慶応三年
一・はじまり
慶応三年 十一月十八日深夜 七条油小路事件
暗闇の中、必死に走る。地面を蹴る音がやけにうるさく感じる。すぐ近くで、刀と刀がぶつかる音が響いた。それが、合図だった。
咄嗟に踏み止まり抜刀すると、素早く見回し敵を確認する。多い、多過ぎる。味方は五、六人しかいない。対して敵はおそらく三十人近くいるだろう。
まともにやり合っても勝てる訳が無い。
刀を握る手が僅かに震えた。怖いわけではない。この道に進むと決めてから、いつ死ぬかも分からないこの命を、惜しむことなどしない。俺は刀を力強く握り直すと、踏み込んだ。
「うおおおおおおおおおお!!」
大きく吠えながら、刀を振り下ろす。それを受け止めた敵は、昔の仲間だった人物だ。名前も分かる。そいつの刀癖だって分かる。この構えと刀の扱いは、かつて俺が教えたものだった。
「この程度じゃ、俺は斬れねぇ!」
俺が刀を素早く横へ引くと、刀を伝って手へと重い感触がした。視界から、俺と対峙していた敵が一人消える。そいつが、どしゃっと地面へ崩れる音を聞いて、俺は小さく舌打ちをした。
悪い、と心の中で呟く。返り血と汗とで濡れた額を乱暴に拭う。仲間の安否を確認している暇はない。一刻も早く、敵を始末しなければと思い、敵の中へ飛び込もうとすると良く知った声が聞こえた。
「待て!刀を下ろせ。そして、こっちへ来い」
耳に慣れた声に、思わず足を止めた。よく見知った彼は、険しい顔で怒鳴る。親し過ぎた彼を前に、胸を思い切り掴まれる思いだった。彼の元へ行こうとして、そして踏み止まる。
こんなもの罠に決まっている。やすやすと行ってたまるものか。そう思い彼を睨むと、彼は少し困ったような表情をしながら刀を下ろした。その彼の横、彼と同じように俺にとってはかつて大切な仲間だった男が、槍を下ろしながら走ってきた。
「お前に対して悪意はねぇ!刀を捨てろ!」
「ふざけんな!んなもん、信じられっかてぇの!」
そう言いながら、更に距離を詰める。刀を握る手が汗ばんだ。二対一という状況で、相手は刀や槍を下ろしているとはいえ圧倒的に不利だ。そもそも、そのうちの一人は新撰組一の剣豪である。一対一で勝負したとしても勝てる見込みは薄いのに、敵が二人となれば、こちらが勝てる可能性はほぼ無いに等しい。
「くそっ!殺んなら親しかった奴の手で、殺るってことかよ……!」
奥歯を噛み締める。俺が吐き捨てるように言ったその言葉に、「違う!俺たちはお前を……」と言いかけた片方をもう片方が手で制した。
「その話はここでは言わねぇ方がいい。とにかく、オレたちは……」
槍を床へ投げ捨て言い放った彼が、言い終わらない内に、突然、地面が激しく揺れ始めた。思わず俺は腰を落とす。こんなにも強い揺れは、体験したことがない。とうとう、姿勢を保つことが出来なくなった俺は、床へと突っ伏した。
ガタガタと揺れる地面のせいで、頭の中が揺さぶられているような感覚に陥る。目すら開けることが出来なくなり、何処からか滑り落ちるような感覚に囚われたのを最後に、俺の世界は暗転した。