第十三話 リンゲンの残照
それは突然の出来事であった。
六都市同盟最大の都市リンゲンに北から向かってくる部隊があると、警戒を行っていた哨戒兵から相次いで報告が行われた。この部隊は北部のルギィ周辺を襲っていたトリエル軍だと思われたが、その数は三千にも満たない。大都市であるリンゲンを攻め落とすには明らかに少ない兵力である。
「城門を固く閉ざせ! 弩と投石器の準備を急がせろ!」
報告を受けたリンゲンの第一人者であるクラウス・アエティウスはすぐに判断を下した。第一次トリア平原会戦以後、リンゲンはトリエル軍の襲来に備えて篭城戦の準備を推し進めてきた。彼は会戦の敗北を市民から批難されながらも自分が行うべきことを続けてきたのだ。
再度会戦を行う兵力はいまのリンゲンにはない。彼はそれを正しく理解していた。
そのため、リンゲンを囲む城壁の不備を見つければ、すぐに補強を命じ。それでも足りないと感じれば新たに急造の塔を築いた。トリエル軍が攻城戦に向かないことは三年前に行われたベルジカ王国侵攻でも明らかである。
「敵は少数だ。市内に入られなければ絶対に負けない」
クラウスは市民にそう言い続けて来た。市民も彼の大敗を責めはしたが、防衛の必要は理解していた。
「食物の備蓄はどうだ! 倉はいっぱいなのか?」
「それよりも水だ。新しい井戸を増やせ!」
「武器もだ。決して蛮族どもを市内に入れるな!」
二百年前にトリエル軍に占領されたときは人口の三割ほどが殺された。財や女は奪い尽くされた。同じような無力さを味わってたまるものか。人々はその思いでクラウスと共に防衛力の強化に努めた。それが今試されようとしている。
リンゲン囲む城壁に築かれた塔からは敵襲を知らせる鐘が打ち鳴らされ、女子供は石造りの建物に身を寄せた。男たちは緊張した面持ちで城壁も上に立った。城壁の上に立つと北からリンゲンに向かってくるトリエル軍と思われる一群が見えた。統制という言葉を知らないのか隊形は整っていない。ひたすらにリンゲンに向かうことを目標としているような動きであった。
「なんだありゃ」
「おかしいぞ」
「蛮族の策じゃないのか」
城壁の上にいた守兵が最初にこの一群のおかしさに気づいた。リンゲンに迫ってくる一群は騎兵ではないのである。その上に武器を持っているのは数える程で、あとは何一つ持っていない。着の身着のままと言ったような汚れ切った衣服をまとった彼らは、何かを恐るように何度も後ろを振り返りながらリンゲンに向かっている。
その不可思議な一群を見たのは守兵だけではない。彼らの長であるクラウスもである。クラウスはじっと一群を見つめると、「弩を構えろ!」と鋭い声を上げた。難民のように見えなくはないが、どうにも様子がおかしいのである。クラウスの声に気圧されたすべての守兵は困惑を隠しながらも矢を弩につがえる。その間にも一群は、リンゲンに近づいてくる。弩の射程のまでもう少しに一群が迫ったとき、クラウス達は一群が何か気づいた。
「おい、撃つなよ! あれは同胞だ」
「女子供混じっている! はやく都市の中に入れてやるんだ」
「城門を開けるんだ!」
リンゲンの周囲には大小の衛星都市がある。第一次トリア平原会戦まではそれらの衛星都市の防衛はリンゲンが行ってきた。しかし、会戦の敗北によりリンゲンの兵力が低下すると、リンゲンは主都市であるリンゲンの防衛だけに手一杯になった。結果として、衛星都市は、トリエル軍に降伏し彼らに食料や金銭を支払うことで生き延びるか、自力で防衛を行うことで存立を守ることとなった。
衛星都市の中でも比較的大きく城壁を備えた町は自力での防衛を行うことができたが、それらを持たない小都市はことごとくトリエルに降伏した。リンゲンの市民はそれらの降伏した小都市に心で詫び、いまだに抵抗を続けてくれている都市を讃えた。だが、いくら中小の都市が頑健に粘ろうともいつかは破綻する時が来る。いま、リンゲンに向かっている一群は抵抗に抵抗を続けた末に敗北した都市の残党である。
「ま、まて開けるな! 後ろからトリエル軍が来てるぞ」
守兵の一人の声が、城門を開くために門扉に詰めかけていた男達に冷水を浴びせた。難民となった彼らを都市に引き入れるために城門を開いて、そのままトリエル軍に入り込まれればリンゲンは無事では済まないかもしれない。その思いが彼らの手を止めた。
門内の逡巡など知らぬまま難民たちはリンゲンに向かって走り続ける。彼らにとって生き残る道はリンゲンに入り込むしか術がないのである。リンゲンの周囲はトリア平原と呼ばれる平地でところどころに小高い丘がある程度で隠れられるような場所はない。
「トリエル軍追いつきます!」
クラウスや守兵が胸壁に身を乗り出す。眼下ではトリエル軍の騎兵三千がくさび型の隊列から一気に横列に開く。トリエル騎兵は手に持った弓に矢をつがえると難民たちの最後尾に向かって放った。バタバタと人形が転けるように最後尾を走っていた。老人や女子供が倒れる。
数少ない武器を持った男たちが騎兵を遮ろうとするが、その抵抗は虚しく散った。槍や剣を打ち合わせることもなく射抜かれたのである。男たちの抵抗などなかったようにトリエル騎兵は逃げ惑う人々に矢を射かけた。大地に伏して命乞いする者も子供を守ろうとする母親も関係なくトリエル騎兵は殺した。倒れた母親にすがる子供さえ例外ではなかった。
それは戦闘ではなく、虐殺だった。
「クラウス様! 打って出ましょう!」
「六都市同盟の盟主であるリンゲンが民を見殺しにするのですか!」
「敵は三千程度。我らは数が減ったとは言え六千はいます!」
守兵がたちの眼がクラウスに注がれる。クラウスには彼らの実直さが羨ましかった。いま眼前で行われている悲劇を救う。それは人間として正しい行いだとクラウスは思う。だが、もしクラウスたちが敗北すれば、いま眼前で死んでいく人々よりもはるかに多いリンゲンの人々の命が奪われるのである。それ故にクラウスは迷う。正しいだけでは戦いに勝てない。クラウスは先の会戦でそれを嫌というほど知った。
「分かった。行こう。リンゲンは六都市同盟の盟主だ。市民を守らなければならない。城壁に二千は残れ。私と四千で騎兵を引き付ける。その隙に難民を市内に入れろ」
だが、クラウスは決めた。眼前の人々を救うと。
彼は先の会戦で敗れた。それでも彼が生きているのは傭兵隊が文字通り命をとして彼を援護したからである。会戦後、傭兵隊長の死を知ったクラウスは自らを恥じた。そして、市民からの批難も受け入れて今日という日を迎えたのである。
統率もなく門に殺到していた守兵がクラウスの声に従って隊列を組み直す。クラウスはその先頭に立つとリンゲンの象徴である白地に木槌が青色で染め抜かれた旗を大きく振り上げた。
「リンゲンの意地を見せるのだ! 民を守れ!」
守兵は喚声をもってクラウスに応えると手に持った槍を大きく振り上げる。城門が開くと、クラウスたち四千の歩兵は一気に城外へ出た。リンゲンの守兵が城外に出たことを気づいたトリエル騎兵は難民を撃つ手を止めた。
「城門が開いたぞ!」
「リンゲンは私たちを守ってくれるんだ!」
「走れ! いましかない」
難民たちはトリエル騎兵が静止したこの時を逃すまいと、必死の形相で駆け出す。クラウスは一隊を彼らの誘導に出すと残りの兵とともに半月の陣を取った。城壁の上からは守兵が弩を構えている。敵の弓の射程よりも弩の方が射程が長い。クラウスにできることは弩の射程から決して出ず。トリエル騎兵の前進を拒むこと、それに尽きるのである。
「早く市内へ!」
クラウスは人々を励ますように声を上げる。トリエル騎兵は難民を狩るために広がっていた部隊を再び一箇所に集めた。その中心に騎兵の長と思われる青年の姿が見えた。栗色の馬に跨ったその青年にクラウスは見覚えがあった。先の会戦でルギィの第一人者が率いる歩兵三千を打ち破った騎兵隊の長である。
「我が名は、リンゲンの第一人者であるクラウス・アエティウス! そなたは何者だ!」
大音声をあげてクラウスは問うた。問答にトリエル軍がのってくれれば、それだけ難民たちが逃げる時間を稼げるのである。クラウスの問いに栗色の馬に乗った青年が応える。
「トリエル軍千人長ウァラミール・ザッカーノである。第一人者、自らの応対に感謝申し上げる」
「感謝は不要。私は応対に出たのではない。タチの悪い狼の群れが街道を行く人々を襲う、というのでそれを退治に出たのだ」
「それはご苦労なことです。狼は賢い生き物です。狩人といえど準備を怠れば手酷い逆襲を会うことでしょう。見ればクラウス殿の隊は槍ばかり、狼を狩るには向かぬ装備です。狼を借りたければこれでございましょう」
ウァラミールはそう言ってリンゲンの部隊を一瞥すると、手に持った弓を弾いた。放たれた矢はクラウスの数歩前に刺さった。もう少し強く弾けば殺せる。そう言いたげな動きであった。
「なに、私たちは囮です。槍は飾りに過ぎぬ。狼が私たちを甘く見て寄ってくれば、城壁より矢が降り注ぐ。それで駆除は終わりです」
クラウスは後ずさることなく、にこやかに微笑むと城壁に向かった片手を上げた。二千の兵が城壁の上に立ちあがり弩を構えた。ウァラミールはそれにたじろぐことなく、「なるほど、第一人者自らが囮とは高い餌もあったものです」、と答えた。
「我らが六都市同盟は市民全てが平等である。私は第一人者と呼ばれているが、元はただの一市民に過ぎぬ。高いことがあろうものか。高いのは狼の国の王だけであろう」
「では言いかえましょう。安い餌では狼の王はかかりますまい。せいぜい、その子分がかかる程度です」
「子分でも良い。狼に襲われる者が減るのならそれを狩ることが肝要だ」
「狼に襲われるのが嫌なら石材で作った家に篭るのが良いでしょう。決して、藁や木で家をつくらぬことです」
ウァラミールが片手を上げる。騎兵が再び横列に構える。先程までと違うのは兵が手にしているのが弓から槍に変わっていることである。騎兵が突撃の構えを見せたことで、リンゲンの守兵に緊張が走る。
「忠告。ありがたくいただく。だが、我が家は既に石造りである。何よりも私たちリンゲンの誇り、意地にかけて狼など入れてやるものか」
「立派な心がけ。勉強になります。リンゲンがその誇りと意地によって大地に沈むことなきよう願います」
ウァラミールは掲げた手をゆっくりと下ろすと、騎兵を反転させた。そして、ゆっくりと去っていった。騎兵の姿が遠くなりその輪郭をおぼろげにしたとき、リンゲンの兵たちは歓声を上げた。決して勝利したわけではない。決して、剣戟を交じあわせたわけでもない。それでも会戦の敗北から初めての出陣で敵兵を引かせたのである。
気落ちしていた市民にとってこれほど喜ばしいことはなかった。
多くの犠牲は出たとは言え、難民を救うことができたのである。リンゲンの市民はこれだけでも失いかけていた自信を取り戻すことできた。ただ、奪われるだけであった自分たちが、トリエル兵を退却させたのである。
「いまこそ、反攻の時だ!」
「奪われた小都市を救援する時が来たのではないか!」
「トリエルの奴ら俺たちを恐れて逃げやがった!」
勝利を得たようにはしゃぐ兵たちを連れてクラウスが市内に戻ると、市民たちが叫んだ。
「リンゲン万歳! 同盟の楯クラウス・アエティウス!」
叫ぶ市民の中には、さきほど逃げ込んできた難民たちの姿も見える。彼らのなかには怪我を負っている者もいたが、声を上げないものはいなかった。それほどまでに六都市同盟は求めていたのである。自分たちの現状を変えてくれるものを。
「市民の皆よ! 聞いてくれ!」
クラウスは諸手を挙げて市民を制した。市民は高ぶった心を押さえ、彼を見た。
「今日、我々は悪逆な蛮族から同胞を救うことができた。だが、幾人もの命が失われた。まずは失われた命に祈りを捧げたい」
城門に集まったすべての市民が静かに黙祷を捧げる。すすり泣く声さえも聞こえる。クラウス自身も目を閉じると救いきれなかった人々に対して謝罪を捧げた。
「さぁ、我らは今日。蛮族を追い返すことに成功した。だが、それはまだ家の周りに過ぎない。庭も隣家も狼の支配が続いている。我らは狼のような鋭い爪も牙もない。だが、我らには彼らにないすべての市民の結束という揺るぎない力がある。いまこそ、同盟から狼を駆逐するのだ!」
このクラウスの演説にリンゲンの市民は歓呼の声で応じた。
だが、この市民の喜びの声がひと月後にはリンゲンから消えることになるのである。




