだ。俺も父上も農業のことはわからん。それゆえに民を飢えさせぬためには穀倉地帯が必要だと思いこの戦をしている」
「分かりました。この戦が終われば考えてみたいと思います」
武であれ文であれ自信を持つことは良い事である。特にオクタルのような素直な人間にはそれが必要なのである。人の上に立つ者にとって、素直な性情は良い資質だとブレダは思っている。直言も諫言も受け入れることができるそれに勝る才はない。
次の日から城塞都市アウグスタから出て行く領民が現れ始めた。領民の安全と家財の持ち出しはルアが認めていたので、ブレダ達は黙って出て行く人々の列を見送るだけであった。最初は敵が領民に紛れて戦闘を仕掛けてくるのではないか、と警戒をしていたのだが領民は北の港町ベネトへ流れていくだけで不審なところは認められなかった。二十日がたった今ではろくな警戒もされていない。
「殿下、お暇そうですな」
北へ向かう着の身着のままと言った様子で去っていく人々の列を眺めていたブレダはその声にはっと驚いた。哨戒に出ていたのか、馬に草を与えに行っていたのか分からないが、気づけばブレダのすぐ後ろにアルダリックがいた。彼の馬は栗色の牝馬でメーヌと言う。メーヌはブレダの愛馬の叔母にあたる。
「無抵抗な住民を襲って略奪するわけにもいかないし。今のところベルジカ王もネウストリア大公にも動きがない。正直、やることがなくて困っている」
「太子も今回は武運がございませんでしたな。ですが、楽してアウグスタが手に入るならそれに越したことはない。もう、二十五年も前になりますが、先代の王がアウグスタを責められたときは、攻めているうちに雨季がしてしまい。ずぶ濡れのところをオルセオロ候とネウストリア大公に襲われ、手酷い損害を受けたものです」
「まったくだ。俺に武運はいらないが、オクタルには武功の一つでもやりたかった。こうなってはどうしようもないだろうが……」
遠い場所を見つめるように、アルダリックがアウグスタを見つめている。それにならってブレダもアウグスタに視線を向ける。視線の先ではまた、小さな集団がアウグスタから北へと向かっていく。手に小さな荷物を抱え出て行く彼らを見ながら、ブレダはなにやら違和感を感じた。
「アルダリック! もし、お前が領地から追い出されるとしてどうやって出て行く?」
「追い出されるとしてですか? そうですな。まず、武器と食料。そして家財は持って出ようとするでしょう。それが許されるならば、という条件にはなりましょうが」
「家財は手で運べる程度か?」
「無理ですな。馬車あるいは荷駄は欲しいところです」
「ならば、彼らは変だ。やつらは手荷物しか持っていない。荷駄や馬車を使っているものはほとんどいない」
アウグスタは決して貧しい都市ではない。領民といえども少なからず家財を持っているはずである。それだというのにいま、アウグスタから出て行く人々は手荷物を持つ程度の軽装で北に向かっている。それはまるで短期の旅行に出るような気軽さである。どうせ帰ってくるのだから家財はおいておこう。そんな風にさえ見える。
「やはり、オルセオロ候は降伏する気はないのではないか?」
「いや、まさか……」
「城塞内の領民を減らして兵士だけを残せば、かなり兵糧が節約できるはずだ」
ブレダとアルダリックはお互いの顔を見合わせるとすぐさま馬に飛び乗り、本陣へ向かった。本陣では父であるルアとオクタルが兵糧について話し合っていた。
「父上!」
「陛下! お話したいことがあります」
突如乱入した二人にルアは、声を大にして尋ねた。
「なんだ、ブレダにオルダリックまで! 何用だ?」
「陛下、アウグスタから出てくる領民に不自然なところがあります」
「いま、領民が退去しているのはさらなる籠城の準備ではないかと思われます」
「何を藪から棒にいうのだ!」
ブレダとアルダリックはアウグスタから出て行く住民の持ち物が異常に少ないことを説明し、敵が兵糧の節約を目的に住民を外に出しているのではないかという推論を述べた。これを聴いたルアはやや悩んだあと、「オルセオロ候に次のことを伝えよ!」と叫んだ。
ルアがオルセオロ候に新たに伝えたのは二つである。一つ、期日まで十日あまりになったがいまだ城内の兵士が出て行くところを見ていない。これ以上、兵士を残すのであれば継戦の意思ありとして城攻めを再開する。二つ、トリエルの兵士を監視のために場内にいれること。この二つの要求に対して、オルセオロ候爵ルキウスの返答は早かった。
歩兵二千をすぐに城外に出したのである。これでアウグスタに残る兵は三千となった。しかし、ルキウスは兵士を出しても、監視の兵を入れることは拒否した。その理由を「いまだ城内にいる者の中には降伏に反対の者も多く。監視の兵と無用の争いが生じる可能性がある」とした。トリエル軍のなかにはこれを訝しむ者もいたが、敵兵が三千まで減ったことから城内に入らず城外から監視することに決まった。
「あと五日で期日となるが、本当にオルセオロ候は退去するだろうか?」
「すでに二千もの兵が出て行っている。三千で我が軍と対峙するのはいかにも無謀である」
「皆、警戒しすぎだ。このまま開城だ」
と、言うように兵士の中でも三者三様の意見が出てトリエル軍は、再びアウグスタを警戒することになった。アウグスタの方では毎日のように少数の住民や兵士が出て行っているが、オルセオロ候の姿はまだ現れていない。
そんななか、北の港町ベネトの監視を行わせていた兵から
「ベネトで不穏な動きあり。アウグスタから出てきた二千の兵にベネトの守備兵が合流し、戦闘の準備を行っています」
と、容易ならざる内容が伝えられた。
「父上、やはりオルセオロ候は降伏する気はなく。北のベネトから兵を発し、時期を同じくしてアウグスタからも兵を出して我らを挟撃する気ではないでしょうか?」
「まさか!? いくらベネトの兵を糾合したとしても敵は七千になるかどうか、というところだ。乾坤一擲に賭けるにしても無理があるのではないか!」
ルアにはオルセオロ候が無謀な攻撃に転じるとは思えなかった。もし、彼が攻勢に出るのなら城内にいた領民にも武器を与え、民兵にすれば良かったのである。多少、正規兵と比べて進退に難がある軍になるにしても、ないよりはよほど勝機があるというものである。
「父上、私に兵六千をお与えください。私はベネトの近くで陣を構えて牽制を行います。残り一万一千の兵は父上とともにアウグスタを監視してください。そうすれば、城内の兵三千では抵抗にもなりますまい」
ブレダは、力強い声でルアに言った。ルアは少し思案したが「よかろう」とブレダに許可を与えた。これによってブレダが率いる六千の騎兵が北進し、ベネトから半日の場所に陣を構えた。この軍には弟のオクタルも含まれており、ブレダは弟に千の騎兵を与えベルジカ王フランツに動きがないか偵察に出した。
ここからベルジカ王がいる王都トレヴェローヌまでは東に騎馬で三日の距離である。それゆえにいま王都をフランツが出れば期日までにはアウグスタに到着する。だが、三日過ぎても王都で動きがなければオルセオロ候はフランツに完全に見捨てられたことになる。そうなれば、父であるルアの後背を脅かすものはなくなり、ブレダとしてはベネトに注力することができる。
「ネウストリア大公の動きは調べましょうか?」
偵察に向かうオクタルは、ブレダとルアが眼中から外しているもう一人の大貴族の名前を出した。彼がこのベルジカに残る唯一の驚異だったからである。
「いや、いいだろう。ネウストリア大公領は王都からさらに南東へ四日の距離がある。そこまで向かえば往復で八日は必要となる。例え、ネウストリア大公が動いたとしてもこちらにつくのは八日後だ。五日後の期日には間に合わない」
「では、偵察隊出発いたします」
「頼んだぞ。王都の様子を見たあとはこちらに戻らず、そのままアウグスタへ戻れ」
首を縦に降ると、強ばった顔を無理やり笑顔に変えたオクタルが馬を進める。千の騎兵がそれに続く。まだ、人馬一体とはいかないオクタルを見送ると、ブレダは海の上に浮かぶベネトに目を向けた。潟の真ん中に作られた港町であるベネトは満潮時になると完全に浮き小島になる。城壁を持たないこの街にとって海は見えざる城壁なのである。
海のないトリエル王国の兵士にとって海戦は未知である。ブレダは敵がベネトを出て上陸するのを狙って出来るだけ小高い丘に陣を設営した。これなら海岸のどこに敵が上陸しても騎馬で追うことができるからだ。
「さぁ、来るなら来い」
意気込んで陣を張ったブレダであったが、敵は三日が過ぎてもベネトから出陣せず。ときより船を出してこちらの様子を見てくるばかりであった。王都トレヴェローヌに向かわせたオクタルには異変があれば狼煙を上げるように伝えてあるが今のところ見張りの者からそのような報告はない。ブレダは自分の不安が杞憂で終わりそうなことに安堵した。
「無事にアウグスタが引渡されれば、城主はブレダ殿下でしょうか?」
下士官の一人がブレダに声をかけた。捕らぬ狸の皮算用ではあったが、兵士たちの意識はすでに戦後に向かっている。兵の中には肥沃な大地を持つベルジカに移りたいという者も多い。そういう者にとってアウグスタの城主になる者の人選は気になるところである。
「そうだな。順当であれば副将の俺かアルダリックのどちらかになるだろうな」
「もし、よろしければ私もこちらに残していただきたいのですが……」
「考えておこう」
ブレダは少しバツが悪そうに顔を下げる士官に努めて明るい声で言った。そして「オルセオロ候次第だがな」、と小さく漏らした。その声は士官には聞こえなかったのか、返事はなかった。
こうして、三日目も無事に終わりブレダは、明日の夜に陣を払うことを部下に命じた。例え、ベネトの兵が明日の夜に出たとしてもアウグスタまでは騎馬で二日の距離である。とても一日で走破できることはできない。ブレダらもベネトまで半日の距離まで進軍しているため、アウグスタ引渡しには間に合わない。少なくとも半日は遅れることになる。だが、いまのところ敵の増援は認められない。父は歴代トリエル王が成し得なかった偉業を達成した王として後世に名を残すに違いない。それを思うだけでブレダの胸は熱くなった。
翌日もベネトに動きはなく。午後にはブレダは撤収の命令を下した。半日早く出れれば開城に間に合う可能性があるためである。騎馬に陣幕を縛り付けていると、栗色の馬に乗った騎兵が「急使! 急使!」と叫びながら入ってきた。ブレダが手を挙げると騎兵は騎馬から飛び降りると、兜を投げ捨ると口を開いた。
「昨日、本陣が敵襲を受けました」
「なんだと! それで、被害は? 父上はご無事なのか?」
息を切らし息も絶えだえに口を開く騎兵の肩を掴むとブレダは激しく詰問した。
「ルア陛下はご無事です。て、偵察より帰られたオクタル殿下旗下の騎兵が間一髪、本陣から連れ出されました」ここまで話して軽騎兵は、深い呼吸を二度行い再び口を開いた。「ですが、我が軍の被害は甚大。すでにルア陛下は撤退を開始されました。殿下もお早く」
「ばかな……。たった三千の兵に我が軍は壊滅したというのか?」
ブレダが驚きの声を上げている間に騎兵は士官の一人が持ってきた水を一気に革袋から飲み込むと、低い声で唸った。アウグスタからここまで一切休まずに駆けてきたのだろう。馬も酷く疲れた様子である。
「敵はオルセオロ候だけではありません」
軽騎兵は容易ならざることを言った。ブレダはベネトを牽制し、オクタルはベルジカ王の動向を探ったはずである。ベルジカ王が出陣したという知らせはブレダのもとには訪れていない。オクタルが探りそこねたのか。ブレダは初陣で土のついたオクタルを不憫に思った。
「ベルジカ王の兵力は?」
「いえ、それが……本陣を襲ったのはベルジカ王ではなく。ネウストリア大公ニコロの軍です」
「ネウストリア大公だと?! 大公はまだ二十歳だというではないか。それが王を待たずして出陣したというのか?」
「はい、ネウストリア大公はおそらく八日前に彼の領内を発し、東進して我が本陣を襲ったと考えられます。アウグスタを包囲していた我が軍は、包囲陣を広げていたためにこの襲撃に混乱。そこへアウグスタから出陣したオルセオロ候の軍も加わり、内と外から攻撃を受けた我が軍は……」
「分かった。そうなると、次はこちらか……」
アウグスタを囲んでいたトリエル軍本隊が撤退したとなると、敵は合流してブレダの軍を狙うことは火を見るより明らかである。また、これが事前の打ち合わせ通りの作戦であるのならベネトからも兵が出てくるに違いない。そうなればブレダらは北と南の両方から挟撃されることになる。
「……負け戦はしないほうがマシだな。我らも撤退する。東進しランス山脈を迂回。トリエルにもどるぞ」
「東進ですか……そちらは道が険しく、馬が並び走ることができません。追いつかれる可能性もあります」
下士官が青ざめた顔を左右にする。単騎であればいくらでも逃れようはあるのだろうが、軍として動くためには、ランス山脈は険しすぎるのである。昨日までの優勢が消えたことをブレダも諸兵も痛感せざるを得なかった。
「分かった。では、俺が殿をしよう。お前たちはなんとしてもトリエルへ戻れ」
「……ではどの部隊を一緒に残しましょう。精鋭の第一騎兵隊でしょうか?」
「いや、随伴の部隊は不要だ。この殿は捕虜になることが目的だ。そして、この捕虜は高貴な血を持つものでなければならない。俺が捕まれば、俺が本当に王太子か判断するために敵軍は止まる。その隙になんとしてもお前たちは国に戻るのだ!」
ブレダはふてぶてしく微笑むと、不安そうな顔をする下士官の肩を叩いた。下士官は少し考えたのちに
「分かりました。殿下の命に従い我らは東進いたします。また、王都でお目にかかれることを願っております」と、言った。下士官は騎兵隊の各長を集めると手短に指示を出した。
五千の騎兵が、号令に従い動き始める。ベルジカの大地に残されたブレダはふー、と大きく息を吐いた。横を見れば伝令の騎兵が一人だけ残っている。随分と酔狂なやつだと思ったがブレダは止めなかった。
それから、半時も経たないうちにブレダはベルジカの捕虜となった。
ブレダが自由の身になったのは、この第三次アウグスタ攻防戦と呼ばれる戦いのあと、ひと月が経った頃だった。王都パルサムにたどり着いたブレダが知ったのは、ルア率いる本隊の戦死者の多さである。アウグスタを包囲するために広がって滞陣していた本隊は。西から突如現れたネウストリア大公ニコロの七千の騎兵によって騎乗する前に多くの死傷者を出した。そこへ、オルセオロ候爵ルキウスの三千も加わり、一万一千の軍は騎兵三千、歩兵二千がトリエルに戻れただけであった。
王であるルアは、帰国したブレダを見るなり、叱責の声を落とした。
「よく帰ってこれたものだ。貴様が六千の騎兵を動かしたばかりに我らは大敗北を喫した。あの時、オクタルが戻ってこなければわしは生きてはおらなかっただろう。だというのに貴様は、むざむざ敵に捕虜になるとは、なんという愚かしさ!」
アウグスタの包囲から六千の騎兵を抜いてしまったのは確かに、ブレダの献策である。だが、その後のネウストリア大公の来襲を予見できなかったのは本隊を指揮していたルアの索敵不足であることはブレダでなくとも多くの臣下が知るところであった。それでも、群臣の中からブレダを擁護する声は聞こえない。誰もがこの敗北での落としどころを求めていたのである。
敗北の遠因がブレダにあった。そして、原因となったのは彼らの王たるルアである。ルアを裁けない以上、その下のものが責を負うしかない。それが分かるため、ブレダもこの叱責を受けた。
「私の浅慮が一万近い将兵を異国の地に朽ち果てさせることになりました。いかなる沙汰もお受けいたします」
「よかろう。死罪といたす!」
一瞬、群臣の息が止まり、玉座が凍りついた。特に彼の旗下にいた下士官は、卒倒しそうなまでに顔を青ざめてルアとブレダを見つめた。
「と、言いたいところであるが、不祥の息子であることを鑑みて、太子の称号を取り上げたうえで、自領クルニアでの蟄居を命じる。自領でその臆病さを改めるがいい」
それから三年、ルアとブレダは没交渉となって久しい。それがまさかの王位につくことになるとは思いもしなかった。すでに太子の称号は失っていたので、次代の王はオクタルだとばかり考えていたからだ。だが、ルアはブレダから太子の称号を奪ってから誰にもそれを与えなかった。ゆえに、ルアが逝去するまで次代の王は未定のままであったのである。
「オクタル。お前が王になれ」
「できません、父上は強き者が王になれ。それはブレダだ、とおっしゃいました」
ルアが何を持ってブレダを強き者として評したのか、オクタルには判らなかった。ただ、ルアの遺言に素直に従うことを彼は選んだのである。一方のブレダは、ルアが何を持って強き者と評したことを理解した。
「ならば、なおさら俺が王になるわけにはいかないな。敗戦の責を負った俺が王になっても群臣はついてこない。トリエルの王は強者でなければならない。敗軍の将である俺は不適任だ。お前が王になれ、オクタル」
ブレダはすれ違いざまに弟の肩を叩き、すぐに腕を掴まれた。オクタルは黙って首を左右に振ると「なりません」、と小さく言い切った。ブレダは館から見える谷を指差した。
「オクタル、ここから何が見える?」
「何が? 谷間の村と麦畑が見えます」
「そうだ。俺たちの住むトリエルの国土は山々に囲まれており小麦の生産には適さない。だが、この村を見ろ。小麦が黄金のように光っているだろう? これが俺の三年の成果だ。」
寒気を含んだ秋風が、谷間を駆け抜ける。ブレダは寒さがしみたのか小さな咳をした。谷間の山肌を削り、段々になった畑いっぱいに小麦が植えられている。
「俺がこの領地にやってきたころ、ここにはこんな畑はなかった。あるのは今の半分にも満たない小麦畑とむき出しの山肌だった。とてもではないが領民全ての食をまかなうことはできず、領民は常に飢えと戦っていた。俺は太子でなくなって初めてこの地に立った。自領だったのにも関わらず、俺までそれまでここに立ったことはなかった。愕然としたよ。クルニアはここまで貧しいのかと」
ブレダは眼下に広がる谷を見下ろしながら拳を握った。
「兄上の所為ではありますまい。我が国ならばどこもそうです。今年は特にひどい。どこの領地も例年の七割も収穫はないでしょう。王都にも飢えた難民がいます」
「俺はそれをどうにかしたくなった。私財を投げ打って、谷を切り拓き新しい畑や水路を作った。その結果がこれだ。だが、これだけだ。ここで採れる小麦は領民の飢えを僅かばかり癒すだろう。だが、完璧ではない。まだ領民は飢えている。絶対量が足りないのだ。俺はこの三年、ここで地と戦い思い知った。俺は大した男ではない。この小さな領地の民すら満足に養うことができない。弱い男なのだ。王たる器ではない」
ブレダはそう言うとオクタルをまっすぐ見つめた。黙っていたオクタルが口を開いたのは、その直後だった。
「いえ、それを聞いて私は兄上に王になって欲しくなりました。兄上は一度、王都へ向かわれるべきです。そして、宰相のロレンス殿とお話をしてください。きっと目指している場所が同じだと判ります。どうか、トリエル王国を救うために王におなりください」
こうして、ブレダはオクタルに押し切られる形で、王都に向かうことになった。このとき、ブレダは自身がそのまま王位に付くことは予想できても、このクルニアの地を二度と踏めなくなるとは考えだにしなかった。