爪
ベランダで爪を切った。開け放した窓から、白い花びらが音もなく指先をかすめる。まだ、桜が咲いていたのか。あるかないかの香りとともに、桜は冷たい夜の気配に乗ってやってくる。深く息を吸うと、肺の中まで沁みこんでいきそうだ。
気がつけば五ミリは伸びていた。どうりで部品を掴みにくいはずだ。いつも爪が軋み始めてからようやく切る。ささくれだち、不用意にさまざまなものを傷つけて。それはそのままそっくり、自分の性格だ。
彼女の話をしよう。
彼女と出会ったのは、五年も前のことだ。大学を卒業して、弱電関係の工場に就職した。選り好みは出来なかった。大手企業の関連会社だったが、この土地では老舗とも言える会社のひとつで当時は給料も高かった。郷里の親も「もっといいところはなかったのか」と零したが、特に帰れとは言わなかった。長兄が既に結婚し同居していることから、当時は半ば当たり前と思っていたのだろう。ただ、自分もなんとなく外に出ていたほうがいいような気がしていた。
初出勤の日、まずは仕事の全体像と流れを把握するためにと、製造ラインに入るよう指示された。二ヶ月の試用期間中は、各部署を経験して歩くのだ。そして課長に連れられて行った先に、彼女がいた。
「彼に仕事を教えてやってくれ。」
その女性は検査器具から手を離すと、一瞬動きを止めて課長を見遣った。紺色の事務服、後ろでひとつに結わえた茶色い髪。右手首にはめられた銀色の腕時計。――いくつだろう。俺よりちょっと年上かな。後姿から、そんなことを考えた。女の人が男に仕事を教えるのなんて、気が重いだろうな。――そう思うと、ほんの少し憂鬱な気分になった。
きっちりと切り揃えられた誠実そうな指先は、課長と話しながらも止まらなかった。西本美千子さん。後で自分より六つ上だと知った。眼もほとんどモニターを見ているようだった。ひらり、ひらりと、舞うように左手から右手へと基板が動く。ゆっくりとして見えたが、ベルトコンベアの速さに充分間に合っている。彼女の手元に、溜まっている余計な基板はない。
「……ということで。んじゃ、後はお手柔らかに頼むよ、みっちゃん。」
壮年の課長は気安く彼女の肩を叩いて行ってしまった。
「仕事ねえ。簡単なんだ。やって見せるから、しばらく見てて。」
振り向きもせず気のないような声で、彼女は言った。
「まずこの位置にこういうふうに基板を入れて。このスイッチをオン。すると画面にこういう波形が出るから。」
とマイナスドライバー型の調整棒を回し、
「緑色のボタンを押して波形が切り替わるのを確認。」
「小さかったり、変わらなければ不良だから。もう一回やってみせるね。」
もう一回、もう一回と言いながら、彼女は何度もやって見せてくれた。彼女の滑らかで的確な動きが、まるで手品のように見えたものだった。真剣な眼、引き締まった口元が、ベテランの貫禄を醸し出していた。
「……わかった? 簡単でしょ?」
そこで彼女はようやくこちらを正面から見た。無愛想ともいえるクールな横顔からは大きく振り幅のある、人懐こい笑顔だった。
(掃き溜めに鶴、ってことわざがあるけど、ほんとうだな。睫毛が長い。綺麗な人だな。感じのいい笑顔だ。)
惹き込まれて、我知らず微笑んでいた。緊張が解けた。このとき既に、心は動いていたのだ。
けれどそんな感想も、忙しさに流されているうちに、すぐに消えてしまった。慣れることに精一杯だったのだ。別な《いい会社》を捜す余裕も自然となくなった。とにかく会社に通うしかなかった。
適職を見つけるより適性を磨く。
習うより慣れろ。
あっという間に月日は過ぎていくものだ。
そう自分に言い聞かせ、仕事で手ひどい失敗に蒼くなりながらも半年経つうちには人にも慣れた。親の安心を得られることが、出来るようにもなった。
生活が落ち着いた頃、やっと周りが見渡せるようになった。そんな先に《彼女》がいた。
ようやく横顔だけではなく正面から見られるようになったと言ってよかった。
※
「大学出てるんだってえ? なぁんでこんなとこに入っちゃったのぉ?」
おばさんに限らず若い女の子までもがそんなことを聞いたものだ。工学部出身、などというと大会社の製品開発や研究員になるものと思っているらしい。パソコンで精密機械の設計などをしているとそれだけで拒絶反応を起こすのか、「うわ全然わかんね」と首をすくめる上司もいるくらいだ。真顔で「なんでNASAに行かなかったの」と言われた時は笑ってしまった。
実際、仕事は性に合っていたのだろう。
モニターを長時間見るのも苦にならなかったし、配線図は宝物の地図か秘密の暗号を解読するようにも見えて面白かった。
それに、新しい製造工程を伝えるためにラインに出向くのも、いやではなかった。おばちゃんたちは「やせてるわねえ。ちゃんと食べてるの?」だの「彼女とかいるの?」だの「休みの日はなにしてるの」などと私生活にも口出ししてきて煩かったが、大抵気さくで人がよかったし、息子や弟のように扱われるのも案外嫌ではなかった。それだけではない楽しみが、足を向けさせたといっていい。彼女と、ひとことふたことでも話が出来た。彼女の声のトーンは、自分の耳に心地よかったから。
あれは三年ぐらい経った頃だろうか。
ある時通路の陰から《彼女》の声がし、思わず立ち止まってしまったことがある。穏やかな声に不思議な遠慮が含まれ、誰かと難しい話をしているのが感じ取れたからだ。
「……単純作業と思って、ちょ~っと軽く見てるんじゃないかなあ? ……どんな仕事でも、責任、っていうのがあるよね……」
彼女は役職名は付いていないものの、下は十六歳から上は六十歳近いものまで、幅広い年齢の人間を相手に先輩として作業工程を指導する立場だ。面白くない顔をしてあらぬほうを向いているのは、中途入社してきた二十歳ぐらいの女の子だった。田舎には稀な、スタイリッシュな容貌をしている。
「みんな、手順を変えたり、やりやすい配置にしたりして作業しやすくしているの。慣れるだけじゃなくて、工夫しているのね。」
「つまりあなたは、こんな仕事してても自分は賢いって言いたいんですよね」
「えー? なんでそうなるのかな」
「あなたは半田付けでも何でも出来て、少しは偉い立場なのかもしれないけど、あんま干渉しないでくれません?」
干渉じゃないだろう。
女の子の声に脅しのような語気が帯び始め、俺は出て行こうかと迷った。
「あ……そ、か。ごめんね、でもおせっかいだと思っても聞いて欲しいの。これはチームワークなのよ。みんなで同じ目標を達成することが必要なの。」
「でも台数一時間六百なんて殺人的過ぎません?」
「やり方変えれば、あなただったらもっと出来るようになるわ……」
「この仕事、好きなんですか」
「荒川さんあのね」
「あたしあなたみたいになりたくないです」
女の子はそう捨て台詞を残し帰ってしまった。
「……どうしたんですか」
ようやく声を掛けると、彼女は力なく鼻で笑った。
「また余計なことしちゃった。」
後から周囲の人に聞いたところによると、その子はあまり仕事に集中せず居眠りもするし、簡単な作業にまわしても適当なことをするとラインのおばさん連中からそうとう苦情が出ていたらしい。
わかってる。彼女は周りの人に「みっちゃんはあたしたちなんかよりもずっとあの子と歳が近いんだから、ちょっと言ってやってよ」などと逆に責められ、また本来なら上司から注意すべきこともしっかり者で面倒見のいい彼女に任せきり、いつだって問題を押し付けられるのだ。人に注意をするのは、難しいものだ。
「最初はすごく意欲がある娘だったのよ。だけど、……つまんなくなっちゃったのね」
「ああ……」
わからないでもなかった。慣れてしまえば、どれも単純作業の繰り返しだからだ。
「彼女システムエンジニアになりたかったんだって。でも家の事情で専門学校を辞めて、給料がいいからここに来たって聞いたわ。」
自然と、話し込む形になった。まだ勤務時間中だったから、誰もいない社員食堂で二人きりになった。彼女が缶コーヒーをおごってくれた。
「ここ、割と定時で帰れるでしょ? だからかなあ、あのこ、夜も勤めてるらしいの。」
夜も勤めてるの? と鸚鵡返しに聞くと、俯き加減にまばたきだけで返事した。
「それも、家の事情?」
「……じゃないかな。だから、疲れてると思うんだ。……」
そんなの本人の自覚が足りないだけじゃないか。
それにあの言い草はなんだよ。
あなたみたいになりたくないって、どういう意味だ。
彼女は誰にだって公平だし丁寧だし、仕事だって正確で手早い。みんな一目置いている。
「――あたしだってここ、ベルトコンベアに振り回されてるだけ、みたいに思って、嫌になることしょっちゅうあるよ。でも、……なんて言ったらいいのかな……なんでもいいから仕事を持つって、それってすごいことだと思うのよ。それにね、仕事して、余計なこと考えずに集中できる時間が好きよ。仕事持っててありがたいと思うことがあるわ。いろいろ考えたくないって時があったりするしね。」
「え、美千子さんも?」
彼女の笑顔に、僅かに陰が差して見えた。日が翳っただけだったかもしれない。
「夕飯何しようかなってこととか、そんな程度だけどね、あはは。」
早口だった。
「でもおばちゃんたちと話するのも好きよ。それにほら。若い男子とこうしてお話しすることも出来るし?」
人差し指で鼻をちょんと突かれ、耳が一瞬熱くなるのを感じる。照れ笑い。
「でもねえ、あのセリフにはまいったなぁ。あ~あ。」
「美千子さんみたいじゃない……って言ったら、どんなふうになりたいんだろう?」
ふふっと笑って目を逸らし、視線を一旦落としてから、彼女は俺を見た。
「そうね。彼女、高橋くんみたいになりたかったんじゃないかな?」
俺?
「仕事してる姿、すっごく楽しそうに見えるよ、ほんと。それって、ちょっとできることじゃないよ。」
※
自分はそのとき、彼女は既に夫も子供もいるということを知っていた。充分理解もしているつもりだった。彼女が二十二歳で結婚したことも、雑談中に聞いた。そして彼女のほうが積極的だったのだということも、方々からよく聞かされた。なぜ当時を知っているのかというと、彼女は以前この近所に住んでいて、夏にはアルバイトに来ていたからだそうだ。なんでも、父親の実家を改築する時設計を依頼したのが出会いだという。向こうはそのとき二十九歳、彼女はまだ高校生。初恋の人と結ばれるなんて幸せ者だ、みっちゃんは努力したんだもんね、と、周りの人は言う。社会人チームを作って野球をしてると聞けば朝早くからお弁当を作って応援に行ったし、マネージャーまで務めた。どこへだって一生懸命ついて歩いてた、と。
初恋。初恋の、相手。
会社に迎えに来た彼女の夫を見たことがある。見た事もない笑顔で駆け寄る彼女の向こうに白の普通乗用車があったのだ。そこから降り立った彼は、スーツ姿の背の高い、男前だがきつい感じのする人だった。浅黒く日焼けした肌。彫りの深いくっきりとした二重の眼が、一瞬こちらを見て笑った気がした。その時に嫉妬した、とでもいうのか。
ただ、あの彼は家に帰った時「ただいま」と言うのだろうか、それとも何も言わず「おう」と声を出すだけなのだろうかと考えていた。彼女はなんと言って迎えるのだろう。あの男はどんなふうに、あの人を抱くのだろう。……
「旦那が結婚してくれなかったら、あたしみたいながさつなの、誰もお嫁にしてくれないよ」
「何言ってんの。みっちゃんは照れ屋さんなだけよ」
「そうそう。好きな人の前では、かわいいのよね」
辺りから冷やかしの笑い声が上がったが、少しも笑えなかったのを思い出す。
「あの時結婚してなかったら、一生ひとりだったろうな」
当時のことを思い出してか、しみじみと彼女が言ったことがある。
だいじょうぶ!
思わず俺は叫んでいた。
「自分がいますから!」
おどけて言う俺に、彼女は眉をきゅっと下げて、苦笑いをしていたものだ。
「高橋くん、そんなこと言っていいの? 自分のファンがいるってこと、忘れないで。」
いませんよ、そんなの。そう言い返す自分に歯がゆさを感じずにいられなかった。そんな気配を察してか、事情通のお局がこんなことを囁いた。あんまり悪戯言っちゃだめよ、あそこのうち、ご主人が色男だからいろいろあって大変なんだから……。
「機械、壊れちゃったぁ~」
と幼い声を出して修理を頼みにきたかと思うと、
「さすがね、ありがとう。」
と、思いがけず深い声で言う。
彼女の《ありがとう》という言葉には、いろんな色がついていた。それは職場のあちこちを彩る、明るいランプのようだった。なぜか彼女を見るだけで浄化される思いがした。立ち働く姿も、その笑顔も、いつだって自分だけに向けられているわけではないというのに。
不思議と充実感が湧いてくる。心臓が暖かくなる。仕事だって、能率が上がるほどだった。遠くからでも、その姿を見つけるだけで今日もがんばろうという気になった。少し話すと、疲れが軽くなった。
彼女は、自分にとって聖域であり精神安定剤でも、あったのだ。
時折、自分の寂しさに付け込むような影があった。忌まわしい妄想を受け止める存在を欲したのも確かだ。まとわりつく影――それは社内の女性だったり、保険の外交で来る年上のひとだったりした。夜の街を出歩くこともあった。
易々とそれらに乗じていたわけではない。だが、彼女から目を逸らすための苦肉の策と――いや。それが《自然》なのだと自分に言い聞かせた。
こんな自分だって恋人が欲しいのだ。
それなら、当然同じ独身を相手にすればいい。でなければ、後腐れなく一夜限りですむ相手を。
身体を愛するのは、心を愛するのと同じだ。
肉体無しに魂が存在しないように。
そう考えたのに、事が終わるとすべてが無になった。その時間の記憶が欠落すると、虚しさだけが澱のように溜まっていった。
自慰のような恋愛遊戯は、自己嫌悪に陥りながら断続的に続いた。
――月日は微かな想いを秘めたまま瞬く間に過ぎ、冷静になって辺りを見渡せば、経済危機が日本全土を覆い始めていた。それは勤め先でも同じだった。素人でもわかるほどに、経営状態も不安定だった。そして自分はよく、夜中に爪を切った。禊をするように。
※
会社が傾き始め、社内の人間達の動揺が、怒りに変わって行った。まず給料からは手当がつかなくなり、次にボーナスが減らされ、無くなった。見切りをつける者も少なくなかったが、社長以下重役達には、みんなの力が必要だ、もう少しがんばって堪えて欲しい、必ず持ち堪えると頭を下げた潔さがあった。そうでなくとも自分は残るつもりだった。親会社に出向、という不安定な立場でも構わなかった。《彼女》がまだ一緒だったからだ。ただ近くにいたかった。声を聞き、働く姿を見たかった。時々話ができればよかった。口下手な自分にはこれと言った話題もなかったけれど、人懐こいあの笑顔が向けられるだけで幸せなのだった。
そんな不安定な中でも、社員同士で「お花見」をすることになった。この土地の花見は、四月半ばぐらいが見ごろになる。遠い故郷の桜は、五月に入ってからだ。
公園は、同じような会社帰りの見物客でいっぱいだった。桜の木々には眠りを誘うような暗い橙色した電球が飾られ、辺りは茫洋とした花霞の中にあった。ふいに、自分の視界が狭くなったかのような錯覚を起こした。周りのざわめきが遠くに聞こえる。
この数ヶ月、自分の思考は行きつ戻りつしていた。
この会社はもう駄目だろう。潮時だ。
だがその先どうしたいのか、考えられない。
「おい、珍しいところで会うなあ!」
バンと大きく背中を叩かれ、見上げると大学時代の先輩が立っていた。大柄な体格に見合った、磊落な笑いをする男だ。あらいい男ねえ、などとおばさんたちの野次が飛ぶ。いやせっかくどうも、うちらと合コンしませんか、などと彼はやり手の営業マンらしく如才なく振舞う。
「しかし高橋、お前んとこの会社相当大変なんだろ? ……いよいよ、ってところらしいじゃないか」
先輩は、そこはさすがに小声で話しかけてきた。こちらは頷くしかない。
彼はいきなり、こう切り出した。いたって無邪気に。
「お前見ると、おふくろさん思い出すなあ。お前のアパートで手打ちうどんをご馳走になった。あれはうまかったな。そっくりな顔で笑うのな。美人でいいなーってあん時言ったっけ。どうだいおふくろさん元気? ちゃんと実家に帰ってあげてるのか」
即答には詰まった。
知人に会った時用のうまい言い方なんて、ありはしないのに。
「――先輩。母は、もう、この世にはいません。」
口に出したら、白々しい感じになった。
三ケ月目にしてして初めて、母の死を自覚した気がした。
「――まじで……?」
彼の顔が曖昧に歪んだ。
「どこか具合が悪かったのか」
「いえ、交通事故です」
ああ、と、彼は短くため息をついた。
「……ずっと離れて暮らしてたから、実感できないって言うか。……帰ったらちゃんと家にいそうな、まだ生きてるみたいな気が、俺自身、してますよ」
言い訳がましいことを言ってしまった。
先輩は黙ったまま頷いた。どう言ったらいいのかわからないのは、お互い様だ。俺自身、周りの人に詳しく言っていなかったし、葬儀は故郷の小樽で行われたが、仕事を理由に初七日までいず、五日で帰ってきた。父の悲しみから目を逸らすために。なにより自分の悲しみから逃れるために。
「……なあ。久々に会ったんだしさ、この後俺たちと一緒に飲みに行かないか?」
気を使って言ってくれているのは、よくわかった。
「いや、今日は……また、今度。」
いかにもおばさんたちの世話があるような顔をして断った。
電燈は夜桜の中で赤々と燃えている。
扇情的とも言える色をした明かりの中で、人々は陽気に笑い酒を酌み交わしている。密かに見詰め合う微動だにしないカップル、茣蓙の上で寝転ぶ老人、神妙な顔つきで桜を眺める小さな子ども。不ぞろいな拍手があちこちから沸き、節なしの歌がおぼろげに聞こえてくる。
ワァッ……! 嬌声が上がり、白い花びらがいっせいに辺りを覆った。酔客が木に登って枝を揺すったのだ。
《桜の下には死体が埋まっている》
母の書棚から借りた本に、そんな一文が載っていた。不意に苦々しい感情がこみ上げ、煙草を取り出す。本を読んだのは中学生の頃だ。思春期の頃、桜の根本に自分の思う美しい女性を連想して妖しい妄想にふけるのはよくあることだろうが、自分の場合、それは母親の姿だった。母は殊に桜の木を丹精していた。今にして思えば、母は自分から家に閉じこもっていたのかもしれないと思う。自らあの庭に囚われの身となっていたような。それほど庭を愛していた。
夜中に爪なんか切るからだ。
満開の桜を見上げてみる。それは一人歩きの夜星空を見上げるのと同じ、その行為に意味を見出すことはない。生きているうちは、自分の人生を当てのない旅に出るようなものと考えるのと似ている。生きているかぎりただ生きればいい。それしかないし、それしかできない気がする。母を思い出すと。ほら、北斗七星よ。あの七つの星を繋ぐと、柄杓の形になるの。その持ち手の線に沿って弧を描くようにして見ていくと、あの赤いのが牛飼いのアルクトゥルス。そしてまたずっと行くと、青いのが乙女座のスピカ。あなたの星よ。
――いつのまにか、人の輪から外れてしまったらしい。離れ小島のようにぽつねんとしている自分がいた。
高橋くん。
呼びかけられても、自分のことと思わなかった。彼女だった。
「さっき、話聞こえちゃった。お正月休みとばかり思って軽口叩いちゃったわね。ごめんなさい」
想い出に浸っていたせいもあって、かすれた様な受け答えしかできなかった。二人目をあわすでもなくまた当てもなく木々を仰ぎ見た。なんとなく気恥ずかしい気持ちがした。
「ね、桜の花って、正面から見ると真ん中の部分が星みたいな形してない?」
「ああ。……ほんとだ。」
彼女は手に届きそうな枝に手を伸ばし、花びらを摘んだ。枝の先を指先でつかみ、揺らした。花びらがはらはらと零れ散り、舞い去る。
「……こういうことしたら、怒る?」
「え? 俺は特に別になんとも、……ああ、……女の人は花吹雪って、好きですよね。」
これをやったらね、旦那に叱られたの、と、彼女は肩をすぼめた。
「高橋くん。あたしそろそろ帰るわ。」
煙草を地べたに押し付けて、紙皿に捨てた。
まだ八時じゃないですか。
言った後で、彼女の家族を思い出す。確か子どもは、小学二年生だったはずだ。
「お子さん、ご主人が見ててくれるんでしょう?」
親に預けてきたの、と言って、それじゃあと去ろうとする彼女の手を、思わず掴んだ。様子が変だと思ったからだ。
「痛……っ」
小さい叫び声に握りこんだ手を見遣ると、甲に赤い筋が短くついていた。
「ごめん、爪を切ったばかりで……」
「ふふっ、――男の人ってたいていそうよね。やすりをかけたりしないでしょ。うちもそうだもん。」
うちもそうだもん、か、……。
彼女の手は、それでもまだ自分の手の中にあった。
「……痛い?」
「痛いわよ、まったくもう。」
彼女の声が甘く響いて耳の奥をくすぐり、その瞬間自分は小さな傷にくちづけをしていた。舌の先から微かに血の味が広がった。
反射的に引こうとした細い手が、少女のように震えた。
「……離して。人が見るわ」
そう言って向けられたまなざしは、夜目にも潤んだように輝いて見えた。その瞳の意味を測りかねて、自分もまた彼女の眼をじっと見つめた。
《いいのか。
いやなのか。》
軽い酔いも手伝ってか、多少大胆になっていた。もうほとんど口紅もついていない唇は裸のように無防備だったし、なにより彼女は強く拒まなかったのだ。
――告白の手順もなしに、彼女と一線を越えた。それが彼女のやさしさだと考えて。
※
花見の後は、いつも淋しい気分になる。祭りの後の、ゴミばかりがあふれる何事もなかったかのような空虚な雰囲気が嫌いだった。
だが自分自身何食わぬ顔で出社して、彼女とのことなど初めからなかった時間の続きのように仕事をしている。罪悪感のかけらもないと言ったら嘘になるが、あの夜二人は確かに相思相愛だったのだ。互いに求め合ったのであって、決して無理強いしたわけではない。――
そんなふうにうだうだと考えて、幾日かが過ぎた。
出向先からとりあえず自社に戻って、従業員の少なさに驚いた。なにより、彼女の姿がなかった。
「随分ラインも減ったんだね」
と、作業する同僚に声を掛けた。
「ウン。……俺らもうかうかしてらんないぜ。」
できるだけさりげないように聞いてみる。
「――美千子さんも、見えないけど?」
同僚が、あれ? と弾かれたように振り向く。不吉な感じが胸元を過ぎった。
「こないだのお花見の日が、美千子さんの退職した日だったんだよ。あの日からもう、会社には来てないんだよ」
何で知らなかったんだい? という声が、無情に響いた。
今度いつ会うか、とも言わなかった。
いつかまた、とも、聞かなかった。
「こんな仕事なんか、長く続けるようなもんじゃないよ、女の人は。キャリアになるわけじゃなし、使い捨てだよ。」
つまらなそうに話してはいるが、その手は軽やかに基板を操り、瞬く間に次々と検査器具に掛けていく。その動作は、彼女の姿と重なって見えた。
《こんな仕事》、じゃないよ。
《こんな仕事なんか》、じゃないよ。
「なあ。……この仕事、好きか?」
同僚に尋ねてみる。
「う~ん、好きって言うより、もうこれしか出来ないって感じ? 惰性だよ惰性。」
お前はどうなんだ?と聞かれ、俺は少しばかり考えた。
「そうだな、悪くない」
「ははっ、なにそれ。好きか嫌いかって言ってんのに。」
「じゃあ、好きだ。」
ずっと前、彼女が女の子から言われた言葉が何を意味するのか、そのとき判ったような気がした。
『あたしあなたみたいになりたくないです』
……俺は偽善者だから、な。ここが沈んでいく様を、もうしばらく見ていられるさ。
※ ※ ※ ※ ※
彼女は夫の転勤で、既にこの地を去っていた。会うことはあるまい。
※ ※ ※ ※ ※
――夜中に、爪を切った。親の死に目に会えないと知りながら。
切った後、自分はやすりなどかけない。だからしょっちゅう、自分のことも傷つけた。これからもおそらく、ずっと。