第8.5話
ノール村を出発して二日目。
カナンへの旅路も中盤に差し掛かった頃、私たちは街道沿いの少し開けた場所で昼食休憩を取ることにした。
「ハルちゃん、休憩用の火、これで大丈夫ですか?」
ミリアが私の顔を覗き込みながら、集めてきた枯れ枝で火を起こしていた。
その手つきは、もうすっかり慣れたものだ。
「うん。……火の魔法、ほんとに上手くなったね」
「えへへ……ハルちゃんにそう言ってもらえると嬉しいです」
ミリアは少し照れくさそうに微笑んだ。
村にいたときもそうだが、彼女は移動中も、休憩中も、驚くほど熱心に魔法の練習に取り組んでいる。
彼女には二つの魔法の素養がある。
火と、地。
けれど、地の魔法に関しては、移動の忙しさもあってまだ本格的に試していなかった。
「ねえ、ミリア。火の魔法もだいぶ慣れてきたし、今日はもう一つの属性……『地』の感覚も試してみない?」
「地……土の魔法、ですか?」
焚き火の煙を手で払いながら、ミリアが小首を傾げる。
「そう。ミリアには火のほかに、地属性の素養も強く感じるんだ。火が『変える力』だとしたら、地は『支える力』。……この広い大地と繋がって、どっしりと構える感覚」
私は地面に座り込み、掌を土に触れさせた。
魔力を通すと、地中の水分や砂利の動きが、血管を流れる血の音のように伝わってくる。
「いい? 足の裏から、地面の鼓動を感じるようにイメージしてみて。この大地はすごく大きくて、私たちをずっと支えてくれてる。その力を、ほんの少しだけ借りて、形にするの」
「……私を支える、大地……」
ミリアは私の言葉を繰り返しながら、ゆっくりと目を閉じた。
彼女は胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、足元の大地に意識を向ける。
……けれど、火の魔法の時とは違い、なかなか変化は起きない。
地面はただ固く、動かざるものとして彼女の前に立ちはだかっているようだった。
「難しい、です……。火は熱くて動いている感じがしたんですけど、土は……すごく静かで、どうお願いしていいのか……」
「焦らなくていいよ。きっと時間をかけて覚えていくものだと思うし。……あ、お昼の準備しようか。お腹が空いてちゃ、精霊さんも力を貸してくれないかも」
私が場を和ませようと明るく声をかけた、その時だった。
「――キィッ、キィーッ!!」
街道脇の背の高い茂みが、不自然に大きく揺れた。
直後、そこから飛び出してきたのは、普通のネズミを何十倍にも巨大化させたような、得体の知れない生き物だった。
体長は五十センチほどだろうか。
剥き出しになった前歯はナイフのように鋭く、赤い瞳には飢えたような凶暴性が宿っている。
それが二匹、三匹と、次々に藪から姿を現した。
「えっ……大ネズミ!? どうして、こんな昼間に……!」
ミリアが息を呑む。
どうやら『大ネズミ』と呼ばれる魔物らしい。
三匹の大ネズミは、私たちの食料の匂いにつられたのか、喉を鳴らしながら獲物を見定めるようにじりじりと距離を詰めてくる。
「ハルちゃん、下がってください! 私が……私が追い払います!」
ミリアが私の前に飛び出し、両手を胸の前に構えた。
彼女の指先は恐怖で震えている。
それでも私を守ろうとするその背中に、私は魔法で手出しするのを一瞬だけ躊躇った。
彼女の成長を、信じてみたい。
……もちろん、危なくなったらすぐに助ける準備はしておく。
「火の精霊さん…力を貸して…。炎よ……燃えてっ!」
ミリアが放った小さな火球が、大ネズミの一匹を掠める。
ジュッ、と毛が焦げる音がしたけれど、巨大な鼠を退かせるには至らなかった。
逆に、自分たちが攻撃されたことを悟った怪物たちは、一斉に姿勢を低くして戦闘態勢に入る。
「ギィッ!!」
先頭の一匹が、バネのように勢いよく跳躍した。
狙いはミリアだ。
イメージするのは範囲を吹き飛ばす豪風……。
私はすぐに魔法を放てるよう、指先に魔力を集めた。
「ミリア!」
「――ダメっ! ハルちゃんには、指一本触れさせない……!!」
ミリアの叫びが、空気を震わせた。
彼女は避けることもせず、両手を突き出し、地面を強く踏みしめる。
次の瞬間。
大地の「支える力」が、彼女の献身的な想いに呼応した。
――ズズズンッ!!
凄まじい衝撃音と共に、ミリアの足元から扇状に、厚い土の壁がせり上がった。
空中で体当たりを仕掛けていた大ネズミは、出現したばかりの強固な壁にまともに激突し、地面に転がった。
「ギィィィ!!」
ミリアはさらに魔力を流し込む。
壁は横に広がり、残りの二匹を物理的に弾き飛ばした。
大ネズミたちは本能的な恐怖を感じたのだろう。
壁に激突してふらついていたリーダー格は、悔しげに鳴き声を上げると、残りの二匹を促すように藪の奥へと逃げ帰っていった。
……静寂が戻る。
ふぅ……私も準備していた魔法のイメージを霧散させる。
そこに残されたのは、急造された土の防壁と、両手を突き出したまま肩で息をするミリアの姿だけだった。
「……出、た……? 私、守れたの……?」
「うん! ミリア……出来たんだよ! 完全に『地の壁』が出来上がってる」
私が駆け寄ると、ミリアは力が抜けたようにへなへなとその場に座り込んでしまった。
彼女の手はまだ少し震えていたけれど、その瞳には自分でも信じられないというような驚きと、それ以上の喜びが満ちていた。
「出ました……。私……本当に、ハルちゃんを守る魔法が使えた……!」
「うん! 格好よかったよ、ミリア」
私は彼女の、泥で少し汚れたその手を優しく包み込んだ。
彼女の献身が形になった瞬間を目の当たりにして、私の胸も熱くなる。
よし、お祝いだ。
私はポーチから、いつもより少し大きめの、香ばしいアーモンドが入った特別なチョコを取り出した。
銀紙を剥くと、甘く香ばしい香りが周囲の緊張感を溶かしていく。
「はい、あーん!」
「あ、あーん……。……ふふ、甘いです」
ミリアは幸せそうに目を細め、チョコの甘さを噛みしめた。
カリッ、とアーモンドを噛む音が響く。
頬に少しだけ土が付いているけれど、今の彼女はノール村の女の子ではなく、もう立派な魔法使いだ。
「ハルちゃん。私、もっともっとこの魔法を練習します。もっと色んなことができるようになりたいです!」
「うん。楽しみにしてるよ!」
私は笑顔で頷き、それから少しだけ真面目な顔を作って、彼女の目を見つめた。
「でも、あんまり無理して、ミリアが傷つくのは嫌だよ? 私が守る隙も、残しておいてね」
そう言ってウィンクをすると、彼女の頬に付いた土を指先で優しく拭ってあげる。
「……っ! もう、ハルちゃんは……。さらっとそういうこと言うんですから……」
ミリアは頬を真っ赤にして、私から視線を逸らした。
目のやり場に困ったようにきょろきょろとした後、彼女は慌てて立ち上がる。
「さ、さぁ、お昼の準備、しちゃわないと!」
照れ隠しのように声を張り上げ、ミリアはパタパタとカゴの方へ駆けていく。
その背中は先ほどまでの頼もしい姿とは打って変わって、年相応の少女の愛らしさに満ちていた。
カナンへの道中、二日目。
ミリアの中に芽生えた大地の力は、私たちの絆をより一層、強く確かなものにしてくれた気がした。




