124 異界への渇望
俺はひさしぶりに輪廻神殿へとやってきていた。
事件のごたごたでしばらくは訪問診察を手伝うことができなかったのだ。
ミリア先輩は塞ぎこんでいる。切り裂き魔事件の関係者だったこともあって、最近はキュレベル家の屋敷から出ることができない。当然、訪問診察どころではなかった。
神殿には、夜遅いこともあって、助祭さんしかいなかった。
「助祭さん」
「あら、エドガー君。どうしたのかしら?」
どこか艶のある笑みで助祭さんが言う。
やっぱり、この人は苦手だな。
俺のことを子どもではなく男として扱っているように思える。
正体を見破られているようで落ち着かない。
「ちょっと相談に乗ってくれませんか?」
「珍しいわね。いいわ、それなら礼拝堂で聞きましょう。ちょうど誰もいないし」
俺は助祭さんの案内で礼拝堂へと入る。
「助祭さんは、切り裂き魔事件については知ってますか?」
「ええ……解決したのでしょう? 犯人はサーガスティン侯のご令嬢だったとか。そのサーガスティン侯も殺されて、王都で最も瀟洒だと言われていた屋敷も焼け落ちたそうね。それから、いくつかの切り裂き魔事件は模倣犯の仕業で、しかもその模倣犯がイーレンス第二王子だったことがわかり、王子は逮捕されたとも聞いたわ」
「……詳しいですね」
「王都を揺るがす大事件だもの。ここにいれば、嫌でも情報が入ってくるから。それに、私はミリアさんと入れ替わっていたエリアさんと接していたことになるじゃない。どうしたって気になるわ」
助祭さんは両腕で自分の身体を抱きしめ、身を震わせた。
知っている人物が切り裂き魔と入れ替わっていた――後からそうと知ったら、たしかにゾッとするだろうな。
俺は助祭さんの様子に注意しながら話を続ける。
「切り裂き魔は全部で3人いました」
「……3人? 2人ではなく?」
「3人なんです。1人についてはあまりに重大な事態であるため公表されていません」
「侯爵令嬢が切り裂き魔だったことや、第二王子が愛人を謀殺したことよりも重大なことがありうるの?」
俺はその問いに答えず言う。
「まず、イーレンス王子についてはいいんです」
「いいってことはないと思うけど」
「事件に疑問の余地がないってことです。兄であるイルフリード王子を陥れて王位継承権競争で優位に立とうとした。わかってしまえば陳腐なほどにわかりやすい話です」
「そういうことは、ここ以外では言わないほうがいいわよ? 今の王様は優しい方とはいえ、不敬罪に問われるわ」
助祭さんの言葉に小さく頷き、続ける。
「もう1人、秘匿された犯人についても、片はついています。国家機密ですので俺からは何も言えませんが、切り裂き魔騒ぎに便乗した愉快犯的犯行でした」
助祭さんは黙って俺の話を聞いている。
「最後に残ったのは、本物の切り裂き魔です。彼女の動機は複雑ですが、一応それらしい説明はついています。特殊な家庭環境と、本人の役者としての才能が重なりあった結果、彼女にしかわからない理由で切り裂き魔とならざるをえなくなった、というものですね。これについても俺は疑問を感じていますが、今はいいです。
それより、彼女は特殊な古代遺物を2つも所持していました。そして、それらの出所は結局わからないままになっている……」
俺はそこで助祭さんの表情をうかがう。これといった変化は読み取れなかった。
「秘匿された犯人――杵崎という男ですが、彼は本物の切り裂き魔だったエリアさんを殺害しました。ですから、エリアさんが杵崎から古代遺物を受け取っていた可能性もあります。その場合、杵崎はその口封じのためにエリアさんを殺したわけですね。しかし、杵崎にそれを隠す意味がどれほどあったのかは疑問です。また、杵崎自身は古代遺物を使っていませんでした。あれだけ強力な古代遺物を他人に与えられるのなら、自身はもっと強力な古代遺物を持っていなければおかしいでしょう。
やはり、エリアさんは杵崎以外の人物から古代遺物を入手していたと考える方が自然です。
しかし、エリアさんはサーガスティン侯家の忌み子で、外に出られる機会は限られていました」
「……それで?」
助祭さんが無表情に続きを促してくる。
俺は頷いて続ける。
「杵崎もまた切り裂き魔同様の殺人鬼でした。奴がエリアさんを殺したのは、凡庸な裁きの場に芸術的殺人鬼が引き出されるのを好まなかったからかもしれません。奴にしては感傷的すぎる気もしますけどね。
それはともかくとして、杵崎は切り裂き魔の心理についても分析していました」
杵崎によればそもそもシリアルキラーの圧倒的大多数は男性である、ということだった。女性への歪んだ性欲がこのような連続殺人の動機になりやすいのだと。
しかしエリアさんは女性だ。それに、犯行の動機は性欲ではなかった。
だから、そもそものプロファイルとエリアさんとが一致していないのだ。
にもかかわらずエリアさんが切り裂き魔なのだとしたら――エリアさんの背後に何者かの存在を想定したくなる。
そして何者かを想定するなら、その人物はエリアさんに古代遺物を融通した人物と同一であると考えるのが自然だろう。
だがエリアさんが接触できた人物は限られている。
ミリア先輩に聞いたところでは、ミリア先輩の通うギャリガン勅許初等学校か、訪問診察のボランティアをやっているここ――輪廻神殿だけだ。
学校については、既にコルゼーさんに依頼して生徒、教師の身辺調査を行ってもらったが、怪しい人物は見当たらなかった。
「助祭さん、あんたは、ここ数年で王都に流れてきたらしいな。しかし、あんたがいつからここにいるのかを正確に記憶している人物はいなかったし、神殿にも記録が見つからなかった」
記録については、ここの司祭さんに頼んで彼女には秘密で調べてもらった。
今日、この時間に助祭をひとりにするようお願いもしている。
「俺は1人だけ、そういう人物に心当たりがある。俺がかつて潜入していたある場所から、誰にも気づかれずに抜け出していた女性だ。その女性は、今から思えば、その場所でも悪目立ちしないように身をひそめていたように思える。年格好も、ちょうどあんたと同じくらいで、人を観察するような冷たい目と、美人であることも共通している。むしろ、どうして今まで気づかなかったのかってくらいだ」
「……私に似た女性なんて、いくらでもいると思うけれど」
助祭さんが薄い笑みを浮かべてそう言った。
「もちろんそれだけじゃない。常識から逸脱した観念に囚われて人を殺す――これって、何かに似てないか?」
俺が言っているのは、〈八咫烏〉のことだ。
エリアさんは狂っていた――そう言うのは簡単だが、それにしたって出来すぎではないか?
エリアさんが仮に精神を病んでいたとしても、それだけで切り裂き魔になれるだろうか? 完全に狂っていたら犯罪を取り繕うこともできないはずだし、理性が残っているのなら自分の異常さを自覚していなければおかしい。犯罪を取り繕うだけの理性を残しながら、かつ自分の行っていることの異常さを自覚せずにいる、というのはかなり不自然な状態だ。
それこそ、誰かに思考を誘導されているのでもない限りは――。
「〈八咫烏〉の元牧師、レティシア・ルダメイア。御使いの再洗脳を担当していたあんたになら、それが可能なはずだ。あんたは、何かの拍子に、ミリア先輩がエリアさんと入れ替わっていることに気がついた。興味を持ったあんたはエリアさんに接近し、エリアさんの事情を聞き出した。そして、親身になるふりをしてエリアさんの心に入り込み、エリアさんを切り裂き魔に仕立て上げた」
「ふふっ……」
司祭さんが唇を吊り上げて笑った。
その途端に、俺の認識が変容した。
司祭さんと見えていた相手が、かつて〈八咫烏〉で目にした「牧師さま」へと変わり、そしてそれとも違う別の女性へと変化した。
ややこしいが、見た目が変わったのではなく、俺の側の認識が変わったのだ。
前世で若い女にも老女にも見えるトリックアートがあったが、まさにあのような感じで目の前の女から受ける印象がすり替わっていた。
助祭さん――いや、レティシアは冷たい笑みを浮かべて言う。
「あの男はこう言っていたわ。サンタマナは安定しすぎていてつまらない、と。戦乱のソノラート、魔族と帝国が血で血を洗う抗争を繰り広げているフロストバイト、合従連衡と裏切りが果てることなく続く中央高原。それらに比べて、サンタマナはいかにもよく治まっていて退屈だ、と」
「……あんたはそんな世迷い言に従ってモノカンヌスに潜入していたのか?」
それも、女神様――魂と輪廻を司る神アトラゼネクを祀るこの輪廻神殿に潜り込んでいたとは。大胆というべきか、無謀というべきか。この女はきっと、人を欺きながら破滅スレスレのところに身を置いて、そのスリルを楽しんでいるのだろう。
だから、杵崎が倒され、切り裂き魔の正体が判明した後も、この神殿に残っていたのではないか。それこそが、抜目のないこの女の唯一の隙だった。
レティシアは、俺の言葉に肩をすくめた。
「いえ、私はあの男の手下じゃないわ。だから、あなたにひとつだけ教えてあげるわ、エドガー・キュレベル。王都でこれから何が起こるのか、見当もつかないのでは怯えようもないものね?」
「……何が言いたい?」
「そうね。見てもらった方が早いかしら。あなた、【鑑定】か【解析】のスキルを持っているでしょう?」
「……さあな」
「案外頭はよくないみたいね。私に隠しても意味がないじゃない。そうでなければ、ガゼイン・ミュンツァーに課せられた悪神からの制約について知りようがなかったはずだもの。
いいから、私を【鑑定】してみなさい。隠蔽の一部は解いてあげるわ」
杵崎といいこいつといい、どうして人にステータスを見せたがるのか。
【自己定義】のある杵崎ですらステータスに罠を仕込んではいなかったのだから、これが何かの罠である心配はいらないだろう。
俺はレティシアに【真理の魔眼】を向ける。
《
レティシア・ルダメイア(《幻惑のレティシア》・《魔性の女》・《探求者》)
41歳
ハーフエルフ
状態 エンブリオ接種(孵化済み)▽
悪神との契約(悪神との協定により読み取り不可。)
悪神との協定(エドガー・キュレベルによるステータス情報の読み取りに対し、ステータスの一部を隠蔽できる(3箇所まで)。)
レベル 39
HP 52/52
MP 93/93
スキル
・伝説級
【空間跳躍】5(短距離の空間転移を行うことができる。霊体専用。)
【幻影魔法】2
【魔導】2
【死霊魔法】1
・達人級
【誘惑】6
【催眠術】5
【闇精魔法】5
【魔法言語】3
・汎用
【闇魔法】9(MAX)
【暗号解読】8
【同時発動】6
【魔力感知】6
【風魔法】5
【水魔法】4
【魔力操作】4
【忍び足】4
【聞き耳】4
【ナイフ投げ】4
【暗殺技】4
【夜目】2
【短剣技】2
【調薬】2
》
この世界の者としてはかなり高いステータスだ。
伝説級スキルの数の多さが目を引く。戦って負けるとは思わないが、【幻影魔法】や【催眠術】など搦め手主体で攻められると厄介かもしれない。
しかし、レティシアが見ろと言ったのはそこではないだろう。
状態欄のいちばん上。
《エンブリオ接種(孵化済み)▽》
エンブリオ?
初めて聞く言葉だ。
俺は▽に意識を集中する。
《
エンブリオB01344:接種日1300年1月27日
エンブリオ素体:ワイトエンペラー(レベル55)
発現予定スキル:【空間跳躍】レベル不明、【死霊魔法】レベル不明、【魔導】低~中レベル
・自動生成ログ
スキル胚孵化:1300年1月29日
成長眠:1300年1月30日
スキル発現:1300年1月30日
発現スキル:【空間跳躍】5、【死霊魔法】1、【魔導】2
》
レティシアのステータスウインドウからポップアウトしたのは、日本語の文字列だった。
「これは……」
「やっぱり見えるのね。そう、私は彼からエンブリオBの胚を植え付けられたの」
「エンブリオ……B?」
「エンブリオには3タイプあるわ。A、B、Cの3つ」
レティシアは、今たしかに「A、B、C」と発音した。
「一体なんなんだ、このエンブリオというのは」
「見えているならわかっているでしょう? エンブリオとは、スキルやアビリティの情報をその持ち主から分離したものよ。いわば、能力の種ね」
「能力の種……」
「エンブリオを接種されたものは、ステータスをゆっくりと書き換えられ、エンブリオの孵化と同時に新しいスキルやアビリティを獲得することになるわ」
「そんなことができるのか」
杵崎は【自己定義】によって自分のステータスを自在に書き換えていた。
このエンブリオは、【自己定義】ほどではないものの、ステータスを書き換えるという点ではよく似ている。
また、【自己定義】は「自己」にしか働きかけることができないが、このエンブリオなら他者のステータスでも書き換えることができる。
汎用性という面では【自己定義】よりエンブリオの方に軍配が上がりそうだ。
さっき、レティシアのステータスにあった【空間跳躍】のスキルは、ヘルプ情報に《霊体専用。》とあった。にもかかわらず生身の人間であるレティシアがこのスキルを持っているのは、エンブリオによって与えられたからか。
「A、B、Cの3つがあると言ったな。何が違うんだ?」
「ステータス情報を書き換えるという点ではどれも一緒ね。私の植え付けられたエンブリオBは、安全胚と呼ばれるもので、スキルのみを発現させる設計になっているらしいわ」
「じゃあ、AとCは……」
「Aはアビリティを発現させるものね。スキルと違って本来人間には獲得できない力を植え付ける関係で、危険胚と呼ばれていたわ。もともとは魔物の研究から得られた着想だったから、アビリティの方が先行しているの。
そしてCは、ステータスの何もかもを書き換える胚よ」
「何もかも……だって」
「そう。その最たるものは、種族でしょうね。人間をエルフに変えることもできるし、もちろん、人間を魔物に変えることもできる。本来その魔物が持ち得ないはずのスキルやアビリティを山ほど盛り込んだ上で……ね」
「――っ!」
「あなたがアスラと呼んでいたあの娘。数えきれないほどの魔物や魔族を合成して造られた人工生命体。その研究の副産物として生まれたのがエンブリオだと聞いているわ」
杵崎がそれまでの研究から興味を移したというのも納得だ。
ただの人間にエンブリオを植え付けて魔物へと変える――いかにも杵崎が好みそうな悪趣味な研究だった。
「このエンブリオCを使えば、自然には存在しない生物を造り出すことも可能よ。
エンブリオモンスター、あるいはキメラ。あの男はそう呼んでいたけれど、あなたにならわかるのかしら?」
「……前世での伝説上の怪物だよ。獅子の頭と山羊の胴、蛇の尾を持つんだったか」
「素敵な伝説ね。
エンブリオは、ステータスに感染する虫だか回虫だか病原菌だかいうものらしいわ。残念ながら私には意味がわからないのだけど。
とにかく、エンブリオは、感染対象のステータス情報を改竄する力を持っている。正確には、エンブリオは生物ではなく自分自身を複製する情報転写体だとかなんとか……あなたになら、意味がわかるのかしらね?」
つまりは、ステータスに感染するウイルスだってことか。
インフルエンザウイルスが宿主の体内で自分を複製し増殖するように、エンブリオもまた自己を複製して増殖する。
ウイルスと違うのは、このエンブリオは宿主の持つステータス情報を書き換えてしまうことか。
「といっても、ステータス情報を書き換えただけでは、すぐには変化は起こらないわ。また、ステータス情報にはエラーを検出するための二次的な情報が含まれているから、エンブリオが書き換えた情報が少なければ自動的に元のステータスが復元される。彼はその二次的情報のことをパリティデータと呼んでいたけれど」
でも、とレティシアが続ける。
「エンブリオが十分に情報を書き換えれば、パリティデータはその効力を失う。書き換えられた情報が正しいステータスだと判定されてしまうようになる。そして、一度その情報が正しいと判定されると、魂と輪廻を司る神アトラゼネクの構築したシステムは、その個体に対して、改竄されたステータス情報に基づいた調整を行う。
そのきっかけとなるのは、エンブリオが孵化する時に宿主に惹起する強制的なレベルアップよ。ここまで言えばわかるのではないかしら?」
「……成長眠か」
「その通り。ステータス情報はただの情報にすぎないけれど、アトラゼネクのシステムはその情報を元に『ギフト』と呼ばれる力を分配し、人々にレベルやスキルと呼ばれる能力補正をかけている。この補正が、成長眠によって実装されるのね」
「エンブリオは女神様のシステムを騙してギフトを分配させ、望んだ通りの能力を植え付けさせることができるってことか」
「そういうこと。おそろしいことを考えるものね……転生者というのは」
杵崎と同じくくりで語られるのは不本意だが、杵崎が卓越した頭脳と発想の持ち主だったことはたしかだろう。
ついでに倫理観も持っていれば前世でもどれだけの活躍ができたか計り知れない。
しかし、奴は死んだ。
これ以上、この世界に対して何かをすることは不可能だ。
エンブリオはたしかに恐ろしい発明だが、本格的に使われる前になんとか防ぐことができたようだ。俺は内心で胸を撫で下ろした。
いや――待て。
さっきレティシアは「これから何が起こるかわからないと怯えようがない」と言った。
まさか……
俺の表情の変化を読み取ったのだろう、レティシアが唇を吊り上げて言う。
「ところで――ここ最近、王都でハエを見かけなかったかしら?」
「ハエ……? そういえば、まだ冬なのにハエが出るって話が……」
「そのハエは、エンブリオバグと呼ばれるエンブリオの運び屋よ」
「なっ……! てことは、まさか……」
「ええ。今、このモノカンヌスには、エンブリオによってステータス情報を改竄された一般市民がたくさんいる、ということね。
そしてそろそろのはずよ。エンブリオが孵り、彼らがアトラゼネクの力によってエンブリオモンスターへと変えられるのは……。ふふふっ」
「くそっ! なんてことを……!」
杵崎はアスラを連れ戻しに来たと言っていた。
しかし同時に、今はアスラから別のことに興味が移ったとも言っていた。
では、なぜ杵崎はモノカンヌスにいたのか?
その答えがこれだったのだ。
「――さて、それじゃあ私はおいとまさせてもらおうかしら。これから王都を襲う狂騒を見られないのは残念だけれど」
「逃げられると思ってるのか? あんたの【催眠術】は俺には効かないぞ」
エレミアから「牧師さま」の手口については教えてもらい、【催眠術】を覚えたメルヴィと一緒に特訓をした。
最近までレティシアの正体に気づけなかったのは、レティシアがごく薄く印象を変えるだけの操作しかしていなかったからだ。女性には印象を変えるための手段がスキル以外にも存在する。レティシアは俺が警戒しているだろうことを見越して、あえて術を薄くしか使っていなかったのだろう。
しかし、一度術にかけられていると気づいてしまえば、【催眠術】はいともたやすく打ち破れる。
メルヴィとの練習でも、これから術をかけられることを知っている状態では【催眠術】はまったくと言っていいほどかからなかった。
【幻影魔法】も俺には効かない。
【真理の魔眼】で魔力の流れを見れば、簡単に見破ることができる。
警戒すべきは【空間跳躍】とやらで逃げられることか。霊体専用のスキルが生身の人間で正常に働くのかは知らないが。
「逃げる必要なんてないわ。
悪神モヌゴェヌェス! 私は契約を果たしたわよ! 今こそあなたの義務を果たしなさい!」
レティシアが叫ぶ。その声が礼拝堂にこだまする。
一拍遅れて、重く低い、何者かの笑い声が聞こえた。
レティシアの背後に、黒い円が現れた。
形状としてはメルヴィが妖精郷との往復に使っているゲートに似ている。
もっとも、メルヴィのゲートが白く光っているのに対し、レティシアの背後にあるそれは、黒く、禍々しい気配がした。
レティシアは俺に顔を向けたままゆっくりと下り、黒い円に背中から近づいていく。
「待て! 何をするつもりだ!」
レティシアが嗤う。
「私は行きたいの。行きたくてしかたがなかったのよ」
レティシアの目は俺を素通りして、目に見えない何かに向けられているようだった。
「行きたい……? どこに?」
「こことは別の世界……異世界に」
「……っ!」
「私が悪神と交わした契約はこうよ。もし私が二十万都市モノカンヌスに恐怖と混乱をもたらすことができたら、その時は私を異世界へと連れていくこと――」
レティシアの背中が黒い円に触れた。
「楽しみでしかたがないわ、エドガー・キュレベル! あなたのような異端児やあの男のような異常者が生まれ育った世界がどんなものなのか!」
レティシアが背中から黒い円に飛び込もうとする。
「逃がすかよ!」
俺はとっさに鋼糸を放つ。
「おっと……」
レティシアの全身から、無数の黒くて小さい「何か」が溢れ出した。
ひとつひとつは黒い蝿のようなもの。
エンブリオバグか!
「くっ……《次元バリア》!」
俺はレティシアとの間に次元の断絶を作り出す。
俺の目の前にエンブリオバグで塗りつぶされた黒い壁ができる。
実体を持たないエンブリオバグも、次元の断絶は超えられないようだ。
が、これでは俺もレティシアの側に行くことができない。
レティシアの身体はもうほとんどが黒い円に呑み込まれている。
最後に顔だけを残したレティシアが言う。
「せいぜい、この世の地獄を楽しむことね、エドガー・キュレベル」
その言葉を最後に、元牧師は黒い円に呑まれて消えた。
推理要素は今回で本当に最後です。お付き合いいただきありがとうございました。
これまでに判明した人物関係を以下にまとめてみます(が、ほぼ片付いた話なので無理に覚える必要はないです)。
・本物の切り裂き魔→エリアリア・サーガスティン(ミリア先輩の双子の姉)。サーガスティン侯家の忌み子。母親である名女優シルヴィーンを殺害した過去を持つ。レティシアのマインドコントロールを受けていたと思われます。洗脳されていなくても殺人鬼になる素養がありましたが、その場合はどこかであっさり捕まっていたでしょう。
・切り裂き魔模倣犯(第四・第五)→イーレンス王子。次期国王の筆頭候補である兄に対しては屈折した劣等感を抱いていました。自分の方が頭がいいのにとか、親分肌のところが鬱陶しいとか、そのくせ人望は兄の方が断然あるとか、そういう感じですね。その辺は橋塔の見張り騎士が言っていた通りです。
なお、イルバラ姫の方は王位にはまったく興味がなく、マイペースに爆発事故を量産しています。
・シエルさん(偽)→転生者杵崎亨のスキル【自己定義】によって造られた偽者です。ただし杵崎の制約下に置かれてはいるものの、心身ともにシエルさん本人の完全なコピーです。シエル(偽)は杵崎の定義の隙を突いて聖剣〈空間羽握〉に意識をコピーして、反撃の機会を伺っていました。ここまで絶望的な状況に置かれても諦めない。勇者の鑑だと思います。
・ルーチェさん→アルフェシアさん。メルヴィのご主人様。始祖エルフという半神的な存在。メルヴィの故郷であるテテルティア妖精郷で剥落結界に封印されています(現在解除作業中)。図書館迷宮には、本人の申告通り、今の時代の常識を得るためにやってきていました。女神様と同じくこの人も人間との結婚は不幸を生むと思っているので、デヴィッド兄さんもあえなく振られてしまいます。なお、噂にある「図書館迷宮の幽霊」は彼女ではありません。ベアトリーチェ姫の幽霊はいるかもしれないしいないかもしれません。
・助祭さん→〈八咫烏〉の「牧師さま」レティシア・ルダメイア。目立たない所に隠れていました。ウェブ版だと出番が少ないので誰?と言われないかと怖れています。
一方、書籍版では出番が多いです。とくに2巻付章のお風呂挿絵は必見です。担当さんに「絶対いる!」と主張して入れてもらいました。
次話は来週、最低でも年内にはなんとかという感じです。
お待たせして申し訳ありませんが、よろしくお願いします。
天宮暁




