第十七話 リンゲン陥落
食料庫を放火した犯人はあっさりと捕まった。
それは難民としてリンゲンに入ってきていた中年女性であった。彼女は煤で汚れた顔に、疲れ果てた目をしていた。クラウス・アエティウスはできるだけ優しく「なぜ、火を放った?」、と尋ねたが女は俯いたまま何も言わなかった。
「なぜ、火を放った?」
クラウスがもう一度、同じ質問を投げかけても彼女は口を開かなかった。その固くなさに守兵の一人がいらだちげに彼女を後ろ手に縛っている縄を引っ張り上げる。悲鳴とも呻きともわからぬ声が彼女の口から溢れる。
「なぜ、食糧を燃やしたのだ!」
守兵は声を荒げて彼女に言う。クラウスは怒れる守兵を抑えると下がらせた。
「なにか理由があるのだろう」
「……家族のためです。鐘の音が聞こえれば火をつけろ、と」
しばしの沈黙のあと女は途切れるような声で言った。クラウスは想像していた事とは言え、彼女の不幸に悲しみを覚えた。ただ、第一人者としてそれを表に出すことはしなかった。おそらく、彼女の家族はトリエル軍に囚われているのだろう。そして、家族を開放して欲しければリンゲンの食料庫を燃やせ、と命じられたに違いない。
彼女はそれを果たした。だが、トリエル軍は彼女の家族を返すだろうか。
クラウスにはそうは思えなかった。より正確にいえば彼女の家族は既にこの世にいない、とさえ思った。トリエル軍は彼女の他にも反間に使う人間を用意していたに違いない。そのすべての人質を囚え続けるようなまどろっこしい真似を彼らはしないのである。
「ああ、リーザ、マーモット……」
女が叫ぶ名前の相手が生きていない。そのことは彼女自身が薄々気付いているのだろうが、それでも一筋の希望を信じたい、のだろう。その親心をクラウスは否定する気にもなれず。かと言って許すわけにも行かず。ただ、「捕らえておけ」、と兵に命じることしかできなかった。
焼かれた食料はあまりにも多く、市民たち個人のたくわえを出させても長くは持たないに違いない。また、そうなれば市民は再び難民たちを「無駄飯ぐらい」や「この恩知らず」と罵るだろう。罵るだけならまだいいが、暴力で怒りを吐き出したりすれば今度は抑えられるかわからない。
前回は、守兵たちを使って暴徒を鎮圧したが、今度は守兵も難民に対する反感を抱いている。素直にクラウスの指示に従ってくれるか自信がない。
「クラウス様!」
守兵の一人が慌てた様子で駆けてくる。手には何やら矢文のようなものを持っている。
「どうした?」
「まずはこれを!」
守兵は肩で息をしながら矢文をクラウスに手渡した。文には次のことが記されていた。
「これは勧告である。いまから二日以内に城門を開き、降伏せぬ場合は市民すべてを殺しつくすまで攻撃を続ける。リンゲンという存在すべてをこの世から奪い去る。降伏をすれば命だけは保証する」
ここには兵にならぬ女子供を合わせて四万に近い人々がいる。それを皆殺しにする。クラウスはトリエル軍がなにか狂気に染め上げられているのではないかと、思わずにはいられなかった。
「これは一通だけか?」
「いえ、市内の各所に撃ち込まれております。市民のなかにも降伏を訴えるものがでつつあります」
クラウスは舌打ちを押さえられなかった。
トリエル軍は降伏した者にたいしては比較的に寛容である。それは抵抗しなければ、という頭がつくものであるにしてもピートやその周辺の小都市が降伏することで生存を許されている、というのはリンゲンにも聞こえている。
この矢文を読めば、
「降伏すれば助かる」
「命だけでも保証されるなら」
「ピートも助かっている」
と、考える者が当然出てくる。
だが、リンゲンは第一次トリア平原会戦以来ずっとトリエル軍に抵抗を続けてきた。また、六都市同盟の首座とでも言うべき地位にある。このリンゲンを見せしめに皆殺しにすれば同盟への影響は計り知れない。
「門を固くせよ。市民であっても近づけるな!」
クラウスは守兵に厳しく命令すると、自身は広場の方へと向かった。
広場ではすでに市民と難民が声を荒げて抗戦と降伏を言い争っていた。不思議なことに抗戦の声は難民の方から多い。市民からは降伏を叫ぶ者が少なくない。
「沈まれ! 二百年前、ロルム帝国が崩壊した時でさえこのリンゲンの市民がこれほどまでに理性を失い。自らの品位を貶めることはしなかったはずである。食料が失われたことは痛恨であるがまだ、負けたわけではない」
クラウスは全ての人々に聞こえるように叫んだ。
一部の人々は己が冷静さを失っていたことを恥じてうつむき、別の者たちは異を唱えた。
「負けていないだと! 食料は既に無く。敵に包囲され、逃げる場所もない。これを敗北と言わずなんというのだ!」
「確かに我らには逃げる場所はない。だが、それは籠城をすると決めたときから変わらない。また、兵はいまだに失われず。敵との大きな戦闘もまだ行っていない。ただ、食料の一部が焼かれただけである。思い出せ! 二百年前我らの先祖は蛮族にどのような仕打ちを受けた? それと同じことをまた繰り返すのか!」
かつてこの地を襲ったトリエルの王アティラはすべてを奪い、壊した。そのときこの地の人口の三分の一が失われた。自分たちが蛮族と蔑んできたトリエル人に蹂躙されたことは彼らロルム人の自尊心をひどく傷つけた。そしていま、同じことを繰り返すのか、とクラウスは問いたい。
「お前は、俺たちに死ねと言っているのだ。蛮族に降伏するくらいなら死ね、とな! それはお前の自尊心を守るためのものではないのか。蛮族に降伏したリンゲンの第一人者と呼ばれるよりも蛮族に最後まで抵抗して死んだ第一人者。そう呼ばれたいだけではないのか?」
「違う! 私はリンゲンを守りたいだけだ。決して私個人の名誉を欲してのことではない」
市民の猜疑の目がクラウスに突き刺さる。
確かに、市民四万とともにリンゲンを枕に玉砕すれば、クラウスの名は蛮族に屈しなかった悲劇として語り継がれるだろう。だが、それはクラウスが求めているものではない。彼が求めているのは一人でも多くの市民を生かすことである。そのために使者は出している。
「蛮族が降伏すれば命を助ける。そう、本当に思っているのですか」
難民の一人が声をあげた。彼女はぼろぼろの衣服をまといながらも強い声で言った。
「私たちは蛮族に一度破れ、降伏を余儀なくされました。ですが、蛮族は降伏した私たちを決して許しませんでした。結果は市民の方々もご覧のとおり、追い回されこのリンゲンに辿り着くまでに多くの命が失われました。それでも降伏なさるというのですか!」
「黙れ! 食料に火をつけたのはお前たちの仲間ではないか! お前たちはリンゲンが救援の兵を出さなかったことを恨み、俺たちを蛮族に食わそうとけしかけているのであろう!」
市民の一部が難民に掴みかかる。
クラウスは人ごみをかき分けるように、争いの渦中に飛び込んだ。
「やめよ。名誉あるリンゲンの市民が困窮した者をいたぶるというのか。それでは蛮族と変わらぬではないか!」
両手を広げてクラウスが市民の前に立ちふさがる。背後では難民たちが身を寄せ合っている。守兵の一部がクラウスを守るように到着するとさらに分厚い壁が市民と難民とのあいだに出来上がった。守兵は元々リンゲンの市民であり、同胞に従うべきか、クラウスに従うべきか、困惑が表情に現れていた。
「名誉だと? このような状況でそんなもの何の役に立つというのだ。名誉で腹が膨れるのか。蛮族を退けられるのか。そうではないだろう。俺はあんたを第一人者と認めない。俺と同じ意見のものは声を上げろ」
この男に気圧されるような形で数十人の市民から、
「そうだ。もうクラウスにはその資格がない」
「トリア平原の敗戦もこいつのせいではないか」
「名誉。名誉、と小うるさいことばかり言いやがって」
と、同調する声が広がる。
一方で、
「クラウス様は義務をはたしてきた。我らも同盟の義務を果たすべきだ」
「蛮族は信用できない。降伏しても皆殺しに合うだけだ」
「まだ、戦える。リンゲンは負けていない」
と、いう反論も広場のいたるところで叫ばれた。
そして、小競り合いであった争いが暴力に変わったのはここからであった。降伏を叫ぶ市民の一人が守兵から槍斧を奪ったのである。武器を奪われたはそれを取り返そうとしたところを突き殺された。
悲鳴が合図であったかのように争いは激化した。
守兵は武器を奪われまいと殺到する市民を殴りつけ、暴徒と化した市民は角材や石を難民や守兵に投げつけた。争いから逃げようとした人々が押し合い、倒れ人に押し潰されるものが出た。クラウスはその中心で最後まで争いをとめようと声を嗄らしたが、動き出した流れを止めることはできずに流れに没した。
この騒ぎは、リンゲンの外に陣を張っていたトリエル軍からも見て取れた。
「敵のことながら不憫に思えてなりません」
ウァラミール・ザッカーノは城壁の向こうから漏れ聞こえる叫び声や怒号からリンゲンが悲惨な状態になりつつあることを感じた。そのすぐそばで、アルダリック・モラントも城壁を眺めていた。
「所詮、わしらは蛮族だ。奪えるものは奪い。殺せるときに殺す。そうしなければわしらが死ぬ。それだけのことだ。正面から攻め落とせない以上はこうする他にない」
「アルダリック殿はよく平気でおられますね」
「王が言っただろう。彼らは自重によって押しつぶされる。今から半年後にはリンゲンはこの世に現れた地獄になるだろう、と。そのときから覚悟しておった。なによりもわしらはトリエル王国で餓死する者を六都市同盟に押しつけに来ておる。狂気でなければ、できることではない」
そう言ってにっと笑ったアルダリックを見てウァラミールは初めて彼を恐ろしい、と思った。だが、同時に自分もその狂気に手を貸す片割れなのだと気づき驚いた。
それから半日後、リンゲンの城壁に白旗が立った。それに合わせて市民の代表と思われる男が陣に現れたが、それはウァラミールも見たことがあるリンゲンの第一人者ではなかった。本人は「クラウス殿は、戦死されたため、いまは私が第一人者です」と名乗ったがとても市民によって選出されたとは思えなかった。
「市民の命は保証してくれましょうか」
男はくどいほどに生命の保証を求めてきた。
「ああ、生命の保証はする。だが、我らの命に従わぬ者には一切の容赦はしない。そのことを市民全てに徹底して頂きたい。まず手始めに武器を放棄せよ」
ウァラミールは第一人者を自称する男に強く言いつけた。男は「いや、それはちょっと」と目を泳がせた。
「ならば、良い。わしらは力づくでリンゲンを攻め落とす。戻り防備を固めるが良い」
アルダリックは男を一瞥すると、陣から出ることを促した。それは有無を言わせぬものがあり、男は慌てて「……戻り、放棄いたします」、と首を縦に振った。
男が陣を去ったあと、城壁から大量の弩や武器が城壁の外へ投げ捨てられた。それを確認してからついにアルダリックとウァラミールはリンゲンの城門へ兵を進めた。すでに城壁の上にいた弩兵はおらず、リンゲンはひっそりと静まり返っている。
城門を入るとすぐに第一人者を名乗った男が多数のお付を従えて彼らを迎えた。彼らは一様に貼り付けたような笑顔をしていたが、どこからみても無理しているようにしか見えなかった。市内を進んでいくと町のいたる場所に争いのあとが見て取れた。
「第一人者殿。お願いがあります」
「なんでございましょうか?」
男はウァラミールの傍に近づくと作り物めいた笑顔を見せた。
「リンゲンを焼き捨てるゆえ、この都市から全市民を退去させてください」
言葉の意味が分からなかったのか、男は「はい?」、と気の抜けた声をあげた。仕方なくウァラミールは再び同じことを言った。そこでようやく男は意味を理解したのか顔を真っ青にした。
「お待ちを! 両将は降伏すればリンゲンの市民の命を救うと約束してくれたではありませんか?」
「だから退去せよ、と命じている。焼き死にたい、というなら止めはせぬが」
アルダリックは困ったとでも言うべき顔で首をかしげてみせた。すで市内に入った兵たちには火をかける準備を始めさせている。男がどのように言おうとも結果を変えるつもりはない。
「そんな、それではリンゲンの民は死んでしまいます!」
男が懇願する。アルダリックは聞こえないとでも言うように「従わぬならば切って捨てて回るだけが」、と槍を大きく回した。槍の穂先は男をかすめていく。
「すぐに!」
男は大慌てで二人の下から去っていった。
「立派な都市です。勿体無い気もしますね」
「だが、守れぬ都市をとっても仕方あるまい。我らは全軍で一万しかいないのだ。リンゲンが陥落したことで、六都市同盟は完全に北部と南部に分かれる。そうなれば、敵の合流は難しくなる」
生き残った市民三万が退去した直後、リンゲンに残された食料や財宝は全て奪い去られ、火がかけられた。炎は三日三晩燃え続け、その煙は遠く離れたメスやオルレインからも見ることができた。だが、この炎が消える前にウァラミールとアルダリックの両将はリンゲンに向かう敵軍があるとの連絡を受ける。
それは南部のアミンからの軍であり、それを率いるのはロイ・ボルンであった。英雄レイモンド・ボルンの子孫が初めてトリエル軍とぶつかり合おうとしていた。




