第8話
ノール村を旅立ってから、数時間が経過した。
振り返っても、もう村のシンボルだった機織り小屋の煙突は見えない。
視界を占めるのは、どこまでも続く緩やかな緑の丘陵と、街道沿いに点在する名もなき木々の群生だけだ。
日本にいた頃の「移動」といえば、電車やバスに揺られ、スマホの画面を眺めているうちに目的地に着くのが当たり前だった。
けれど、この世界での旅は違う。
自分の足で一歩ずつ、大地を踏みしめて進んで行くのが基本だ。
湿った土の匂い。
風が運んでくる若草の香り。
そして二人で鳴らす足音。
それらすべてが、私に「本当に旅をしているんだ」という実感を与えてくれる。
「ハルちゃん、足は痛くないですか? 少し休憩しましょうか」
隣を歩くミリアが、私の顔を覗き込み、心配そうに声をかけてきた。
彼女の背中には、村のみんなからの贈り物が詰まった大きなカゴがある。
それなのに、その足取りは驚くほど軽やかだ。日々の生活で鍛えられていたのだろう。
それに比べて私は、魔法の能力で身体強化されているはずなんだけど……。
慣れない長距離歩行に、少しだけ肩が凝り始めていた。
「大丈夫だよ、ミリア。……でも、せっかくだからあそこの木陰で少し休もうか」
街道から少し外れた、立派な枝ぶりの巨木の下へ移動する。
腰を下ろすと、草のひんやりとした感触がお尻に心地いい。
ミリアは手際よくカゴを下ろし、革の水筒を取り出して私に差し出してくれた。
「はい、どうぞ。ノール村の湧き水です。冷たくて美味しいですよ」
「ありがとう。……ん、んっ、ぷはぁ、生き返るなぁ」
たっぷりと喉を潤すと、身体の芯まで潤っていくのがわかった。
ノール村の湧き水はほんのり甘みがある感じがして、冗談抜きに美味しい!
隣に座ったミリアは、私の飲みっぷりを見て「ふふっ」と楽しそうに笑っている。
「ハルちゃんって、ときどき、すごく美味しそうに水を飲みますよね。見ているこっちまで、幸せな気分になっちゃいます」
「え、そうかな? なんだか恥ずかしいな……」
「いいえ、それが素敵だなって。ハルちゃんは、何に対しても真っ直ぐですから」
ミリアの真っ直ぐな視線に、私は少しだけ照れくさくなる。
話題を逸らすように、腰のポーチからチョコレートを取り出し、口に放り込んだ。
「……あ、魔法のチョコ。今日の一粒ですね」
「うん。ミリアも、はい、あーん」
銀紙を剥き、一口サイズのミルクチョコを彼女の唇に寄せる。
ミリアは一瞬だけ驚いたように目を見開いたけれど、すぐに蕩けるような甘い表情になり、ぱくりとそれを受け取った。
私の指先が、彼女の柔らかく湿った唇にちゅっと触れる。
何故だかちょっとドキドキしてしまう。
彼女はそれに気づいているのかいないのか、その甘さを堪能するように、もぐもぐと頬を動かしている。
リスみたいで可愛い。
「……んぅ……やっぱり、最高です。ハルちゃんのチョコを食べると、元気が湧いてきます」
「でしょ! 魔法のチョコだからね」
そう言ってウィンクをする。
「こうして二人でのんびりしていると、なんだかピクニックに来たみたいで楽しいね」
「ピクニック……ですか? でも確かに、とってもワクワクするし、私も楽しいです」
「それもこれも、隣にミリアがいるからかな」
「……もう、ハルちゃんったら。またすぐそうやって……」
ミリアはわざとらしく唇を尖らせてみせたが、ほんのり赤く染まった頬はその喜びを隠しきれていなかった。
うん、可愛さ二倍増しだ。
鼻をくすぐるカカオの芳醇な香りと、頬を撫でる柔らかな風。
心地よい大自然の空気を肌で感じながら、私たちはしばらくの間、他愛のない会話をして楽しんだ。
◇
休憩を終えてからしばらく歩み進め、空が茜色から深い藍色へと変わり始めた頃。
私たちは街道から少し離れた、木々がまばらに生える雑木林の中に、ちょうどいいスペースを見つけた。
異世界での初めての野宿。
右も左もわからない私と違って、ミリアは驚くほどテキパキと動き出した。
「私は薪を集めてきますね。ハルちゃんは、魔法でこの周りの草を少しだけ平らにしておいてもらえますか?」
「了解! 風さんにお願いして、ふかふかのベッドにするね」
私は地の魔法を使って、地面の凹凸を均し、簡単な椅子を作る。
次は風の魔法で、近くの草を集めてベッド替わりのクッションを作った。
しばらくすると、ミリアは乾燥した枝を抱えて戻ってきた。
石を組み合わせて火床を作り、集めた枝を組む。
「……よし。ハルちゃん、見ててくださいね。修行の成果、見せちゃいますから」
ミリアはそう言って、火床の前に膝をつき、両手をそっと前に広げた。
彼女は精神を統一するようにゆっくりと目を閉じる。
温かい魔力が、彼女の指先に集まっていくのが見えた。
「火の精霊さん、お願い……。力を貸して……」
ミリアが手のひらをかざすと、小さな、けれど力強い火球が薪の隙間へと飛び込んだ。
ボォッ!
一瞬の沈黙の後、乾いた枝に鮮やかなオレンジ色の炎が宿る。
それは瞬く間に大きな火へと育ち、辺りの深い闇を力強く押し返していった。
「わあ、すごいよミリア! こんなに上手く魔法を使えるようになったなんて」
「えへへ、やりました! ハルちゃんに頼りっぱなしじゃなくて、ちゃんと自分でもやりたかったんです」
揺れる火影に照らされたミリアの笑顔は、誇らしげで、とても眩しかった。
「次は夕飯ですね。今夜は村の人からいただいたパンと、お母さんが持たせてくれた干し肉、道中で摘んだ香草のスープにしましょう」
「いいね、楽しみ! あ、お鍋に入れる水は私が用意するね」
「はい、お願いします」
私が小さな鍋に魔法で水を注ぐと、ミリアは手慣れた手つきで調理を始めた。
グツグツと鍋が煮立つ音。
やがて、香ばしい肉の匂いと、爽やかなハーブの香りが漂ってくる。
用意された木の器に、熱々のスープが注がれる。
「どうぞ、ハルちゃん。熱いので気をつけてくださいね」
「いただきます。……ふー、ふー……んっ! 美味しい!」
じゅわっと広がる干し肉の旨味と、野菜の甘み。
疲れた体に、熱いスープが染み渡っていく。
「ミリアの料理は、やっぱり魔法みたいだね。食べてるとすごく安心する」
「もう、ハルちゃんったら。お世辞が上手なんだから」
ミリアは照れくさそうに笑いながら、自分の分を食べ始めた。
焚き火を囲んで食事をしていると、いつの間にかあたりはすっかり夜の闇に包まれていた。
ふと見上げれば頭上には、宝石箱をひっくり返したような満天の星空が広がっている。
パチッ、パチッという薪の爆ぜる音だけが、静寂な夜に響く。
食後の片付けを終えると、先ほど魔法で作った簡単な椅子に並んで座った。
ふと横を見ると、ミリアは膝を抱え、じっと炎を見つめていた。
その横顔はどこか切なげで、炎の色を映して揺らいでいる。
「ミリア……?」
私が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……ハルちゃん。私ね、村を出るって言ったとき、本当はすごく怖かったんです」
彼女の声は、夜の風に溶けてしまいそうなほど小さかった。
「お父さんやお母さんと離れるのも寂しかったし、私なんかがハルちゃんについていって、本当に役に立てるのかなって……今でも、ふとした瞬間に不安になっちゃいます」
「ミリア……」
「でもね、今日、こうしてハルちゃんと一緒に歩いて、一緒にご飯を食べて……それで確信したんです。私は、ハルちゃんの隣にいられて、やっぱり良かったなって」
ミリアは、私の目を見つめた。
その瞳の中には、もう迷いはなかった。
「ハルちゃんは、私の知らない遠い場所から来たんですよね? ときどき、すごく寂しそうな目で空を見るから……私、そんなハルちゃんを見るたびに胸が痛かったんです」
ミリアが身を乗り出し、私の両手を包み込むように握りしめる。
「だから……」
彼女の温もりが、指先から伝わってくる。
「だから、ハルちゃんがどこに行こうとしても、何をしようとしても、私はハルちゃんの『居場所』になります。……ハルちゃんが、もう二度と寂しい顔をしなくて済むように」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
この世界に来て、女神様からは強大な力までもらったけど。
なんとなく疎外感を感じていた。
けれどミリアは……彼女が私を受け入れ、肯定してくれたことが、ただただ嬉しかった。
「……ありがとう、ミリア」
私は、彼女の細い肩にそっと自分の肩を寄せた。
ミリアは一瞬だけ身体を強張らせたけれど、すぐに私の重みを受け入れるように、ふわりと力を抜いて寄り添ってくれた。
「ハルちゃん……」
ミリアが、甘えるように私の腕にすり寄ってくる。
柔らかい感触と、花のような、そして少しだけ焚き火の匂いが混じった甘い香り。
なんか、またドキドキしてきた!
ミリアは私の肩に頭を預け、満足そうに吐息を漏らした。
「……暖かいですね、ハルちゃんは。太陽みたいです」
「太陽だなんて……。私はミリアに温めてもらってるだけだよ」
「ふふっ。じゃあ、お互い様ですね」
ミリアは私の腕に顔を埋め、それから上目遣いに私を見た。
濡れた瞳が、炎を反射して揺れている。
「……ハルちゃん。カナンに着いても、それからもっと遠くに行っても……ずっと、一緒ですよ? 私、離れませんから」
「……うん、もちろん!」
私は、彼女の手を握りしめた。
指と指が絡み合い、お互いの体温が溶け合っていく。
夜の帳が私たちを包み込み、焚き火の炎がゆっくりと小さくなっていく。
「おやすみ、ミリア」
「……おやすみなさい、ハルちゃん」
パチパチと優しく燃え続ける焚き火の光に見守られながら、私たちは魔法で作ったふかふかの草のベッドに身を沈めた。
互いの温もりを確かめ合うように、ぴったりと身を寄せて、私たちは深い眠りについた。




