日常と非日常の交代
「……つかれた。もう本当にどっと疲れたよ」
楠木琴乃は自宅の居間の真ん中で、仰向けになり倒れた。もう一歩も動くことが出来ない。否、動きたくない。身体中が悲鳴を上げているようだった。
何故ここまで疲れているのかと言えば、たった今旅行から帰ってきたばかりだからだ。幼馴染の春香に連れられ、二泊三日の小旅行をして来た。旅行自体はとても充実していて楽しいものだったのだが、朝から晩まで、文字通り寝る間も惜しんで活動していた。歴史が好きな彼女のおかげで、今回の旅行先は、新撰組の所縁の地巡りだった。
私自身、歴史の知識も、新撰組の知識もほぼ皆無だったのだけれど、この三日間の旅行で散々頭に叩き込まれた。
秋も深い、冬の始まりの匂いがする中、様々な景色を見て回った。所縁の地巡りとはいっても、建造物が残っていたり、道具が残っていたりというものは殆どと言っていいほど無い。この辺がそうだったらしいという、昔とはまるで違うであろう景色を見て回った。メインは新撰組の所縁の地巡りだったものの、四六時中食べていたかもしれない。
もう暫くは、食べ物を見たくないとさえ思うけれど、きっと明日になればまたお腹が空くのだろう。そう思いながら、床へ散らばる荷物の中からチラリとはみ出たパンフレットを抜き取る。旅先でもらった物だ。このパンフレットも、たくさん撮った写真も、アルバムへ貼らなくてはいけない。春香にも、お礼として小さなアルバムを作って渡すつもりだ。
一応、パンフレットはもらって来たものの、もう一度、色々な説明を写真と共に、春香にしてもらわなければ纏めるに纏められない。
「今度聞かなくちゃ……」
そう呟きながら、眺めていたパンフレットを閉じると、隙間から一切れの紙が顔へと舞い落ちる。咄嗟に掴み見ると、とても古い和紙のような紙に、筆で字が書かれているようだった。
「……共に見よう。この国の行く末を……?」
紙にはそう、書かれていた。達筆な字のせいか、とても古い時代のものではないかと錯覚してしまう。パンフレットの付属品だろうか。だとしたら、とても粋な演出だ。一瞬、本当に昔のものではないかと思ってしまう程に、この紙はよく出来ている。
その紙をじっと見ていると、視界の端、紙越しに何か見えた気がした。
「え……!?」
声を出した次には、琴乃の体の上へ、どんっと重い衝撃が三回降ってきた。
肺が潰されてしまうような感覚に、声にならない声を上げる。重過ぎて、体ごと潰れてしまいそうだ。
何が起きたのかも分からず、じたばたともがくと、何とか脱出出来そうだった。自分自身へ降ってきた重い何かから逃げるように脱出する。ようやく足が抜けた頃に、琴乃は自分自身に何が起こっていたのかを理解した。
まず、脱出した先には血塗られた刀があった。刀には乾いた血がこびり付いている。もちろん、元々この家に有ったものではない。
次に、琴乃へ降ってきたものは人だった。それも三人もいる。重なるようにして三人は、琴乃の上へと降って来たらしい。どうりで重いはずだ。
三人を見ると、どうやら三人の着ているものは、どれも着物のようなものだった。まるで、旅先で見て来たものと同じようなものを身に纏っている。しかも、そのうち二人の着物は乾いた血で染まっていた。
「幽霊……?」
思わず呟いた。混乱した頭を落ち着かせる為にそんなことを思ったが、それにしてはリアル過ぎる。僅かに胸元が動いているから、息もあるようだ。重さもあったし、透けてもいない。幽霊ではなさそうだ。
試しにちょんと頬をつついて見ると、暖かな温もりと弾力のある肌の感触が指へ伝わった。生きている。
琴乃は意を決して、重なり合う三人を一人一人寝かせてみた。三人とも男だったせいで、女の琴乃にはそれは、結構骨の折れる作業だった。
「並べてはみたものの……どうしよう」
改めて三人をじっくりと見回す。
三人のうち、二人の羽織には「誠」という文字が書かれていた。琴乃はその文字で「新撰組」を連想する。この羽織は旅先でみたものと酷似していた。そういうコスチュームプレーをしているのだろうか。もし仮に、彼らがコスチュームプレイヤーだとして、一体どこから降ってきたのか。
そこが問題だった。もちろん、天上に穴など空いていない。琴乃の見間違いでなければ、何もない虚空から、彼らは降ってきたことになる。
「まさか、そんなのあり得ない」
口で否定はしてみたものの、どこかで否定出来ない自分がいた。
疲れてとうとう、やけにリアルな幻覚でもみているのだろうか。そんなことさえ、思う。
「ん…………。いてぇ」
その声に琴乃はビクリと震えた。真ん中に寝かせていた男が、むくりと起き上がる。
腰まである艶やかな髪に、鋭い眼光。整った顔立ちからは、冷たい印象を得た。
怠そうに辺りを見回し一言、「まさか、死んだか……?」と呟いた。その傍ら、言葉を失って動けない琴乃に気付いた彼は、地で染まった羽織を脱いで琴乃へと押し付ける。突然のことに戸惑う琴乃。
「えっ、えっと、これは……」
「おい女、オレは死んだのか?オレみてぇなやつが極楽浄土に行けるとは思えねぇ。ここは……どこだ」
そう言った彼に睨まれ、琴乃は言葉を詰まらせた。早く言え、と言わんばかりの彼の視線に何とか言葉を紡ぎ出す。
「ここは、私の家です」
「家?これが?」
男は辺りを見回し、舌打ちをした。
またも、ビクリとする琴乃を一瞥し、彼は両隣を見やる。そして、目を見開いた。
「んなっ!新八!?……平助まで!」
そう叫んだ彼の声で、浅葱色の羽織を着たもう一人の男が、瞳を開けて起き上がった。
「左之じゃないか……。一体、どうしたんだい?」
「どうしたもこうしたもねぇ。早く見ろ、新八。……よく分かんねぇ」
新八と呼ばれた男は、きょろきょろと辺りを見回す。
こちらも割と整った男らしい顔をしている。少し垂れた目尻のせいか優しそうな印象を得た。柔らかな茶色の髪を、高い位置で一本に結んでいる。
その彼と、琴乃はばっちり目が合った。
「お、おはようございます」
「あぁ、おはよう」
琴乃のあいさつに答える新八。あいさつをしている場合ではない。
浅葱色の羽織に、誠の文字。新八と左之という名前。どう考えても聞き覚えがある。
「新撰組……」
思わず口をついた言葉に、二人は琴乃を睨み付けた。
「もしかすると、この女、敵か?オレたちを拷問にでもかけるつもりかよ」
「拷問!?そんなことしません。敵でもないですし、ここは私の家なので……」
「こんなとこ、家な訳がねぇだろ。意味分かんねぇもん、ばっかりじゃねぇか」
左之が言う。その声には敵意を感じられた。
こんなにも分かりやすい敵意を、人から向けられたのは初めてだった。怖すぎる。そんな琴乃の心を汲み取ったのか、新八は「落ち着け、彼女から敵意は感じ取れないよ。もしかしたら彼女も囚われた身なのかもしれない」と左之を宥める。
「それに、平助もいるからね。新撰組が目的というわけでもなさそうだよ」
「なるほどな」
新八の言葉に、左之は頷く。
二人は勝手に、琴乃を捕虜だということにしたらしい。少し項垂れた琴乃に、二人は向き直った。
「オレは知っちゃいると思うが、新撰組、十番隊組長の原田左之助だ」
「俺も同じく新撰組、二番隊組長の永倉新八だよ。ところで君は?」
「楠木琴乃です」
二人の自己紹介に辛うじて答える。
二人は間違いなく新撰組と言った。しかも、永倉新八、原田左之助という名前だとも言った。まさか、そんな馬鹿な。そうは思ってみても、二人はまるで本当にその人物だと思ってしまいそうになる。羽織も、刀も、迫力も。何より、二人は嘘を付いていないと、その素振りから感じ取られた。
琴乃の常識に囚われない部分が、彼らの行っていることを信じてしまいそうだった。むしろ、一度そう信じて話をしてみた方が良いのではないかという結論に至る。
「お二人は……というより、三人はどこから来たんですか?」
まだ寝たまま動かないもう一人に目を配せつつ、琴乃は言った。
それに対して、気まずそうに目を背ける二人。
「言いたくなければ、良いのですが……」
「油小路だよ」
新八が静かに答えた。
聞いたことがある。そこにはつい二日前に行ったばかりの場所だ。行ったと言っても、この辺りにあったらしいという曖昧なものだったが。春香が熱心に色々と説明してくれていたことを、琴乃は三割程度しか思い出せない。それでも、その場所は覚えている。
「油小路は何と無く知っています。この前、そこへ行ったので……」
「なんだ、やっぱりてめぇもそっから運ばれて来たのか?」
「いや、そう言うわけじゃなくって……。でも確かそこで、藤堂平助が死ぬってことを何と無く知っています」
「あぁ?平助が死ぬ?馬鹿言うな!あいつは死んだりしねぇ!現にここにいるだろうがっ!」
凄い剣幕の左之助に、「すいません!」と琴乃は謝る。立ちかけた左之助を、新八が手で制すと、左之助は舌打ちをしながら顔を背けた。
怯えながらも、まだ起き上がらないもう一人を見る。肩までの黒い髪が寝癖のように所々跳ねている。長い睫毛に通った鼻筋。安らかな表情で眠っていた。やっぱり、この小柄な少年は平助というらしい。藤堂平助。油小路事件で惜しくも命を落とした御陵衛士の隊士。そして、元新撰組、八番隊組長。春香が相当に騒いでいたから、これだけは覚えている。二人の前で、そのことに触れたのは賢くない選択だったらしい。急に申し訳なく感じて、琴乃は俯いた。
しばらく、言葉のない時間があってから、新八が口を開いた。
「さっきまで俺たちは、新撰組として御陵衛士と戦っていた。戦う、というよりは、むしろ、一方的に殺そうとしていたと言ってもいい。そこに、平助もいた。本来、敵だから殺さなくてはいけなかったんだけど、近藤さんが、「平助はここで死ぬのは惜しい。見逃してやってくれ」と言っていたこともあって、平助を助けようとしてたんだよ」
「そしたら、地面が激しく揺れて、気づいたらここにいたって訳だ」
なるほど、と琴乃は理解した。もし仮に本当に、彼らがそこから来たとして、それが藤堂平助が殺される前だったとして、問題は何故ここへ来たのかだ。
二人も、何故ここに来たのかは分からないようだった。
琴乃は非現実的な話を一旦、受け入れることに決めた。その上で、ここがどこなのか、分かってもらおうと思う。琴乃のように聞き分けが良いかは不明だが。
意を決した琴乃は、改めて二人へ向き直る。
「いくつか、こっちからも話をさせて下さい。いいですか?」
「いいよ」
「あぁ」
二人の了解を得たところで、更に琴乃は続けた。
「今から言うことは本当のことなので、信じて下さい。代わりに、私はお二人が新撰組だということ、永倉新八さんと原田左之助さんだということを信じます」
「ったりめぇだ。本当のことなんだからな」
「で、何だい?その信じることが容易ではないことって」
「ここは、お二人が生きていた日本よりも、もっとずっと未来の世界です。うーん……、たぶん百五十年くらい先です」
「なっ……!?ふざけんな!」
「まぁ、彼女の言うことを聞こうじゃないか」
やはり信じてもらうには無理があったか。しかし、これも事実だ。信じてもらわなければ困る。私もいまだに心から、彼らのことを信じているわけではないのだけれど。それでも信じてもらわなければいけない。何か、少しでも信じられるようなものはないだろうか。
そう思いながら、琴乃はリモコンを手に取った。
「例えばこれはテレビといって……、なんて説明したら良いのかわからないんですけど。文明の進化の一例です」
そう言って琴乃がテレビを付けると、二人は「は……?」と抜けた声を漏らした。
よし、これならいけるかもしれない。
「後は、これは冷蔵庫といって、中に食材を入れておくものです。冷たいので食べ物を腐らず保存することができます」
立ち上がった琴乃は、冷蔵庫の扉を開ける。二人も立ち上がって、おそるおそる中を覗き込んだ。
「本当だ。冷たい」
新八は物珍しそうに、中へ手を入れる。左之助が「馬鹿!危ねぇぞ、気を付けろ」と言いつつも冷蔵庫の中へ手を入れた。
「こっちは冷凍庫です」
琴乃が下の段を開けると、冷気が周りを包み込む。氷を見て、左之助はそれを手に取った。
「すげぇキレイな氷じゃねぇか!こんなにキレイな氷は初めて見たかもしれねぇ」
感嘆の声を上げる。
その後も、蛇口を捻って水を出したり、コンロの火を見せてみたり、照明のスイッチを切ったり入れたり、おそらく江戸時代にはなかったであろうものを思いつく限り、二人へ見せて行った。
ある程度見せ終わったところで、興奮気味の新八が、ふっと笑った。
「どうやらこれは、彼女の言うことを信じるしかないようだね」
「あぁ、仕方ねぇから信じてやる。にしても、すげぇな……」
左之助は瞳を輝かせながら言う。
何とか信じてもらえてよかったと、琴乃は小さくガッツポーズをした。
それから、二人をソファーへ座らせ、冷たい麦茶を出すと、琴乃も彼らの向かい側へと腰を下ろす。
「おぉ……、透明な湯呑みに冷たい茶……」
左之助がグラスを手にとって、まじまじと眺めている。
「ここが俺たちの未来だとは……、もし本当なら、住みやすくなっているのかい?まだ、戦はあるのかな?」
「刀や銃は、一般人は持てません。戦は……国内では今のところありません」
「そうか、住みやすい世になったみたいだね」
琴乃の言葉に新八は柔らかく微笑んだ。きっとこの人たちは、そのために今まで刀を取り合い戦って来たのだろう。その心情は、私には計り知れない。
そんな新八の傍ら、左之助は表情を曇らせながら小さく呟いた。
「……まさは、どうなったんだ。ここが先の世なら分かんだろ?」
「まさ……ですか?」
「さのの妻だよ。いくら先の世だとはいえ、そこまでは分からないだろう」
新八が心配そうに返す。左之助の妻、聞いたことはないが、ネットで調べたら案外分かるかもしれない。そう思い、琴乃は携帯電話を取り出しネットへと繋いだ。
「それは何だい?」
「説明するのは難しいですけど、簡単に言えば離れたところにいる人と話が出来たり、手紙を送れたり、書物のように調べ物を出来たりするものです。……あ、ありました。原田まささん」
原田左之助と入力すると、そのページに原田まさの名前が書いてあった。そこからリンク先へ飛ぶ。
「もし、オレのことがそれで分かったとしても、教えてもらわなくていいからな。さすがに、自分自身のことは冗談でも知りたくねぇ」
「おっと、それには俺も同意だね」
「分かりました」
もし私が逆の立場でも、自分の未来や死因は出来るだけ知りたくないかもしれない。それが例え、本当のことではないとしても。
リンク先を見てみると、色々と詳しく書かれていたものの、どうやらまささんは天命を全うしたようだった。
「まささんは一九三十年に八十三歳で亡くなってます」
「八十三歳って……、あいつずいぶん長生きしたもんだなぁ。まぁ、嘘だとしても良い嘘だ。信じようじゃねぇか」
安心したように左之助は笑った。それだけで分かる。彼にとってとても大切な人だったのだろうと。
琴乃もつられて微笑んだ。向かいに座る新八が「よかったね」と肘で左之助を小突く。
「にしても、平助のやつ起きないね。相当、疲れてたのか……」
「だろうなぁ。伊東さんの話がいってから、ずっと張り詰めたまんまだったんだろ。しばらく、起きねぇかもしれねぇな」
「俺たちも色々と聞きたいことがあるけれど、さすがに眠たい」
新八が欠伸をし、それが左之助、琴乃と順番に移った。そして、三人でクスクスと笑う。琴乃の緊張はだいぶほぐれて来た。それと同時に、眠気が襲ってくる。
「そろそろ寝ますか。あっ、でも服は汚れてるしお風呂に入ってもらわないと……」
そう言った琴乃は、何か大切なことを忘れている気がした。新八、左之助、平助を順に見る。
「あぁ!二人ともどこに寝るんですか!?」
「ここかな」
「ここだな」
「ですよね……」
やっぱりそうかと、琴乃はため息を付いた。
そんなに布団もなければ、着替えもない。そして何より、二人は男だ。今まで男を止めたことがなかった琴乃は慌て始める。
「とりあえず、シャワーの浴び方を教えるんでお風呂に入って下さい。着物は洗いますから、カゴに入れてくださいね。私はちょっとそこのお店で男物の服を適当に買ってきます」
混乱しながらも、わたわたと動く琴乃に二人は不思議そうに問う。
「洗うって今から?この家に風呂があんのか?しかも、こんな夜遅くに店とかやってんのか?」
「俺は裸でいいよ」
「私は良くありません!お風呂はあります。お店はやってます。こっちに来て下さい」
そう言って二人を風呂場へ連れて行き、一通り説明した。その後、血で染まった羽織を固形石鹸で擦り、押し洗いをしてから洗濯機へ突っ込んだ。
二人に行ってくると伝えた琴乃は、疲れた体に鞭を打ち、買い物へと出かけて行った。
すぐ近くにある二十四時間営業の店に感謝して、適当に服と下着、そして歯ブラシ、毛布を購入すると急いで帰路に着く。
三十分後、息を切らした琴乃が帰宅すると腰にタオルを巻いた新八が出迎えてくれた。
「おっ、待っていたよ。早かったね」
髪を下ろしているせいで雰囲気が違う。目のやり場に困りながら琴乃は、「ただいまです」と消えるような声で呟いた。
すぐさま買ってきた服を新八へ手渡す。
「買ったばかりで悪いですけど、これ着て下さい。スウェットです」
「へぇ、黒い着物だね。君が着ているものと似ている。変わってるね、異国のものみたいだな」
「大きめなものにしたので、少し大きいかもしれないです。原田さんは……?」
「左之なら、もう風呂から上がっていると思うよ。にしても、凄いね。この時代は。風呂にも気軽に入れるし、水も好きな時に使える。しかも、家も暖かい」
「気に入ってくれてよかったです。一応、歯ブラシも買って来たんで歯を磨いて下さい。あと、髪もドライヤーで乾かしてくださいね」
「ちょっと待ってね。何をすればいいのか、よく分からない。できれば、教えてくれると助かるな」
今の時代は、昔とは全く違うのだと改めて琴乃は実感する。ドライヤーと言っても分かるはずもないだろう。仕方がなく、琴乃は洗面台へ新八を連れて行き、説明をした。
風呂場からは「おおー!」だの、「あちっ!」だのと左之助の声が聞こえる。
「じゃあ、ここで服を着て下さいね。原田さんの服もここに置いておくので、よろしくお願いします」
「あぁ、分かった」
風呂場から、左之助が答える。
「ありがとう。終わったらそっちへ行くよ」
洗面場の扉を閉めて、居間へと戻る。
琴乃は温泉で全てを済ませてきている為、特にすることがない。今思えば、化粧すらしていない顔で異性と向かい合っていたのか。普段なら絶対に慌てるであろう出来ことも、どうでもいいと思える程度には琴乃は疲れていた。
ふと、床へ視線をやると、平助は横向きになり寝ていた。すやすやと寝息まで立てている。カーペットの上とは言えど、床の寝心地はあまり良いものではないだろう。
琴乃は平助の上半身をずるずるとソファーの前まで引きずってきたが、残念ながら持ち上げる腕力はなかった。
「私の力じゃ無理だなぁ」
そう言った後、洗面場から黒いスウェット姿の新八と、灰色のスウェット姿の左之助が清々しい顔で出てきた。
風呂に対して、かなり感動したらしい二人の表情は朗らかだ。
「すっげぇ、さっぱりした。最高にいいな、この風呂は」
「左之はすっかり気に入ったみたいだね」
新八は琴乃と平助を順に見て、「ここへ寝かせればいいのかな?」と平助をソファーへ移した。そこへ、琴乃がそっと毛布をかける。
「よく眠っていますね。全く起きる気配がないです」
「こんな無防備な姿は少し珍しいかもしれないね」
「オレらも早く寝ようぜ」
「そうしま…………っ!」
琴乃は言葉を済まらせた。一人で暮らしている家だ。この家へ三人が寝るからと布団は調達した。しかし、ベッドは一つしかない。もちろん、ソファーも一つしかない。あろうことか、敷布団のことを忘れていたのだった。寝る時はゆっくりと眠りたいからと、一応大きめなセミダブルベッドがある。それでも一つしかないことには、変わりない。
琴乃の心配をよそに、二人は寝室へと入っていく。
「……ん、布団がねぇ。もしかして、この上に敷いてあるのがそうか?」
左之助がベッドへダイブした。
「どうしましょう……ベッドが、布団が一つしかありません。客用の敷布団なんて家にはないですし、掛け布団ならあるんですけど……」
「俺は床でいいよ。何か不思議なものが敷いてあるから、痛くないだろうしね」
シャギーマットを足でとんとんと新八が踏む。床はさすがに痛いのではないか。
どうにかならないかと考えるが、いい案が思い浮かばない。
「私が床に寝るので、ベッドにはお二人でどうぞ。狭いですけど……」
「女の子を床で寝かせる訳にはいかない。それに俺たちが君の家に転がり込んで来たんだから、君はいつも通りに寝ていいよ」
そんなことを言われても、ベッドには左之助がいる。いつも通りには寝れない。
琴乃が悩んでいると、「ほら、こいよ」と左之助が手を引いた。思わず、ベッドへ倒れこむ。
「何にもしねぇよ。向こう向いてやるから、安心して寝ろ」
「でも、これは……ちょっと」
琴乃に背中を向ける左之助を見てから、新八を見る。
「じゃあ、おやすみ」
掛け布団に包まった新八は、その声の何秒か後には寝息を立てて寝ていた。左之助もどうやら、寝てしまっているらしい。
ベッドの中で、琴乃のは仕方がなく瞳を閉じた。
「しょうがないか……」
そう静かに呟いてから夢へと落ちていくのは、一瞬のことだった。