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114 正体

「ミ――」


 リア先輩、と叫ぼうとした瞬間、ミリア先輩の背後の窓が内側に向けて吹き飛んだ。


 そしてそこから飛び込んできた白刃が、ミリア先輩の胸を背後から貫いた!


「なっ――」


 俺がフリーズして動けないでいる間に、その白刃の持ち手(・・・)がつぶやいた。


「死こそが――」


 白刃――繊細な装飾の施された見覚えのある細剣を握っているのは、やはり見覚えのある人影――シエルさんだった。

 シエルさんは能面のような表情のまま、言葉を続ける。


「唯一、死のみが、彼女に安寧をもたらすことができるのですよ」


 シエルさんが聖剣をミリア先輩の身体から引き抜いた。

 胸に穴の空いたミリア先輩の身体が前のめりに傾ぎ、そのまま床へと倒れ伏した。

 聖剣の鋭利な刃で切り裂かれた穴からじわりじわりと鮮血が広がっていく。


 ミリア先輩に駆け寄ろうとした俺に、シエルさんが聖剣の切っ先を突きつけてくる。

 迷いのないその動きにシエルさんの本気を見て、俺は動きを止めるしかなかった。

 その代わりに、叫ぶ。


「シエルさん! どういうつもりだ!? 事と次第によっては、たとえあんたが勇者であっても許さないぞ!」


 俺は叫びながらシエルさんを睨みつける。

 同時に次元収納からいくつかの武器を取り出す準備に入る。

 目の前にいるのはレベル95の勇者だ。手加減などできるはずがない。


 シエルさんは、俺の言葉を受けてわずかに笑みを浮かべた。

 といっても、いつもの優しげな、あるいは打算的な黒い笑みではなく、背筋が冷たくなるような酷薄な笑みだった。


 表情以外にも、俺はシエルさんに違和感を覚えている。

 一体何が違うのか? そう自問してようやく気づく。シエルさんの瞳が、光沢のない銀色に染まっているのだ。いつものシエルさんの瞳は夜のような藍色だ。


「シエル……ふふっ。なんだ、まだ気づいていなかったのですか? そろそろ潮時かと思って出てきたのですが……とんだ早とちりだったようだ」


 シエルさんは唇の端を歪めて、嘲るようにそう言った。

 いつものシエルさんとのあまりの落差に、俺は動揺を隠せない。


「な、何……?」


 うろたえる俺に、シエルさんはにやりと笑いながら、一言一言を噛みしめるように語る。


「――エドガー・キュレベル。《護国卿》アルフレッド・キュレベル侯爵の四男。6歳。

 生後半年にして〈黒狼の牙〉団長ゴレスを討ち取る。その後、〈八咫烏(ヤタガラス)〉の拠点・カラスの塒に潜入して、蜂起を煽動、自身は首領ガゼイン・ミュンツァーを衆人環視の中一騎討ちで破ってみせた。

 父親が王室騎士団(ロイヤルガード)団長となりモノカンヌスに居を移してからは、キュレベル商会を介して製紙、活版印刷等の発明品を手がける一方、王立図書館迷宮の最前線に入り浸る。

 兄であるデヴィッド・ザフラーン・キュレベルは、同時期に『代数学の原理』『物理学――運動の法則』という2冊の革命的な理学書を上梓している」

「――!?」


 どうしてシエルさんがそんなことまで……すべてが秘密になっているわけじゃないが、〈黒狼の牙〉や〈八咫烏(ヤタガラス)〉のことは国家機密とされている。

 キュレベル商会を介して販売している製品を発明したのが俺であることも商会のトップシークレットになっていた。

 王から許可を得て図書館迷宮に潜っていることも、現場の司書以外は知らない事実のはずだ。


 そして、シエルさんは決定的な言葉を口にする。



「――あなた、転生者でしょう?」



「――ッ!」

「目的については察しがつきます。善神アトラゼネクから力を授けられるとともに悪神モヌゴェヌェスとその使徒と戦う使命を帯びて、この世界へと転生した、ということでしょう。

 あるいは――()を追うことこそが、あなたの使命なのかもしれませんが」


 シエルさんが、わずかに顎を上げ、俺を見下すようにしてそう言った。


「そんな……まさか……おまえは……!」


 俺の全身に戦慄が走った。


 いつかは。

 いつかは相まみえることになると思っていた。

 だが、それはまだ先のことだと思っていた。

 それが先のことである根拠など何もなかったのに。



「――杵崎亨(きざきとおる)……と名乗れば、わかっていただけそうですね、同郷の者よ」



「おまえが……!」


 俺は奥歯を噛み締めながら目の前のシエルさん――いや、杵崎亨(・・・)を睨みつける。

 そこに、メルヴィからの【念話】が飛んできた。


『エドガー、緊急よ!』


 メルヴィの【念話】にも応える余裕がない。

 メルヴィはよほど急いでいるらしく、俺の返事を待たずに言葉を続ける。


『デヴィッドからの伝言よ! 『図書館下層の本をひっくり返して探してみたが、盲腸についての記述はおろか『盲腸』という言葉自体が見当たらない。王城の医師に聞いてみても『虫が暴れる』という以上の知識の持ち主はいなかった。盲腸について知っている勇者は転生者の可能性が高い』って!』


 ……兄さん、それはもうちょっと早く言ってほしかった。


『盲腸なんて言葉をわざとちらつかせてるくらいだから、シエルさんはエドが転生者じゃないかと疑ってるはずだとも言ってたわ! それとなく前世の知識を匂わせて動きを見るための餌だったんじゃないかって!』


 くそっ……だとしたら、あの場で盲腸なんて聞いたことがないと返せなかった時点で、シエルさん――いや、転生した通り魔・杵崎亨は疑いを深めてたってことか。


 それに――「手術」に取り掛かるシエルさんを見て、俺はあの時たしかに思ったのだ。「前世の医師に勝るとも劣らない熟達した手つきだ」と。

 何が「勝るとも劣らない」だ。自分の間抜けさ加減に腹が立つ。俺の目の前でベックの盲腸――虫垂炎の切除手術を行っていたのは、紛れもなく「前世の医師」だったのだ。


『デヴィッドがアルフレッドさんやジュリアさんに連絡を取って、緊急招集をかけているわ。奴が動き出す前に、こちらの最大戦力で押さえようって……』

『――メルヴィ、残念だけど、それはもうできないよ』

『えっ……? って、まさか……!』

『うん、今、目の前にいる……』

『……っ! すぐに行くわ!』


 そうとなれば、時間を稼ぐべきだろう。

 同じく転生者である俺とこいつとでどちらが強いかは未知数だ。

 アルフレッド父さん、ジュリア母さん、チェスター兄さん、エレミア、ステフ、メルヴィ。この辺りのメンツが駆けつけてくれるのを待ちたいところだった。


「――おまえが切り裂き魔(リッパー)だったのか?」


 俺は自分でも愚かしいと思うことを聞いてしまった。

 いくつかの謎が残るものの、ミリア先輩が切り裂き魔(リッパー)――少なくとも最初の3件(・・・・・)切り裂き魔(リッパー)であることはほぼ確定的だ。

 しかしシエルさん――いや、杵崎亨はこう答えた。


「その答えは、イエスでもあり、ノーでもありますね」


 杵崎の答えは意外だった。

 自分はこの件には関与していない――そう答えるとばかり思っていたのだ。


「……どういうことだ?」

「私は逃げ出した失敗作を追いかけてきただけです」

「失敗作……?」

「あなたがたが保護している娘――私は『アシュラ』と呼んでいますがね」

「じゃあやはりアスラは――」

「そう。私の実験作です。実のところ、彼女の能力は偶然の産物でしてね。その後、再現できずに苦労しているところです。まぁ、今はそれよりも面白いこと(・・・・・)を思いついたので、そちらにかかりきりなのですがね」

「あの子は、何なんだ?」

「もうわかっているのでしょう? 彼女は『キメラ』ですよ。複数の生物を繋ぎあわせて造り上げた神話の怪物、あるいはフランケンシュタイン」

「キメラ……なんてことを……。あんたは医者だったんじゃないのか?」

「すべての医師が、生命の神秘に敬意を払い、ひとりでも多くの患者を救おうとしている――とでも? とんでもない。私などは表立っては天才外科医として数多くの命を救っていただけマシな方でしょう。人の命や健康を商売の道具としか思っていない医師などいくらでもいますよ。適当に病名を告げて、適当な薬を処方するだけでも診療報酬はもらえるのです。ついでに適当な検査もしておけば完璧ですね」


 だからこそ医師には倫理が求められるのだと思うが、こいつにそんなことを説いても無駄だろう。前世では医師としての立場を利用して百人以上を悪魔への生け贄にしたという殺人鬼なのだから。


切り裂き魔(リッパー)事件について、イエスでもあると言ったな。どういうことだ?」

「今更隠してもしかたがないので白状しますが、切り裂き魔(リッパー)事件と目されている事件のうち2つ(・・)は私が起こしたものです。正確には、私が子飼いにしている悪魔が起こしたのですが」

「悪魔だって?」


 そういえば、シエルさんは悪魔と戦って撃退していた。

 しかし、シエルさん=杵崎亨ならばそんなことをする理由がわからない。


「そう。あなたも見たあの悪魔ですよ。『シエル』には適当に戦って逃がせと命じておきました」

「狂言だったっていうのか」

「あなたの力を探ってみたかったのですよ。思ったより早く『シエル』が動いてしまったせいで、もくろみは失敗に終わりましたけれどね」


 杵崎はそう言ってわざとらしく肩をすくめてみせた。


「悪魔が切り裂き魔(リッパー)の2件に関わっている……そうか、死体の損壊状況がおかしかった第六と第八の事件か」


 第六の事件はハーフエルフの男性冒険者が犠牲となった事件、第八の事件は王立劇場の裏手の路地で起きた事件だ。どちらも遺体がバラバラにされ、各部位が広範囲に散らばっていた。


「さあ、いくつめの事件かは知りませんが、エルフの男性冒険者が殺された事件と、王立劇場の裏手で女優の卵が殺された事件ですよ。彼らは悪魔の張った〈牢獄〉の中で魂を悪魔に貪り食われました」

「死体をバラバラにしたのは……?」

「それはもののはずみというものですね。ちなみに、現場に『X』のような文字を残したのは私です。私――いえ、『シエル』は新市街の倉庫での切り裂き魔(リッパー)事件の第一発見者です。現場の状況については把握していました」


 現場に残されていた『X』の文字については捜査機密として非公開とされている。

 シエルさんはたしかに、第五の事件の第一発見者としてそれを知りうる立場にあった。だから、シエルさんには現場に『X』を残す偽装工作が可能だったのだ。


「……なぜそんなことをしたんだ?」

「さて、深い理由などありませんよ。単にこの王都で面白そうな事件が起きていたから一口噛まずにはいられなかっただけです。あれのおかげで捜査は少なからず混乱したのではありませんか?」

「……ただの愉快犯か」


 吐き捨てるように言うと、杵崎が肩をすくめた。


「もっとも、あなたの言うところの第七の事件とタイミングがかぶったのは、ただの偶然にすぎませんがね。『ベアトリーチェ』上演中の劇場のそばで切り裂き魔(リッパー)事件が起きたら面白いだろうと思ってあの場所に女優を誘い出したのですが、本物の切り裂き魔(リッパー)も『ベアトリーチェ』にはご執心だったようだ。結果、第七の事件と第八の事件は時を同じくして発生することになってしまいました。これでは早晩切り裂き魔(リッパー)が複数いることを疑われ、『シエル』はその有力な容疑者のひとりとなってしまうでしょう」


 それがこのタイミングで杵崎が正体を現した理由か。

 しかしだとすると、ミリア先輩が逃げたと証言した「襤褸を着た少女」はやはり実在しなかったということになる。


「おまえはあの時、裏路地から『出てきた人物はいない』と証言したな」

「もちろん嘘ですが、完全に嘘とも言えないでしょう。裏路地からは、私を除いて(・・・・・)誰も出ては来なかったのですから」

「第七の事件と第八の事件が連続して起こったのは偶然だったのか」

「たしかに偶然ともいえますが、切り裂き魔(リッパー)がベアトリーチェ姫の最期を模した方法で殺しを行っていたのは明白なのですから、起こるべくして起きた偶然だといえるでしょう。

 もっとも、殺しを終えて出てきたばかりの路地からあなたが現れた時には肝を潰しましたが」

「あの時おまえは、表通りの店のテラスで食事をしていたと言っていたな?」

「それは本当ですよ。いつ死体が発見されるのだろうとウキウキしながら待っていたのです。ところが、あなたの気配が裏路地から出てこようとしていたので、傍観を決め込むわけにもいかなくなってしまった、というわけですよ」


 話し始めてだいぶ時間が経った。

 そろそろみんなが来てもいい頃なのだが……。

 それはそれとして、ここで杵崎から情報を引き出しておくことも大事だ。

 この後に待っているのは死力を尽くした転生者同士の殺し合いだ。決着が着いた時に杵崎が口を聞ける状態である保証はない。


「他の切り裂き魔(リッパー)事件がおまえの仕業じゃないという証拠がどこにある?」

「くくっ。それは悪魔の証明というものです。やっていないものはやっていない。

 ただ、これだけは言えますよ。私には今更嘘を付く理由がありません。私がこれまでに一体何人の人間を殺したと思っているのですか? 切り裂き魔(リッパー)事件など、余罪にすらなりませんよ」


 悔しいが、この言い分には一定の説得力があった。


「そもそも、私には死体を損壊する趣味はありません。

 反応がない死体を切って何が面白いのか、理解に苦しみますね。

 それでは動物の解体と同じでしょう。

 私はもともと外科医です。人体を切るだけが目的なら、仕事で十分間に合っていました」


 そうだ。切り裂き魔(リッパー)は殺してから死体を解体する。生きたままなぶり殺しにするわけじゃない。この男の趣味から外れるというのは事実だろう。


 切り裂き魔(リッパー)と、通り魔にして悪魔崇拝者である杵崎亨――一見してよく似ているように思える2人だが、そこには何か本質的に異なるものがあるように思う。

 切り裂き魔(リッパー)が自身の衝動に突き動かされ破滅に向かって突き進んでいるのに対し、杵崎亨は常に自分の地位を守りつつ陰に隠れて完全犯罪を志す。

 切り裂き魔(リッパー)にあるのは女性に向けられた猟奇的な衝動だけだ。しかし杵崎亨には、殺人に向かう衝動だけでなく、それをコントロールできるだけの邪悪な理性が備わっている。


 杵崎が嘲るように笑いながら言う。


「そうだ、この事件の真相を暴くための鍵を教えてあげましょう。

 なぜ、切り裂き魔(リッパー)は死体をバラバラにしなければ(・・・・・)ならなかった(・・・・・)のか?

 そしてなぜ、同じ夜に新旧両市街で人を殺すという不可能犯罪に挑まなければならなかったのか?

 要するに、なぜ普通の殺人ではなく切り裂き魔(リッパー)事件だったのか? ということですね。

 この問題が解決できなければ、本当の意味で真相に達したとは言えません」

「ま、待て! 杵崎、おまえは何を知っている!?」

「いえ、何も知りませんよ? ただ私は、自らの頭を使って情報を整理しただけです。

 わかってしまえば簡単な事ですよ、ワトソン君?」


 杵崎――見た目はシエルさん――がくくくっと笑う。


「本当にお前じゃないのか!?」

「今回私は、ノワールとブランシュの餌にする他には、誰も殺していませんよ。私の犯した殺人の件数が今更1件2件増えたところで誤差のようなものですが、あのような醜悪な事件を私のせいにされてはたまりませんからね」


 杵崎シエルさんは秀麗な眉を寄せ、嫌悪を浮かべてそう言った。


「醜悪な事件……?」

「おやおや、正義の味方には、残念ながら名探偵の資質はないようですね。あなたが相手なら、私も楽ができそうです……くくっ」

「……の野郎!」


 それにしても――まだか。

 こいつを前にメルヴィに【念話】を飛ばす余裕はない。向こうからかかってきたものに答えるくらいはできるが、こちらからメルヴィの位置を探って【念話】を送るのはどうしても隙ができてしまう。


 杵崎亨は余裕たっぷりの様子で得々と語る。


「これは、知人の精神科医の受け売りなのですがね。

 死体損壊を目的とする殺人鬼の動機は、呪物崇拝(フェティッシュ)の延長線上にあります。

 殺人鬼は、殺人の前段階として、女性の下着類に執着し、窃盗に及ぶことがあるそうです。

 殺人鬼は女性を性欲の対象としつつも、女性そのものにははっきりとした恐怖と嫌悪を抱いています。そのせいで性欲が歪んでおり、女性の下着だとか靴下だとかに異常な関心を寄せるのです。

 それが昂じると、女性の排泄物に興味をいだいたり、女性の死体にしか興奮しなくなったりするとのことです。

 この辺りの性的な歪みは遺伝的な素因や家庭環境などさまざまな原因が想定されていますが、もちろん実験的に確かめるわけにもいかないことですから、真実は藪の中と言わざるをえないでしょう。

 ああ、もちろん、この手のシリアルキラーはそのほとんどが男性です。べつに男女差別をしているわけではなく、統計的にほぼ全てが男性なのだから仕方がありません。

 とにかく、生きた女は怖いが、死んだ女なら怖くないというわけですね。それが死体損壊を行う快楽殺人者の根底にある心理なのだそうです。

 もっとも、私にはよくわからない心理なのですがね」


 そう言って杵崎が肩をすくめる。

 前世の杵崎亨は、女神様の見せてくれたワイドショーで見る限りでは涼やかなイケメンと言っていい容姿の持ち主だった。

 家柄もよく、勉強もスポーツも出来、外科医としても天才的な手腕の持ち主だったというから、女に困ったことなどないのだろう。


 死ねばいいのに。

 あ、もう死んでるか。

 というか、いまだに実感が薄いが、俺が殺したんだったよな。


「じゃあ、おまえは切り裂き魔(リッパー)はその手の異常性欲者だと?」

「さて、どうでしょうか?

 これはあくまでも私の勘でしかありませんが、今回の切り裂き魔(リッパー)には、そのような性の臭いを感じないのですよ。

 切り裂き魔(リッパー)を突き動かしているのは、内なる衝動ではないように思います」

「じゃあ何なんだ?」

「内心で欲していないことをしているのですから、そこにあるのは他者から植え付けられた強迫観念でしょうね。

 そうしなければならないと強く思い込んでいるからそうしているのです。

 切り裂き魔(リッパー)には、女性を切り裂かざるをえない、破綻した、倒錯した、しかし本人にとっては合理的で切実極まりない強迫観念があるのですよ」

「……よくわからないな」

「ふふっ……あなたのような人には理解できないことかもしれません。

 しかし、私はその道のプロフェッショナルと言ってもいい」


 杵崎の言うことは何かの罠かもしれないし、嘘かもしれない。

 しかし、それを判断するのは今でなくていい。

 後でデヴィッド兄さんに相談してみればそれで済む。

 もちろん、生きてこの状況を切り抜けられればの話だが……。


 杵崎は床にうつ伏せに倒れたままのミリア先輩をちらりと見て言った。


「が、そちらについてはもう片がつきました。彼女が何を思っていたにせよ、真実は既に闇の中です」


 ミリア先輩はもはやぴくりとも動かない。出血量もとっくに致死量を超えているだろう。何より、背中側から心臓を聖剣で一突きにされているのだ。蘇生させることは到底望めない。

 俺は奥歯を強く噛み締めながら言った。


「本当に、ミリア先輩が切り裂き魔(リッパー)だったのか?」

「ええ。正確には、切り裂き魔(リッパー)1人(・・)でした」


 杵崎の言葉に、俺は思わず身を乗り出して聞き返した。


「1人? 切り裂き魔(リッパー)は複数いるというのか?」

「当然でしょう? その娘はどうしたって両市街で同時に事件を起こすことはできませんよ。人は2箇所には存在できない。まぁ、私は別ですが……」


 つまり、ミリア先輩と杵崎亨を除いても、もう1人以上(・・・・・・)切り裂き魔(リッパー)がいるということになる。


 ミリア先輩が犯人だったと思われる切り裂き魔(リッパー)事件は、先輩の知人・友人が殺されている第一から第三の事件までと、先輩自身が第一発見者であった(と装っていた)劇場での第七の事件の合計4つだ。

 残る第四、第五、第六、第八のうち、杵崎の自供によって第六、第八の事件の犯人は杵崎であることがわかった。

 すると、第四と第五――一夜のうちに新旧両市街に跨って起きた「二重殺人」の犯人だけが、まだわかっていないことになる。


 もちろん、これが杵崎のブラフであり、二重殺人の犯人も杵崎であるという可能性も捨てきれない。

 しかし、杵崎本人が言ったように、杵崎が今更1、2件の殺しを隠そうとする理由が見当たらない。


 それに、その日のシエルさんにはアリバイがあった。知人の吟遊詩人と夜遅くまで情報交換をしていたというのだ。これについてはメルヴィが嘘でないことを確かめ、さらに巡査騎士団による捜査によって吟遊詩人他複数人からの証言も得られている。


「もうひとりの切り裂き魔(リッパー)を暴くための鍵については既にお話しましたね? 醜悪な事件です。しかし、犯人の頭のキレはなかなかだ。もう一皮剥けてくれれば、私から誘いをかけて悪神側に招待するところだったのですがね」

「おまえにはそいつの正体がもう……」

「ええ、わかっていますよ? むしろ、まだ(・・)わからないのですか、王室探偵の助手さんは」


 くくっ、と杵崎がせせら笑う。

 どういうことだ……事件については断片的な情報しか持たないはずの杵崎が既に事件の真相にたどり着いている?


「ふふふっ……あなたは本当に愚かですねぇ」

「……何だと」

「私がどうしてこんな長話をしていると思います? サービス精神? とんでもない。同郷の者とひさしぶりに話せて楽しかったのは確かですが……もちろんこれは罠なのですよ。

 ――ノワール、ブランシュ!」


 杵崎の声とともに、杵崎の陰から2匹の猫が現れた。

 見覚えのある猫だ。

 シエルさんが頬を緩ませて餌付けしていた白猫と黒猫。

 結局、あの餌付けも偽装工作だったということか?

 しかし、男性である杵崎があの《残念勇者》を演じていたというのは、さすがに無理を感じるのだが――


 俺が考えている間に、白猫と黒猫は全身の毛を立てながらその体積を膨張させた。

 これは――


「……悪魔か!」


 2匹はこの間シエルさんが撃退してみせた悪魔へと変身した。


「なぜ、救援が来ないのか。あなたはそう思っていたでしょう?」


 杵崎が言う。


「それは、この領域が既にノワールとブランシュの展開した〈牢獄〉に呑み込まれているからです。ここで何が起きようと外界からはわかりません」


 そういえば……第六の事件も第八の事件も、ベルハルト兄さんの【事件察知】は反応していなかった。

 それは〈牢獄〉とやらの中で犯行が行われたからだったのか?


 そしてどうやらこの間のシエルさんと悪魔の戦いは、シエルさんへの疑いをかわしつつ、俺の実力を図るためのヤラセだったようだ。

 たしかに――あの時、俺は感じていたのだ。まるで殺陣の(・・・・・・)ような(・・・)戦いだと。


 そういえば――勝手に突破してきた門番の騎士たちも、いつまで経っても駆けつけてこない。

 その時点でおかしいと気づくべきだったのに、突然杵崎が現れたことで意識の中から飛んでしまっていたのだ。


 ――とにかく、悪魔の作り出したこの空間の中で、俺はもうひとりの転生者・杵崎亨に、たったひとりで立ち向かう羽目に陥ってしまった。

次話>2日後です

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