第十四話 多声の城壁
「蛮族め! あいつらには人としての理性はないのか!」
リンゲンの市民は激怒した。それはリンゲンに逃げ延びた人々の有様があまりにも凄惨であったからである。傷を負わぬものは一人としておらず、何日も食うや食わずで追い立てられた彼らの唇や肌はかさかさに乾き、血をにじませている。若い女の幾人かは両手に枷をされ、衣服さえ持っていなかった。市民はそれだけで彼女らの身に起きた不幸を理解した。
親の名を泣け叫ぶ子供もいた。だが、両親は現れなかった。泣き疲れた子供が眠りに着くと、リンゲンの市民はそっと毛布をかけてやったが、子供にかける言葉を見つけることはできなかった。それはリンゲンの第一人者であるクラウス・アエティウスも同様であった。
――あの会戦で負けなければ。
第一次トリア平原会戦で六都市同盟が敗北しなければ、彼らはいまも平穏な暮らしをしていたに違いない。あの敗北の要因をあげるなら、同盟の諸都市が自分勝手に戦端を開いた挙句に、各個に撃破された、これに尽きるのである。クラウス自身も他の都市よりもリンゲンが優位であることを見せつけることに固執した。他の都市の倍にあたる一万の兵をだし、リンゲンの豊かさを見せつけようとした。それは各都市が連携しなければならないのにそれを怠った、という他に言いようがない愚挙であった。
二百年前、英雄レイモンド・ボルンのもとに集い蛮族を追い返した六都市同盟が、内部での張り合いの末に敗北した。このことを英雄レイモンドが知れば、嘆きを通り越して怒り狂うに違いない。
――だが、一時的とは言えトリエル軍を退却させることができた。
半年に渡って六都市同盟はトリエル軍に蹂躙される日々が続いていた。それが局地戦とは言え、トリエル軍を退却させることができたのである。市民の士気はいま高まっている。このまま、勢いを盛り返すことができればトリエル軍を追い返すことも不可能ではない。
――そのためには何とかして再びすべての都市が手を取り合う必要がある。
クラウスがそんなことを考えていると、不意に背後から声がした。
「クラウス様。難民の一人が話があると申しています」
声の主は、難民の手当や処遇を一任していた書記官のものだった。クラウスが第一人者となった十二年前から仕えるこの書記官は、すでに初老に入ろうという歳であるが矍鑠とした様は少しも変わらない。仕事ぶりもよく、クラウスにとって右腕とも言える人間である。その書記官がわざわざクラウスに知らせるということはただの話ではない。
「分かった。会おう」
クラウスは短く答えると、書記官と共に難民のもとへ向かった。難民たちはリンゲンの広場にまとめられており、そこに粗末な天幕を張っている。それらはリンゲンの市民から提供されたもので、いまも市民たちが彼らに甲斐甲斐しく支援の手を差し伸べている。
「この度は、助けていただき感謝にたえません。私どもはエギルから逃げてまいりました」
そう述べたのは、老人であった。頭や腕には薄汚れた布が巻きつけられており、それらがいまだに湿り気を帯びた赤色が滲んでいる。クラウスは老人の言葉に驚きを禁じ得なかった。エギルはリンゲンの衛星都市ではない。北東の大都市ルギィの影響下にある都市であり、ここからは徒歩で二日程の位置にある。
「なぜ、そのような遠方から……。リンゲンよりもルギィの方が近いはずでは」
このとき、クラウスらは最悪の場合を想像した。それはルギィが既にトリエルに降伏している場合である。先の会戦でルギィの第一人者が戦死し、ルギィには隣のメスの第一人者であるネロ・リキニウスが入っている。彼はルギィで新しい第一人者が選ばれるまで暫定的に防衛にあたっている。だが、メスではいまだに新しい第一人者が選出されていない。ネロからすれば自身が第一人者を務めるメスをいつまでも空けているわけにはいかない。結果として、第一人者を選出できないルギィを放棄する、ということもありうるのである。
そうなれば、指導者のいないルギィはトリエルに降伏することで安全を確保しようとしてもおかしくはない。ネロがそこまで浅はかな行動にでるとは考え難いが、ルギィの衛星都市であるエギルから難民がきたことからもっとも嫌な状況を考えざるを得ない。
「……ルギィへの道は完全にトリエル軍に封鎖されておりましたので」
「ほかに城壁をもつ町はいくらかあったのでは?」
「確かに城壁を持つ町はありましたが、ルギィからの増援や支援が得られないため多くの町がトリエルに降伏しています。そういう町は私たちのように抵抗を見せた町の市民を匿えば、抵抗と見なされるために絶対に助けてくれません」
老人は悔しげに言った。きっと彼らはいくつもの町に救いを求めながらもその手を掴んでもらえなかったに違いない。どこか一つに町でも村でも彼らに手を差し伸べていれば、生き残れた人々の数が増えたかもしれない、と思うのはただの希望論だと思いながらもクラウスは彼らの辛苦を痛まずにはいられなかった。
「ルギィにいるネロはどうしているのです?」
「メスの第一人者であるネロ様は、敗戦後すぐは重装騎兵を使って周辺都市を守ってくれていたのですが、ルギィの市民。特に議員連中との折り合いが悪くなり、ルギィから出られなくなっておられます」
あの若く鼻っぱしの強いネロが抑えられないほどにルギィの市民議会がもめているとすれば、クラウスの構想が結実するのは難しい。各都市の兵を糾合して再びトリエル軍と対峙しようというのにもこのままルギィが機能不全にあるとなれば兵力の低下は否めない。
「議員たちは何を言っているんだ?」
「ネロ様が重装騎兵を率いてルギィを出れば、誰がルギィを守るか。本来であれば市民自身が守らねばならぬというのに。嘆かわしいかぎりです。かの英雄レイモンドがこの様子を見ればなんということか……」
老人は顔を伏せるとまとまらないルギィの不甲斐なさを恥じた。クラウスは出来るだけ明るい声を出して老人に言った。
「なに、リンゲンは上も下も一丸となってトリエルの蛮族を叩き潰すつもりです。みなさんはここでゆっくりと休んだください。今日、私たちはトリエル軍を押し返しました。次はリンゲンの支配地。つぎは六都市同盟全土から押し出してやります」
楽観的な台詞だ。クラウスは自分自身でもそう思いながらも難民たち全て聞こえるように声を出した。
これに呼応するように難民たちを見舞っていたリンゲンの市民たちが声を上げた。
「そうだ! 俺たちに任せておけ!」
「蛮族なんざ、片手だけでも片付けてやる!」
「すぐに故郷を取り戻してやる!」
市民はそう言って難民を鼓舞した。それは気落ちしていた自分たちをも鼓舞するものであった。また、この日から数日後にさらに市民を勢いづかせる出来事が起きた。北部の次は南部からトリエル兵が現れたのである。それも先日と同じように難民を追い回す形でである。
「リンゲンは市民を見捨てない! それを蛮族どもに見せてやれ!」
リンゲンから兵が出るとトリエル軍はすぐに兵を引いた。このとき、トリエル軍はリンゲンが出陣すると思っていなかったのか列を乱しての敗走であった。この中にアルダリック・モラントとみられる老将がいたことで市民の士気は大きく上がった。
さらにこのような襲来が二度三度ではなく十数回になると市民の中から防衛よりも攻勢に出る主戦論が台頭してきた。
「いまこそ、好機だ!」
「難民の中からも兵に志願する者は多い。皆で力を合わせれば勝てる!」
「蛮族のやつらはもう戦う気力さえなさそうだ。あいつらは武装してない市民を狙うばかりだ」
確かに、クラウスの目からもトリエル軍が戦闘を忌避しているように見える。考えてみれば、全軍でも一万騎しかいないトリエル軍は各方面への兵力を分散させているのである。兵力に乏しく、正面からの戦闘を嫌がるのはありえることだった。
何よりもこの十数回の襲来によって多くの難民がリンゲンに逃げ込んだ。多数の難民がはいったことでリンゲンの人口は一万人ほど増えた。難民の中に敵兵が紛れているのではないか、という慎重論を口にするものもいたが、トリエル軍に追われ落ち延びてきた市民を無下にすることはできなかった。
「いまのところ、不穏な動きをしているものはいないか?」
クラウスは難民対策ににあたっている書記官を呼び出すと、自身の危惧を率直に問うた。鉄壁の城壁は外からの力には強い。だが、中から開かれてしまえばこれほど弱いものもない。市民の士気が上がっている今だからこそ、気の緩みを突かれることを心配したのである。
「身元が怪しい者。言動がおかしい者を複数人拘束しましたが、人数はさほど多くありません。トリエル軍に呼応して門を開けるような組織だった集団がいる様子もありません」
「ならよいが、反攻にでる時期が来つつある。ここで僅かな躓きがあればすべてが終わってしまうかもしれない。警戒だけは怠るなよ」
書記官が黙って頷いた。クラウスはそれを満足そうに見えると、頬を伝う汗を手の甲で拭った。季節は既に真夏である。本来ならば夏麦の収穫時期だが、リンゲンの周囲に広がる農地での収穫は進んでいない。幾度ものトリエル軍の襲来で麦が倒れていることもあるが、散発的にトリエル騎兵が現れるために市民を畑に向かわせることができなかったのだ。
「狼も真夏になればその動きを落とします。トリエル軍もおとなしくなると良いのですが」
クラウスの心内をはかったように書記官がいう。
「真夏の狼は涼しくなる夜に動くものだ。いま私たちにできることは他の都市が再攻勢にでれる準備が整うまで耐え抜くことだ」
「南部のアミンとオルレインの第一人者からは晩秋までに兵を整える、との連絡がありました。しかし、ルギィからの連絡はありません。ネロ殿からはルギィをリンゲンに預けメスに戻り準備に掛かりたい、との連絡がありました」
「南部といえば、アミンの新しい第一人者は英雄レイモンドの後裔らしいな」
「はい、アミンの三等書記官をされておりました」
書記官は含みのある笑みを浮かべた。クラウスはこの書記官が何かを黙っていることに気づいた。
「お前は、その英雄の後裔に会ったことがあるのか?」
「アミンからの使いで何度かリンゲンに来られたことがあります。名前をロイ。ロイ・ボルンをおっしゃいました」
クラウスはアミンからの使者を思い出そうとしたが、三等書記官という低い位置にいた男の顔や声を思い出すことはできなかった。
「やはり、英雄の血を引くということは豪胆な人物なのだろうな」
英雄レイモンド・ボルン。高い鷲鼻に鋭い眼差しで睨まれたものはそれだけで気圧されたという。レイモンドがいるというだけでトリエルの将が道を変えた話は有名である。ロイという人物も、それに似た気質を持っているのだろうか。
「残念ながらロイ殿は柔和で華奢な方です。ですが、あの通る声は戦場でもよく響くと思われます。また、些細な情報から真実を見極めることに関しては比類なき才をお持ちだと聞いています」
トリエル王国が六都市同盟に侵攻する少し前、アミンを通過してピートに向かう金箔の量が急増したことがあった。ただそれ自体は珍しいことではない。どこかの国で王宮の修理や新築があれば需要は増えることもあれば、豪商が部屋や家財を飾るために必要とすることがあるからである。金箔などの黄金はもしもの際、換金しやすく財産として好まれるのである。
そのため、アミンを通過する金箔について誰も気を払わなかった。だが、ロイ殿は一つの可能性をアミンの上層部に報告した。それはトリエル王国の先王ルアが崩御したのではないか、ということであった。彼は、通常の建築や装飾としての金箔の発注は工程に合わせて計画的な発注増になるのに対して、今回の金箔は一気に発注されたことを上げた。急増は計画されたものではなく突発的な原因があったためであり、通常の計画された建築や制作では見られない。では、金箔を急遽必要とする原因とは何か。
それこそがルア王の死だとロイは言った。
「人の死は予期できるものではありません。死後、崩御の発表までに柩を作り上げようと思えば急な発注にならざるを得ないでしょう」
トリエル人には高位の人物の柩を金で覆う風習がある。それは金が如何なる場所でも腐食せず輝きを失わないことから、死後の永遠を願ったものである。トリエル人以外にも柩を金で装飾するものはいるが、彼らのように全体を覆うような真似はしない。せいぜいが一部を飾る程度なのである。
「そして、それは正鵠を居ておりました。ルア王の崩御が発表される頃には金箔の発注はぴたりと止み。次代の王に長子であるブレダが就いたことが周辺諸国に広がりました」
「金箔の流れから他国の王の死を知るか」
クラウスはそれが戦場でも活きる能力なのか測りかねた顔をした。
「ともあれ、新しい第一人者の元アミンとオルレインの二都市はまとまりつつあります。あとは北部の二都市ルギィとメスがまとまってくれれば良いのですが……」
六都市同盟のうちピートは既に敵中にあり、ルギィとメスは機能不全に陥っている。残る三都市がいくら頑張っても二万を下回る兵力しか用意することはできない。また、兵も純粋な職業軍人ではない。少し前まで市民として商業や農業に従事してきたものばかりなのである。
それに対してトリエル軍は一万に満たないが優秀な騎馬を有し、それらは訓練された職業軍人である。倍程度の兵力で自軍が有利だと考えるのは難しい。クラウスは暗い気持ちをため息という形で吐き出した。
「会戦はできずとも防衛戦ではまだ分がある。他の都市の準備が出来るのを待つしかないな」
こうしてクラウスはまだ、兵を出して戦うことのできない自軍に物足りなさを感じながらも守兵に防衛に徹することを厳命した。守兵も現状では城壁があるためにトリエル騎兵が無理な攻撃を仕掛けてこない、と理解していたので攻勢に出たい気持ちを抑えながらクラウスの命に従った。
誰もがこのままの膠着状態が続くと思っていた矢先、トリエル軍が南北から接近しつつあることが知らされた。当初、前と同じく逃げた市民を追っているのかと思われた接近であったが、トリエル軍の近くに難民の姿はなかった。代わりに兵糧などを積載した荷駄が騎兵に守られてやってきた。
「まさか、蛮族どもはこのリンゲンを攻めるっていうのか!」
「馬鹿な。あいつら梯子はもちろん。攻城兵器なんて何一つ持ってないじゃないか」
「会戦を誘っているのか」
守兵は、混乱を見せたがクラウスはトリエル軍の装備を見て安堵した。
「敵は滞陣の構えを見せているが、攻城のいろはを知らない。城壁の上から射掛けるだけで奴らは撤退する! 落ち着いて持ち場につけ」
敵が梯子や雲梯を持っていればこのような余裕を持っておられなかったに違いない。だが、トリエル軍の装備はそういったものが見られない。ひたすらに力押しにするつもりならの望むところである。見れば敵軍は北と南に分かれて陣を敷いているが総数は六千を越えるとは思えない。
このとき、リンゼンの北に陣を構えたのはトリエル軍の若い将軍ウァラミール・ザッカーノであった。また、南に陣を構えたのは同じトリエル軍の将軍であっても老将アルダリックであった。彼らは別々に陣を張ると、城壁から矢が届かぬあたりに布陣した。
だがこの日、トリエル軍は攻めることなくそのまま夕暮れを待った。城壁内の守兵たちはいつ攻めてくるともしれないトリエル軍をじっと睨んでいたが、敵に動く気配は見られなかった。これは翌日になっても変わることなく。そのまま七日ほどの時間が無為に過ぎた。
「やい、腰抜け蛮族ども少しは攻めてきやがれ」
「この案山子騎兵め。たちんぼでどうするつもりだ」
「俺たちの守りが鉄壁すぎて足がすくんでいるのか!」
守兵は、何度となくトリエル軍を罵ったが返事は起きなかった。ただ、この声を聞いて笑ったものが二人だけいた。ウァラミールとアルダリックの両将である。彼らは城壁の上でふんぞり返る守兵に聞こえぬ声で、
「もうじきに夏が終わる。蝉はいつまで鳴くことができるでしょうか」
「蝉の盛衰は夏とともに終わるものだ。不憫だと思うか?」
アルダリックの問いにウァラミールは素直に頷いた。それを見てアルダリックは無表情に「素直じゃな。じゃが狂うことも覚えぬとつらいぞ」、と言った。




