貴方に花を
2月14日。
人間たちの言う「聖ヴァレンティナの日」は、魔界においても祝日となっている。
聖王ヴィヴィアンの時代。混沌たる戦乱が続く中で一組の人間の恋人たちに、後に悲劇の第五師団と呼ばれる魔人混成部隊の隊長が交わした休戦の約束。
その場面と顛末については、現在でも良く劇の題材に取り上げられており、魔界では子供でも知っている故事である。
そしてまたその故事に因んで、魔族の間では親しい間柄の者同士が互いに花を贈り合う風習がある。
親子で贈る場合。友人同士で贈る場合。或いはその地の領主に領民から贈る場合と間柄は様々だが、一番華やぐのは恋人同士による花の交わし合いだろう。
そういう訳で、ヴァンパイアの若き貴公子ヴィスカスは、その日朝早くから庭に降りて、庭師と相談しながら手ずから花を摘もうとしていた。
何よりも美を尊ぶ気風のあるヴァンパイアの主家の庭らしく、彼の庭園は年中美しく整えられており、この時期でも選ぶ花には事欠かない。
なお、正門の庭園はこの日だけ一般公開されており、多くの家族連れや恋人たちで賑わっているが、彼が今いるのは離宮の内庭、彼の家族たちのみの為に作られたプライベートな空間だった。
「坊ちゃま、こちらは如何でございましょう。」
庭師が白の一重咲の薔薇を示すと、ヴィスカスは真剣な顔でその香りを確認し、花弁の色つや、形などを吟味してから頷く。
「うむ、これにしよう。」
「かしこまりました。」
勿体ぶって頷く少年の様子を笑うことなく、庭師はその熟練した技術が窺える手つきで薔薇を切り取り、ヴィスカスの手に差し出す。
それを慎重に受け取り、ヴィスカスは口の中で小さく呪文を唱えてからそっと花へ息を吹きかける。
すると、薄い薄い無色透明の結晶の膜が花の切り口を覆い、茎に絡み、ヴェールのような蝶結びの形が出来上がった。
その繊細かつ華麗な魔法に、滅多なことでは騒がない庭師の口から感嘆の溜息がこぼれる。
「素晴らしい……さすがは坊ちゃま、美しい魔法です。それを渡される方は、この世界でもっとも幸福なお方となるでしょう。」
「……うん。い、いや、えっと、そうだな。当然であろう。」
素で頷きかけ、慌てて父親の口調を真似た尊大な口調を作るヴィスカスを庭師は密かな微笑ましさをもって見つめる。
この幼い次期当主が何年も前から、同じ相手に花を贈り続けていることは、使用人たちの中でも公然の秘密だった。
その正体については当の少年が母親や妹にさえ頑として語らずに居るため不明だが、彼の父親であるヴァンパイア当主がほのめかす内容から今のところ、やんごとない身分の、白薔薇が似合う妙齢の未亡人ではないかとの推測がされている。
当初こそ「当家の若君のご厚意を無為にするなどけしからん。」と、交際に否定的だった使用人も少なくは無かったが、振られても追い返されても一途に通い続ける若君のいじらしさと、若君の報告の端々から伝わってくる「お相手」の初心な少女めいた困惑に、否定派も最終的にほだされてしまい、今ではこの庭師のように陰に日なたに、幼い坊ちゃまの恋心を応援している。
そんな使用人たちのひそやかな応援にまだ気づけるほどには成長していない「坊ちゃま」は、今は目の前の用意した花に夢中のご様子。
矯めつ眇めつ、角度を変えて何回もリボンの出来栄えと花のバランスを確認し、ようやく納得がいったのか大きく息を吐き出した。
「良し。では僕、ゴホン、我は、少し出かけてくる。夕刻には戻ると母上に伝えておけ。」
「は、かしこまりました。お気をつけていってらっしゃいませ。」
「うむ!」
バサリ、と背中の翼を広げて宙に浮きあがり、喜び勇んで飛び立とうとしたところでヴィスカスはハッとした顔で庭師を振り返った。
「おい貴様。」
「何でございましょう、坊ちゃま。」
「僕の姿はちゃんと美しいか。」
パタパタと手で髪やコートを整え、顔を赤くして叫んだ若君に、庭師は皺深い顔を思わず笑みこぼれさせて恭しく首を垂れる。
「勿論でございます。ヴァンパイアの名にふさわしく、今日の坊ちゃまも高貴でお美しくいらっしゃいます。」
「そうか、なら良いのだ。」
ふふん、と得意げに頷き、再び飛び立つ姿勢に戻った若君は、何故かもう一度振り返り、「おい、貴様。」とまた声をかけた。
それに庭師は「はい、何でございましょう。」とかすかな緊張と共に応える。
しかし、
「今日は貴様のおかげで、我が君に捧げるにふさわしい花が手に入った。その働き、褒めてやる。」
「……。勿体ないお言葉、光栄でございます。」
今まで一度も耳にしたことのない言葉に、庭師は驚きながらも感激し、ますます深く頭を下げた。
その庭師の反応に、空中でホバリングしながらヴィスカスはちょっと顔を赤らめ、「実はな。」と嬉しそうに牙を見せて笑う。
「親しい相手には、機を見て礼を言うのが立派な主というものだと、我が君が仰っていたのだ。」
「……親しい相手、でございますか。」
「そうだ。貴様には何度も我が君への花を選ぶのを手伝わせてやっているからな。親しいだろう。……もしかして、僕は間違ってるのか?」
最後は少し不安げになった若君に、良く出来た庭師はいいえとすぐにフォローの言葉をいれる。
「坊ちゃまの親しき者としてお言葉を戴き、真に光栄でございます。」
「うむ。どうだ、感謝の心を忘れない僕は立派だろう!」
「はい、ご立派でございます。」
「もっと褒めるが良い!」
「坊ちゃまの大変お美しいお心遣い、感激いたしました。」
「そうだろう! そうだろう!」
得意げに羽ばたきを繰り返し、満足したのか若君は「では、今度こそ行ってくる。」と言葉を残し、空高く舞い上がっていった。
その後ろ姿を、空の彼方の点になるまで、庭師は恭しく頭を下げたまま見守ったのだった。
「陛下、ヴィスカス様が参られたようです。」
「またか。」
報執務室で会計報告に目を通していた王は、溜息交じりにこめかみを押さえた。
疲れを隠せない王の様子に、その報告をもたらした近衛がひっそりと笑う。
「窓から入ってこなくなられただけ、進歩なさったのでは?」
「まぁ、そうだな……それで、今どこに。」
「既に部屋の前までいらっしゃってます。お通ししますか?」
「……仕方ない、通せ。」
「かしこまりました。」
「待っていたぞ!」
執務室の扉を開くなり、勢い込んで入って来たヴァンパイアの奇行――貴公子ヴィスカスに、王の疲労度合いがさらに上がる。
「パルヴス……あまりここへ来てはいけないと言っただろう。」
「案ずるな、僕がここに来ることは皆承知の上だ。」
「私は承知した覚えはないのだがな。」
ふぅと吐き出す息も色っぽく、王は「それで、」と憂わし気な流し目を、そわそわと後ろ手に花を隠している少年へ向ける。
「花など持って、どうかしたのか。」
「!」
「陛下……そこは気づかぬふりをなさるべきだったかと。」
「そうなのか?」
サッと顔を輝かせ、子犬のようにぶんぶんと尻尾を振り始めたヴィスカスに、王は困った顔で近衛に振り返る。
その顔に思わず庇護欲をそそられそうになるが、心を鬼にして、近衛は良い笑顔で頷いてみせた。
「お気づきにならぬのならば、そのまま流すこともできましたが……陛下御自身が仰ってしまわれた以上、ヴィスカス様よりお受けになるより他に選択肢はございません。」
「しかし、」
「ヴァレンティナの花というのは、そういうものにございます。」
余計なことまで口になさった陛下の自業自得でございます、と言外に告げる近衛に、王はしょんぼりしながら目の前に控えるヴァンパイアの若君に目を向け直す。
期待と恋心に輝く、幼い真紅の瞳がそこにあった。
「……パルヴス。」
「何だ!」
「……その、花だが。」
「うむ! 貴様、じゃなくて……そなたのために僕が用意してやったのだ!」
「そ、そうか……。」
「そうだ! どうだ、嬉しかろう!」
「……。」
振り返り、目で助けを訴えた主を背後の近衛は笑顔のまま無言で却下する。
自分で蒔いた種は自分で刈り取りなさい、という教育方針は今日も健在だ。
優しくも厳しい近衛の教育に、王はしおしおと耳を落として前に向きなおり、悩んだ末ようやっと口を開いた。
「正直、扱いに困るのだが……。」
あまりにストレートな王の言い草に、背後の近衛が溜息を吐いて掌で顔を覆い、ヴァンパイアの若君は花を差し出す姿勢のまま凍り付いた。
その真紅の双眸に、みるみるうちに涙が盛り上がってゆく。
「ぼ、僕の気持ちは……迷惑なのかっ?!」
「パルヴス……。」
それでも涙をこぼすまいと唇を引き結んで、震えながら悲痛な声で問いかけた幼子の姿に今度は王のほうが慌てる。
近衛は背後でやれやれと肩をすくめて首を振るばかりだ。
これはひどい。
今にも泣きだしそうな少年を前に、王はしばらくおろおろと対処に困っていたが、やがて、ゆっくりと椅子から立ち上がった。そして背後の近衛を軽い身振りで制し、震えている少年の前まで静かに歩み寄ると、そっと視線を合わせるようにしゃがみこんだ。
しゃらり、と長い黒髪が床の上に渦を巻いて零れ落ちる。
「パルヴス。よく聞いておくれ。私は……私は、誰とも番うことができない。それはお前相手でも変わらない。お前がどれほど私を欲しようとも、その思いにこたえることはけっして無い。」
「どっ……どうしても、なのかっ? ぼ、僕では、不足かっ?」
「そうではない。」
ならばどうして。
言いかけ、ヴィスカスは目の前の麗人の悲しげな顔に言葉を飲み込む。
ヴィスカスは幼い。
だが、美しい人にそんな顔をさせている原因が自分だと気づかないほど幼くは無かった。
自分のやっていることは扱いに困ることだと言われて悲しい。
けれども、この人に悲しい顔を指せるのはもっと嫌だ。
「すまない、パルヴス。」
聡い幼子が口をつぐんだ様子に紫眼を一度伏せ、王は憂いを帯びた顔に微笑みを浮かべ直すと、白い両手で差し出された花ごとヴィスカスの手を包んだ。
触れるか触れないかの優しい感触に、涙を堪えていた少年はハッと顔を上げる。
「お前の心はとても貴重なものだ。とても、得難いものだ。けれども、私はお前に応えることはできない。良い子だから、どうか聞き分けてくれ。」
「……。」
「パルヴス。」
なだめるように、縋るように、請うように優しく呼ばれ、ヴィスカスは幼心に卑怯だとともう。
こんな風に呼ばれては、逆らえない。
好きだから。
好きになった人だから。
この人ただ一人と決めた相手だから。
言いたい言葉を飲み込み、ヴィスカスは代わりに「それならば、」と王のきれいな顔を見つめる。
「これを、受け取れ。」
「ん?」
「ぼ、我の気持ちだ。」
んっ、と差し出されて王が困った顔をする。
しかしヴィスカスは引き下がらない。
「貴様の為に摘んだのだ。僕の、我の心を貴重だと言ったではないか。」
「確かにそう言いはしたが、私は、」
「今は受け取るだけで良い。」
ここで引いてなるものか。
ヴィスカスは両目に溜まっていた涙をハンカチで拭い、普段の自信たっぷりな笑みを強いて作り直す。
「見返りまでは求めない。いつか、貴様が我に渡したいと思うその時まで待ってやる。僕は、寛大だからな!」
「……永遠に返せぬとしてもか。」
「ふん、僕を見くびるなよ。」
まだ少し涙がにじむ目で、しかし精一杯胸を張り、少年は堂々と言い放つ。
「我は気高く美しきヴァンパイアの次期当主だぞ。一度決めた約は違えないし、番と見初めた相手に女々しく文句を言うこともしない。」
「しかし、」
「陛下。そこまでになさいませ。」
まだ渋る王に終止符を打ったのは、背後に控えていた近衛だった。
「ヴィスカス様の勝ちです。これ以上の拒否は無粋でございます。」
「……、そうか。」
ふっと溜息を吐いて、王は苦笑すると改めて目の前の貴公子を見つめ直した。
そして小さく首を傾げ、手を差し出す。
「貰えないか。」
「うむ。あなたに花を。」
小さな手から細やかな手へ。
渡された花から立ち上る香りに王は思わず微笑み、少年の耳元に唇を寄せ、
「ありがとう……それと、素敵なリボンだ。」
「っ?! ぼぼぼぼぼくは帰るぞ!」
「ん? そうか。気をつけて帰りなさい。寄り道はしないようにな。」
「煩い! 僕は子供じゃない!」
「ああ、窓からでるのは止め……行ってしまったか。」
「あれ程に慌てる用事があるならば、先に言ってくれれば良かったものを。」と、真っ赤な顔でよろよろと飛んで行った少年の後ろ姿にきょとりと首をひねった主人を見て、近衛は「本気で仰っていますか?」と半眼になるのだった。