第十二話 王と公僕
「柄にもないことを言ったものだ」
トリエル王ブレダ・エツェルは政庁に戻る道すがら、妙な徒労感を独り言として吐き出した。
戦争の邪正をリア・ゲピディアに話す必要はなかった、と後悔しても遅いのであるがそれができるほどブレダも器用ではなかった。このところ咳が止まらないせいで気が弱っていたのかもしれない、と自分なりに理由をつけようとするのだが、後付けのようでどうにも心落ち着かないのである。
そうしていると、喉奥に靄がかかったような咳が出た。激しい咳ではない。
――父上も咳病を病み亡くなった。
父でありトリエル王国の先王ルアは咳病がもとで死んだ。先年のベルジカ侵攻の失敗による気落ちもあったのだろうが、病が父の命を奪った。その子であるブレダも咳病で倒れたとなれば、世間の人々はなんというであろうか。
――それにしてもトリエルとは違うものだな。
それはここに来るまでも感じたことである。ピートの市民はこのようなときでも市を開き、大通りの雑踏を歩くには人と肩をぶつけずにいられない。
六都市同盟では、市民は税金さえ支払うことができればどのような職に就くことができる。鍛冶屋の息子が大工になっても良いし、大工の息子が医師になることもできる。その代わり、腕がなければ客がつくことはなくすぐに食詰めることになる。
一方、トリエル王国では、ロルム人に職業の自由はない。農民の息子は農民にしかなれない。大工の息子は大工に医師の息子は医師になるしかない。そうすることでトリエル王国内での人の役割を縛るのである。それは競争する者の数が一定であるため食詰めることは少なかったが、職業の技術という点では閉鎖的で進歩に欠けることになった。
六都市同盟では医師同士でも腕の良し悪しが競争となり、腕の良いものだけが医師として生き残る。反対にトリエル王国では腕が悪くても生きていけるのである。それが二百年も続けば、両国の差は明らかであった。トリエル王国の医師は六都市同盟の医師に遠く及ばないのである。
だが、兵という点ではトリエル王国は圧倒であった。
それは、トリエル人成人男性のほぼ全てが世襲の兵であるためである。被支配民であるロルム人を支配するトリエル人は全人口の二割しかいない。だが、その全てが常設軍なのである。戦時にだけ市民を兵とする六都市同盟との練度の差は、天と地ほどあると言っていい。
そんなことを考えていると、すれ違った男と肩が当たった。男は当たったた拍子に姿勢を崩したのか盛大に尻餅を付いた。
「すまない。考え事をしていた」
そう言ってブレダが手を差し伸べると男は、「こちらこそ」と苦笑いをしながらブレダの手を取って立ち上がった。男の体重がブレダの腕にかかるが、ひ弱いと感じるほどの軽い重さだった。男をよく見れば全体的な線が細い。タレ目がち目がさらに男を柔和に見せるが、茶の瞳だけが妙にぎらついており不思議な違和感をブレダに与えた。
「私の方こそ、仲間とはぐれてしまいよそ見をしていたのです」
男は頭を下げると、ブレダに目をやると腰元で視線を止めると半歩後ろに下がった。
「別に斬りはしない」
ブレダは騎馬の象嵌の柄がついた剣を叩いて見せた。男は引けた腰をゆっくりと戻すとブレダと剣を交互にしげしげと見つめた。
「すいません。あまり、慣れていないもので……。貴方はトリエルの人のようだし。こんなことを言ってはなんですが、斬られるかと思ってしまいました」
「二百年前のアティラ王の時代だったらそうだろう。だが、今の王は無駄に剣を振るうことを許していない。あなたが」
「抵抗しない限り、ですか?」
男はブレダの声を遮って尋ねた。語調は柔らかいものであったが、声質は硬いものがあった。
「そう。抵抗しない限りはなにも起きない。あなたの名は?」
ブレダが、名を問うと男は少し黙ったあとに答えた。
「レインド・ロンドと申します。オルセオロ商会に属するモロシーニ商会にて塩の商いをしております」
モランドと名乗った男は深々と頭を下げる。オルセオロの名前をこんなところで聞くと思っていなかったブレダは小さく「オルセオロか」と小さく呟いた。
レインドはつぶやきが聞こえたらしく、「オルセオロ候爵がいかがされましたか?」、と興味深げにブレダに質問した。
「いや、数年前にオルセオロ候爵ルキウスに王が囚われたことがあったことを思い出しただけだ。変わった御仁だと聞いているが、あなたは会ったことがあるのか?」
「とんでもない。私もお噂程度しか聞いたことがありません。なんでも前のベルジカ王を弑逆し、周辺の貴族を滅ぼし領地を増やした大悪党。眼は大蛇のごとく鋭く、口は貪欲さを現して大きく、悪言の一つも聞き逃さない地獄耳をお持ちの方、と聞いております」
ブレダはレインドが話している途中からおかしくなって笑った。彼の知るオルセオロ候爵ルキウスとレインドの言うオルセオロ候爵ルキウスがあまりにもかけ離れていたためである。ブレダがあまりにも笑うのでレインドは不審な表情をした。
「ああ、すまない。あまりにも俺の知るオルセオロ候爵と違うものでな」
「オルセオロ候爵にお会いしたことがあるのですか?」
目を大きくしてレインドが驚きの声を上げる。ブレダは一瞬、しまったか、と思ったが言ったものはどうしようもないと頷いてみせた。そうすると、レインドはさらに感嘆の声を上げる。彼のようにオルセオロ商会に属する下請けの商会からすれば、オルセオロ侯爵は雲の上の存在に違いない。
「しかし、商人というのは大変だな。このような場合でも荷を運び売らなければならない」
ブレダは強引に話題をそらした。
「戦だからと言って働かねば、私たち商人は食っていけません。いつ商隊を襲われるともしれませんが、危難のときこそ儲けどき、という言葉もあります。戦で物が不足すればそれだけ高く売れる」
レインドは細い腕を振り上げて笑う。確かにそうかもしれない。トリエル王国が六都市同盟に攻め入ってすでに半年が経とうとしているなか、両国で採ることができない塩は高騰を続けている。また、鉄や石材、木材と言った戦に不可欠な物資も値を上げていると聞く。商人が危険を冒してでも販路を進もうとするのも頷ける。
「商人とはたくましいものだな。国が失われても関係なさそうにさえ感じる」
「確かに、生きていけるでしょう。現に資産を戦火から遠い町に移した商人もおります。ですが、亡国となれば心にしこりは残り続けるでしょう」
「国は滅びても都市や人が残るとしてもか?」
かつて、トリエル人は国を持たない遊牧の民だった。国を持って二百年が経つが亡国の苦しみというものはあまり想像できない。それに対して、六都市同盟、ベルジカ王国などロルム人国家の多くは、ロルム帝国という巨大な帝国の消滅という亡国から歩みを始めている。その彼らからすれば、国が滅びるということは自身の生死と同じくらいの価値があるのかもしれない。
「残ってもやはりそこはかつての国とは違うのです。似て非なる国。鏡の中の国、とでも言うべきでしょうか」
レインドは少し困ったような顔であったが毅然と言った。そして、「ただ、そうならないように六都市同盟は最後まで抵抗するでしょう。英雄レイモンドを殺してまで得た独立です」、といい加えた。ブレダは目の前の男が見た目に反して強固な意志を有していることに軽い驚きを感じた。
「そうか。俺が言うのはなんだが、そうならないと良いな」
「いえ、私の方こそ偉そうなことを申しました。最後にブレダ王は六都市同盟を攻め滅ぼしたい、とお思いなのですか?」
レインドは落ち着いた声で尋ねた。それは、目の前にいる人物がブレダだと知っているような問い方であった。
「そうだな。王は自国の飢饉を他国の食糧を奪うことで救うと決められた。それゆえに攻め滅ぼしたい、とまでは考えていないでしょう。ただ、奪える、というなら先祖であるアティラ様同様に奪われるでしょう」
「それは六都市同盟がいまのまま烏合の衆となっていれば、ですね」
確かにブレダがトリア平原で戦った六都市同盟は都市ごとに我を張り、ばらばらである印象を受けた。それゆえにブレダたちは各個撃破することができた。
「俺たちからすればそれが楽で良い。だが、あなたたちはそうでないほうがいいだろう。南西のアミンで新しく第一人者になったロイ・ボルンが、先祖である英雄レイモンドのような人間である、と良いな」
ブレダはまるで他人事のように言った。それはレイモンドのような英雄が稀有な存在であり、同じ血族でさえ求めて得られるものではない、という思いがあったからである。
現に、ブレダ達、エツェル家も初代アティラのような人物を再び得ることは出来ていない。
「あなたは、英雄とはなんだと思いますか?」
「最後といった割にはまだ訊くのだな」
そう言ってブレダは笑うと少し考え、「英雄は象徴だ。彼がいれば勝てる。奴がいれば負けるかもしれない。そう敵味方に思わせるそんな存在だ」、と答えた。
「本人の武技は関係ない、と?」
「それは一つの形だ。ほかのものもある。命を捨てて敵の大将と刺し違える。それもまた英雄と呼ばれるだろう。とにかくおそらく英雄かそうでないかは本人が決めるようなことではない。あとで誰かが決めてしまう」
ブレダは軽く目であたりの市民を見渡した。レインドもつられて周辺の人々を見た。将にもいろいろな形がある。武勇に優れ自身が最前線に立ち皆を率いるもの。知略を持って武勇以上の功績を残すもの。人を活用することは上手いが、当人は何もできないものもいる。形はいくらでもある。
レインドはなにか言おうとしたが、言葉にならなかったのか。「長く足止めをして申し訳ありませんでした」と、言った。
「いや、こちらこそ。勝手なことを言った」
「いえ、こちらこそ不躾なことを申しました」
「ではな」、ブレダはそう言うと政庁への道を再び歩き出した。背後ではレインドが去っていくブレダをじっと見つめていた。ブレダの姿が雑踏の中に消えたあと、レインドのもとに背の低い女が駆け寄った。
「こんなところにいらしたのですか? ロイ様が急にいなくなるので肝を冷やしました」
女はレイントをロイを呼んだ。
「クレア。私はブレダ王にあったのかもしれない。いや、会ったのだろう」
「まさか?」
クレアは冗談とばかりに苦笑した。しかし、ロイの真剣な顔を見て彼が真剣であることを悟った。
「さっきここで会った男は、騎馬の象嵌が付いた剣を持っていた」
「トリエル王家の紋章は騎馬ですが、それだけでは……」
「それにオルセオロ候爵ルキウスと会ったことがあるといっていた。侯爵と会ったことのあるトリエル人は限られている。捕虜となったトリエル王ブレダと将軍のウァラミール・ザッカーノだ。いま、ウァラミールは六都市同盟北部へ出ていて、このピートにはいないはずだ。となれば、残りはトリエル王しかいない」
ロイはそう断言すると、口早にクレアに言った。
「戻ろう。ここでやるべきことは終わった。しかし、気が重い。彼はアティラとまるで違う。それは私たちにとっての不幸だよ。戻ってからすぐに戦の準備をしなければならない」
そう言って歩き出したロイの背後で、クレアが手を強く握りしめていた。