172 プールサイドにて
夜。
ホテルの部屋でベッドに寝転び、天井をぼんやり見上げていると、部屋の呼び鈴が鳴らされた。
「ん?」
とっさにスキルを使ってドアの向こうの気配を探る。
気配から、見知った相手であることに気がついた。
俺はベッドから起き上がり、部屋のドアを開く。
「加木さん。お邪魔でしたか?」
ドアの向こうに立っていたのは美凪さんだった。
Tシャツにハーフパンツというラフな格好で、長い髪はポニーテールに結っている。
シンプルな装いだが、だからこそかえって、素地のよさが際立っていた。
「ぼーっとしてただけだから、いいよ。どうしたの?」
「……ちょっと、散歩をしませんか?」
美凪さんが上目遣いで誘ってくる。
「わかった」
俺はベッドに放り出してあったスマホだけを取って部屋を出る。
「どこへ行く?」
「落ち着いて話せるところがいいです」
落ち着いて話がしたい……か。
俺も、美凪さんに話すことがある。
「プールサイドに行ってみようか。夜だから外はどうかと思うし」
美凪さんが頷くのを待って歩きはじめる。
「サンシローは?」
「まだアップグレード中だそうです。……あの、わたしとサンシローはべつにセットじゃないんですよ?」
美凪さんがちょっと不満げにそう言った。
そりゃそうか。最初に会った時|(厳密には「再会」した時)から一緒なもんだから、美凪さんを見るとついサンシローも探してしまう。アンドロイドと美少女という組み合わせはそれだけで目立つし。
俺たちはやがてプールサイドに出た。
夜だが、ライトアップされているので泳いでいる人も少しはいる。
俺と美凪さんは隣り合ったベンチに腰かけ、奥で泳ぐ家族連れをなんとはなしに眺める。
注文を取りに来たウェイターにカクテルを頼む。俺も美凪さんも精神的には成人だが身体は未成年なのでノンアルコールのカクテルだ。
やがてウェイターがカクテルを二つ持ってくる。
大きめのブランデーグラスに入ったカクテルで、透き通った青とオレンジのグラデーションが、ハワイの夕暮れを再現している。
ストローは、カラフルなストライプのハート型。
「乾杯」
「何に……です?」
「そうだな……地球への無事な帰還に、か?」
「わたしと加木さんの再会を祝して、じゃダメですか?」
「じゃあ、両方にしようか」
「ええ。乾杯」
「乾杯」
俺と美凪さんはグラスを軽く当て、ハート型のストローでカクテルを飲む。
「こんな時はお酒が飲みたいですね」
「身体が未成年だからな。でも、意外だな。美凪さんって飲む方だったのか?」
「いえ、たまにしか。友達の付き合いで飲んだりはしました」
「それなのに、今は酒が飲みたい気分?」
「ええ……予想外のことが多すぎて」
「杵崎亨はともかくとして、セカンダリだもんな」
「それもですが、わたしにとって予想外だったのは加木さんのことです」
「俺?」
思わず自分を指さして聞き返す。
美凪さんがこくんとうなずいて言う。
「会えれば、問題は解決すると思ってました。加木さんに会いたいって思ってたから」
なんとも相槌を打ちにくいことを美凪さんが言う。
「でも、会ってどうしたいのか。そこは明確じゃなかったんです。そのことに気づいたのが加木さんと再会してからなんだから、我ながらどうかしてました」
俺は黙ったまま、美凪さんの話を聞く。
美凪さんの形のいい桜色の唇が、プールの照明を受けて輝いている。
「考えてみれば当たり前だったんです。加木さんは異世界に転生して、その世界で生きているんだから、恋人の一人や二人、いても何の不思議もありません」
「いや、二人はいないけどな」
これでもハーレム状態にならないように頑張ったんだ。
なったところであの世界では悪いとは言われないんだろうが、やっぱり、一度に愛せるのは一人だと思って。
美凪さんが苦笑する。
「いっそ、二人いればよかったんです。二人いればそれが三人になっても同じでしょう?」
「同じじゃないけどな……」
一度ハーレムになってしまったら同じだというのはわからなくもない。
「ていうか、美凪さんはそれでいいのか?」
日本で生まれ育った現代人である美凪さんがハーレムウェルカムというのは違和感がある。
「よくはないですよ。わたしは、男性に依存した生き方をしたいとは思えません。加木さんが女性に依存を求めるような人だったら、あきらめもついたかもしれませんけど」
「どっちなんだよ」
「どっちもです。常識で考えれば加木さんをエレミアさんとシェアするなんて論外です。でも、一方であきらめきれない自分もいる。天秤の両方に重しが乗っていて、どっちに傾くのか自分でもよくわかりません」
「……悪いな」
美凪さんが現れた時には、俺の心は決まっていた。
美凪さんが首を振る。
「加木さんは悪くないですよ」
美凪さんがため息をついた。
「わたし、あまり挫折ってしたことないんです。小さい頃から勉強もできたし、スポーツも苦手じゃなかった。友達も、多くはないけど普通にいます。格闘ゲームでは世界チャンプだし、一流と言われる大学のロースクールにも在籍していました」
「羨ましい話だな」
「本当にそう思ってますか? 加木さんこそ、マルクェクトではありとあらゆるものを持ってたじゃないですか」
それは……その通りだな。
地位も名誉も金も力も家族も友人も。
あっちの世界では、あらゆるものに恵まれた。
もちろん努力はしたが、そもそも女神様に見込まれてチート付きで転生していなければ、俺の人生は通り魔に間違われ警官に射殺された時点で終わっていた。
「こんな深刻な挫折は生まれて初めてなんです。そういえば、わたしってこの歳になるまでまともに恋をしたことがありませんでした。美凪って男と付き合わないの?って友達には言われてました。中学や高校で告白されたことは何度かありますけど、気が乗らなくて断ってます」
「そうなのか」
……という以外に言いようがない。
美凪さんは美人だし、頭もよく、人当たりも悪くない。むしろ、モテないわけがなかった。
「加木さんに助けられてからはそれどころじゃなくなりましたし。わたしが加木さんの話ばかりするので、近づいてきた男性も自然に離れていったような気がします」
「そりゃあなあ」
命を捨てて自分を助けてくれた理想の男性について熱っぽく語られたりしたら、たいていの男は離れていくだろう。
当人のはずの俺ですら、正直言って荷が重い。
美凪さんが再びため息をつき、顔を手の中にうずめる。
そこから上目遣いになって、俺に言う。
「……やっぱり、責任を取ったりはしてくれませんか?」
「ここで『はい』なんて言う男とは付き合わない方がいいと思うぞ」
「同感です……」
美凪さん、さらにため息。
俺は、美凪さんに、言おうと思ってたことを言うことにした。
「美凪さんは、待っていてくれ」
美凪さんが勢いよく顔を上げた。
「それって……セカンダリのことですか?」
「ああ。美凪さんはひょっとしたら世界の危機だから命を賭けようと思ってるかもしれない。いや、思ってるんだろう。でも、セカンダリの物心溶融フィールドは危険だ。近づけば、何が起こるかわからない」
「でも、もし行かなかったとして、加木さんたちが負けることがあったら……」
「たしかに、そうなったら同じことだけど、そうならなかった場合のことだよ。俺たちが勝ったのに、その過程で美凪さんが犠牲になった。そういう展開もありうるからな」
美凪さんが、俺の顔を見つめながら言った。
「エレミアさんやメルヴィさんはいいんですか?」
「あいつらは、来るなと言っても来るさ」
俺は思わず苦笑する。
「俺が《劫火》を使ってセカンダリの核を灼く。核に近づくための撹乱要員としては、メルヴィとエレミアがいればなんとかなるだろう。美凪さんがリスクを犯す必要はない」
美凪さんがリスクを犯したとして、俺はそれにどうやって報いればいい?
想いに応えることもできないのに、美凪さんをこんなことに巻き込むのは間違ってる。
「サンシローに聞いたよ。美凪さんは、17年前、俺に路上で通り魔から守られたことをずっと背負って生きてきたって。だけど、美凪さんだって、命を賭けて地球を核戦争の危機から救ったじゃないか。もし美凪さんが借りのようなものを感じてたとしても、それで十分以上に果たしてる」
俺が救ったのは美凪さんひとりだ。
その後に俺が警官に誤って殺されたのも、煎じ詰めれば俺のミスともいえる。
俺が命がけで美凪さんを救ったというのは盛りすぎだ。
仮にそうだったとしても、美凪さんこそ、自分の身を犠牲にして世界を救っている。
自分が巻き込まれることを承知の上で、米軍の質量兵器を自分たちめがけて撃ち込んだと聞いた。
俺に救われたことに対して、形の変わった恩返しのような感情があったとしても、帳尻は既に合っている。
いや、そもそも通り魔事件自体、悪いのは凶行に及んだ杵崎だけだ。最初の時点からして、美凪さんが気負う必要はなかったといえる。
「美凪さんは俺に縛られる必要はない。そもそも、そんなつもりで助けたんじゃない。あの時、俺がとっさに動けたのはなぜだと思う?」
あの時――すべての発端となった通り魔事件の時だ。
「それは……目の前にわたしがいて、血まみれのナイフを持った杵崎亨が襲いかかろうとしていて……それを放っておけなかったから、ですよね」
美凪さんの言葉に首を振る。
「そういう面もないとは言わないけどな。だが、あの時の俺の精神状態を率直に表現するなら――なんだろう、『しめた』という感じかな」
「しめた、ですか?」
「チャンスだ、というような意味の『しめた』だな。ここなら、俺は自分の力をふるえる。誰はばかることもなく、大義名分のもとに、目の前にいる人間をぶちのめせる。通り魔という誰に聞いても人間のクズだと言うだろう真っ黒な悪人が目の前にいて、助けるべき弱者もその前にいて、弱者を助けるためには悪人をぶちのめすしかない。ぶちのめしてもお咎めを受けるどころか、表彰状がもらえるだろう。自分の中に溜まった暴力的な衝動を、手頃に満たせる相手が目の前にいた」
俺は美凪さんから目をそらす。
美凪さんの聡明で何もかもを見通すような目から逃げたのだ。
「要は、俺は鬱屈してたのさ。その鬱憤を、たまたま目の前に現れた通り魔にぶつけたにすぎない。言ってみれば、杵崎亨と同じだよ。だからこそ、警官も、血まみれのナイフを手にしていた俺を見て、通り魔だと直感したんだ」
「そんな……ことは……」
美凪さんが言葉を詰まらせる。
たぶん、美凪さんは理解している。
俺の言ってることが嘘ではないと。
「だから、美凪さんは、俺に救われたと思う必要なんかない。俺は俺の理由で勝手に通り魔をぶちのめしただけだ。ある意味では、通り魔が通り魔に遭ったようなもんだな。そんな理由でもなけりゃ、あんな場面で通り魔に向かっていこうなんて思う奴はいないだろう。美凪さんの思い描いているヒーロー、自分を犠牲にして女の子を救った英雄――そんなやつはいなかったのさ」
今度は、俺の方がため息をつく。
美凪さんはうつむいたままだ。
俺は、プールサイドのチェアから立ち上がる。
「それでももし、俺に恩を感じるというのなら。どうか、自分の命を大事にしてくれ。通り魔に命知らずに向かっていった俺のような人間になることはない。そういう場面では、自分の身を守るのが正解なんだ。それで他の誰かが死んだとしても、非難されるいわれはない」
そう言って、俺はプールサイドから立ち去ろうとした。
その俺の手が、誰かに掴まれた。
誰か――もちろん美凪さんだ。
「……そんなの、ずるいです」
美凪さんが、うめくように言う。
「散々かっこつけておいて……かっこいい背中を見せておいて。自分みたいにはなるな、なんて。そうやって悪役を買って出て、わたしのことをまた守ろうとする」
「……わかってるだろ。かっこつけてるわけじゃない。本当のことなんだ。俺の中に、そんな崇高な動機はなかった」
俺は、あきらめて振り返る。
チェアから身を乗り出した美凪さんと目が合った。
美凪さんの目は潤んでいた。
「加木さんは、ずるいです……。わたしの想いを受け止めないばかりか、わたしがうまくあきらめられるようにしようとまでして。そんなふうに言われて、思いやられて、簡単にあきらめるなんてできません」
「じゃあ、かっこつけてるってことでもいいよ。想いを寄せられて、それを振り切ることをかっこいいと思ってる馬鹿がここにいるってだけだ」
困ったことになった。
(素直に納得してくれるとは思ってなかったが……)
美凪さんの性格からして、世界の危機を前に自分だけ安全な場所で待つなんてことはできないと思っていた。
だが、同時に、美凪さんは今回の件に巻き込まれる必要がないとも思った。
エレミアやメルヴィは、もう一蓮托生だと思ってもらうしかない気はするが、美凪さんはそうではない。
エレミアやメルヴィに比べれば、ステータスでも実戦経験でも美凪さんは大きく劣る。なまじ魔眼と魔剣があるおかげで物心溶融フィールドには突入可能と言われてしまったが、それらがなければとてもじゃないが連れていけるだけの実力がない。
俺とのつながりの面でもそうだ。メルヴィはもはや俺の種族を超えた相棒だし、エレミアは俺の恋人だ。美凪さんはまだなんでもない。
そんな美凪さんを、義務感だけで困難な戦いに巻き込むわけにはいかないのだ。
「加木さん」
美凪さんが言う。
「ああ」
「もう一度座ってください」
しかたない、俺はもう一度チェアに座る。
美凪さんがベルを押してウェイターを呼ぶ。
「テキーラ・サンライズを二つください」
ウェイターがためらう様子を見せる。
「テキーラ・サンライズを二つ、です」
美凪さんがウェイターを睨んで繰り返す。
泣いたせいで赤くなっている美凪さんの目に、ウェイターが気圧された。
もごもごと、了承したようなことを言って、ウェイターが戻っていく。
「お、おい、いいのか?」
「いいんです! こんな話、飲まなきゃやってられません!」
すぐに持ってこられた強いカクテルを、美凪さんは一気に半分も飲んでしまう。
「さあ、加木さんも!」
「俺もかよ」
今の美凪さんの目は据わっていて、とてもじゃないが逆らえそうにない。
俺はカクテルを一気に呷る。
美凪さんが、俺を睨みながら口を開く。
「加木さんは馬鹿なんですか?」
「……いきなりだな」
「そんな理屈で、わたしが納得して引き下がるとでも思ったんですか?」
「完全に納得するのは難しいとは思う。それでも、君が命を賭けるだけの合理的な理由がない」
「命を賭けるのに合理的な理由なんてありえません。人間、死んだらそれで終わりなんですから。大切な人を守るため? それだって、一度失ったところで、またべつの大切な人と巡り会えます。生きてさえいれば。刑事裁判には酷い事例なんて本当に吐いて捨てるほど溢れてるんです。特別なことじゃありません」
「そう言われりゃそうだけど」
「その意味では、あの杵崎亨だって、殺害人数が飛び抜けているだけの殺人鬼にすぎません。その殺害人数だって、海外の事例を見れば珍しいものではありません。刑事事件だけを考えてもそうですが、戦争犯罪を考えればそれ以上の事例なんてむしろ普通と言ってもいいくらいです」
そういえば、〈八咫烏〉の創始者はナチの戦犯だった。強制収容所の元所長で、きわめて勤勉に、国家の命ずるがまま、ユダヤ人たちを処刑したという。
「加木さんのことを、わたしは心から尊敬はしています。でも、英雄視してるわけじゃありません。加木さんがいいところも悪いところもある一人の人間だったことは、徹底的な調査で理解しています」
「お、おう……」
そういえばこの子、俺のことを調べたと言ってたな。
それがきっかけで対戦型格闘ゲーム・スラムファイターを始め、ついには世界チャンピオンになったと。
「わたしに、加木さんの置かれていた苦しさがすべてわかるとはいえません。当時30歳だった、職場で孤立気味の、あまり社交的でない独身男性がどんな気持ちで日々を送っていたか。想像はしましたが、まだ20代の女であるわたしに完全にわかるとは思えません」
「そ、そういう言い方をされると心に刺さるんだが」
現在はリア充と呼んで差し支えのない境遇の俺ではあるが、前世のことをそういうふうに言われると心に来るものがある。いや、ほとんど事実なのだが。
「だけど、それにもかかわらず、加木さんは大事な時に行動を起こす勇気を持っていたんです。杵崎がなんですか。あれだけの才能に恵まれながら、趣味なんて黒魔術で、挙げ句の果てには通り魔です。加木さんが日々抑えつけながら生きてきた衝動を、杵崎は抑えようという努力すらしてません。イケメンで頭がよく、社会的信頼もあって、実家はお金持ち。抑える必要なんてなかったんでしょうね。そういう人の上っ面だけを見て、有能だ優秀だともてはやす人たちも大っ嫌いです」
頬を赤くし、目をとろんとさせて、美凪さんが言う。
あきらかに酔っている。
美凪さんはあまりお酒に強くないのかもしれない。
「加木さんに、後ろめたい衝動があったのは事実なんでしょう。誰だってそうです。みんな、抑えながら生きてるんです。だから、肝心な時にも衝動を抑えてしまって行動できないことだってありえます。でも、加木さんは違った。普段の鬱屈を、正しい時に、正しい行動として解き放ったんです。その結果としてわたしは生き延びました。わたしが生き延びたことで、結果的に核戦争の危機も回避できました。加木さんはマルクェクトに転生してたくさんの人を救ってます。それが……杵崎と同じ? そんなことは絶対にありえません!」
「わっ!」
美凪さんが身を乗り出し、俺の胸ぐらをつかんできた。
美凪さんの顔が迫ってくる。
「わたし、決めました。わたしもセカンダリと戦います! 加木さんが言った馬鹿なことが嘘なんだって証明してみせます! 加木さんがわたしのことをあ、愛してくれるかなんて、どうでもいいことです! わたしは、あなたとわたしが正しかったんだってことを証明するために戦います!」
「お、落ち着いてくれ……」
「落ち着いてます! わたしは……わたしは……」
美凪さんの顎がかくんと落ちた。
俺の肩に、美凪さんの頭が落ちてくる。
俺はとっさに美凪さんの肩を支える。
「美凪……さん?」
「くー……」
美凪さんは、俺の肩に頭を乗せ、よだれを垂らして眠っていた。