第6話
あれから数日。
ノール村での生活にも、すっかり慣れてきた。というか馴染んでしまった。
朝、窓から差し込む柔らかな光と、小鳥のさえずりで目を覚ます。
まだ眠い目をこすりながら起き上がると、決まってドアが控えめにノックされるのだ。
「ハルナさん、おはようございます。お水、持ってきましたよ」
入ってきたミリアが、木桶に入った汲みたての水を差し出してくれる。
それで顔を洗うと、ひんやりとした冷たさが心地よくて、ようやく私の意識がシャキッと覚醒する。
その後、彼女の家族と食卓を囲む。
焼きたてのパンと、具だくさんのスープ。
日本にいた頃の、時間に追われるような朝食とは違う、ゆったりと流れる時間。
そんな温かさを感じられる日常が、今の私には何よりも心地よかった。
◇
今日はそんな穏やかな村から少しだけ離れて、森の入り口近くにある開けた河原へとやってきていた。
サラサラと流れる小川の音。
若葉の匂いが混じった風が、鼻腔をくすぐる。
うん、大自然っていい!
「ハルナさん、本当に私に……魔法を教えてくれるんですか?」
ミリアは期待と不安が入り混じったような顔で、私の顔を覗き込んできた。
きっかけは昨日のこと。
数日前の、荒れ地を魔法で耕した私の姿を見て、彼女はどうしても自分も魔法を使ってみたい、私を助けられるようになりたいと思っていたらしい。
「もちろんだよ! なんとなく分かるんだけど、ミリアは火と地の素養があるみたいだから。コツさえ掴めばきっとすぐだよ」
私は自分の手のひらの上に、小さな、けれど安定した火を灯してみせる。
本当は、この世界の小難しい魔法理論なんて知らない。
けれど私にはイメージの力がある。女神様からもらった能力の恩恵だ。
誰にでもできるはず――というのは私の傲慢かもしれないけれど、ミリアになら伝えられる気がしていた。
「いい? 魔法は力ずくで出すんじゃなくて、『お願い』する感覚なんだよ。世界に満ちている力を、ちょっとだけお裾分けしてもらう感じ」
「……お願い、ですか。ええと、火の精霊さん……お力を貸してください……?」
ミリアは真剣すぎるくらいの表情で、両手を前に突き出した。
彼女の白い額に、じんわりと汗が滲む。
ぎゅっと結ばれた唇や、細かく震える指先。
一生懸命なその横顔が、守ってあげたくなるほど可愛くて、つい見守る私の目も細くなってしまう。
「あ……! 出ましたっ!」
ぽっ、と。
ミリアの掌の上に、マッチの火のような、頼りなげで小さな灯りが灯った。
それはほんの数秒で風に吹かれて消えてしまったけれど、魔法などに触れてこなかったであろう彼女にとって、それは間違いなく大きな一歩だった。
「すごいよ、ミリア! 初めてでこれなら、もしかしたら天才かも!」
「本当ですか!? 嬉しい……っ。私、ハルナさんの役に立ちたくて。もっと頑張ります!」
ミリアは頬を薔薇色に染めて喜んだ。
それから私たちは、夢中になって特訓を続けた。
◇
太陽が空の高い位置に昇り、お腹の虫がそろそろ主張を始めた頃。
「ハルナさん、少し休憩してお昼にしましょうか」
ミリアが木陰に置いていたバスケットを持ってきてくれた。
蓋を開けると、中には色とりどりのサンドイッチが綺麗に並んでいる。
「わぁ……! これ、ミリアが作ってくれたの?」
私は驚きの声を上げた。
白いパンには卵のペースト。小麦色のパンには、干し肉を薄くスライスしたものやチーズ、新鮮な野菜が挟まれている。
異世界に来てからというもの、パンとスープの食事が多かったから、まさかここでこんなに本格的なサンドイッチにお目にかかれるとは思わなかった。
(この世界にも、パンに具材を挟んで食べる文化があるんだ! 卵もチーズも、日本と同じようにあるなんて感激……!)
「はい。朝早く起きて作ってみたんです。お口に合うといいんですけど……」
「絶対美味しいに決まってるよ! いただきます!」
二人並んで川辺の岩に腰掛け、サンドイッチを頬張る。
ふわふわのパンと、干し肉の凝縮された旨味、そしてシャキシャキした野菜の食感が絶妙だ。
噛みしめるたびに、素朴な素材の味が口いっぱいに広がる。
「ん~っ! 美味しい! ミリアはお料理の天才だね」
「えへへ、よかったです。ハルナさんに食べてほしくて、頑張っちゃいました」
ミリアは嬉しそうに微笑みながら、木筒に入れた果実水を注いでくれた。
川面を渡る涼しい風を感じながら、美味しい手料理を食べる。
なんて贅沢な時間なんだろう。
食事を終え、少し休んだあと、ミリアは気合を入れ直すように立ち上がった。
「……午後も、頑張りますね。私、もっと上手になりたいですから」
その瞳には、先ほどよりもさらに強い意志が宿っていた。
◇
それから数時間。
ミリアの集中力は凄まじかった。
何度も火を出し、消し、また出す。
魔力が切れそうになれば少し休み、回復したらすぐに再開する。
最初はすぐに消えていた火も、夕方が近づく頃には、ゴルフボール大の火の玉が安定して燃え続けるようになっていた。
「はぁ……はぁ……。どうですか、ハルナさん……!」
息を切らせながらも、ミリアが掌の上の炎を私に見せる。
夕日に照らされた彼女の横顔は、汗で濡れた髪がふわりと揺れ、とても爽やかで輝いて見えた。
「完璧だよ、ミリア。一日でここまで出来るようになるなんて、本当にすごい」
「やっ……たぁ……」
ミリアは安堵したようにへなへなと座り込んだ。
空はいつの間にか茜色に染まり、水面がキラキラとオレンジ色に輝いている。
心地よい疲労感が二人を包んでいた。
「はい、お疲れ様。……頑張ったご褒美に、これ食べようか」
私は腰のポーチから、少し大きめの板状のチョコレートを取り出した。
女神様からもらった、この世界には存在しない最高のご褒美だ。
銀紙を慎重に剥くと、甘く、それでいてどこか芳醇な香りがふわっと広がる。
それをパキッと半分に割って、ミリアに手渡した。
「ありがとうございます。……ハルナさんのチョコレート、食べるたびに不思議と心が落ち着くんです。」
ミリアは小さな口でチョコをひとかじりした。
ふにゃあ、と眉根が下がり、蕩けるような幸せそうな表情が広がる。
もぐもぐと口を動かす彼女を見ているだけで、私までお腹がいっぱいになってしまう。
「……あの、ハルナさん」
チョコをゆっくりと飲み込んだ後、ミリアがぽつりと呟いた。
その声色が、どこか切羽詰まったような、それでいて迷っているような響きを帯びていて、私は小首を傾げた。
「なあに? まだチョコ、食べる?」
私が呑気に聞き返すと、ミリアはふるふると弱々しく首を横に振った。
膝を抱え、視線を足元の小石へと落とす。
長いまつ毛が、憂いを帯びて伏せられる。
「いえ、そうじゃなくて……。その……」
言い淀む彼女を、私は黙って待った。
川のせせらぎだけが、二人の間に流れる沈黙を埋めていく。
やがてミリアは意を決したように、けれど自信なさげに口を開いた。
「昨日の開墾のとき……村のみんながハルナさんのことを『魔法使い様』とか『ハルナ様』って呼んでたじゃないですか」
「ああ、あれね。正直、ちょっと……いや、かなり恥ずかしかったな。普通にハルナでいいのに」
私は照れ隠しに笑ってみせたけれど、ミリアは笑わなかった。
彼女はきゅっと唇を噛み締め、さらに小さく身体を縮こまらせた。
「……私、それがなんだか、少しだけ寂しくて」
「寂しい?」
「はい。……ハルナさんが、どんどん遠くに行っちゃうみたいで」
ミリアの細い指が、地面の砂を弄ぶ。
まるで自分のやり場のない気持ちを持て余しているかのように。
「村のみんなに崇められて、すごい人だって思われて……ハルナさんは私の恩人だし、自慢の人です。それは私もすごく嬉しいんですけど。……でも」
言葉が途切れる。
風が吹き抜け、彼女の美しい髪をさらりと揺らした。
「……やっぱり、寂しくて。みんなの『ハルナ様』になっちゃうのが、嫌だなって……そんなわがままなこと、思っちゃうんです」
その声は小さくて、風にかき消されそうだった。
けれど私には、彼女の心の叫びのように聞こえた。
ミリアは私をただの「恩人」としてではなく、もっと近い存在として見てくれている。
その事実が嬉しくて、少しこそばゆい。
「ミリア……」
「だから……私、ハルナさんのこと……もっと、親しみを込めて呼びたいんです」
ミリアがゆっくりと顔を上げた。
潤んだ瞳が真っ直ぐに私を射抜く。
「誰よりも近くにいる、私だけの呼び方で」
「え?」
「……突然かもしれないんですけど、『ハルナちゃん』って、呼んでも、いいですか? ダメ……ですよね、恩人にそんな…」
ミリアの顔は、もう熟れきった林檎のように真っ赤になっていた。
必死な瞳で私の反応を窺っている。
その姿があまりに健気で、愛おしすぎて――私は思わず、耐えきれずに噴き出してしまった。
「あはは! なんだ、そんなこと考えてたの?」
「そ、そんなことじゃないです! 私にとっては、すっごく大切なことなんです!」
ミリアが涙目で必死に抗議する。
私は笑いを収め、彼女のふわふわとしたの髪を、愛しさを込めて優しく撫でた。
「ごめんごめん。……全然いいよ。でもね、ミリア。実はもっといい案があるんだ」
「いい案……?」
「『ハルナ』じゃなく、『ハル』って呼んでくれないかな?」
ハル。
前の世界でも、本当に心を許せる親友にだけ呼ばれていた愛称。
異世界に来て、右も左もわからなかった私を助けてくれた、大切な女の子であるミリアにこそ、そう呼ばれたかった。
「ハル……さん、ですか?」
「うん。別に呼び捨てでもなんでも、ミリアが呼びやすい感じにしていいよ」
私が提案すると、ミリアは何度も「ハル……ハル……」と、その響きを確かめ始めた。
やがて彼女は意を決したようにバッと顔を上げ、眩いばかりの笑顔を向けた。
「じゃあ……『ハルちゃん』、って呼びます! 私だけの、特別な呼び方……いいですか?」
「ハルちゃん、か。いいね! ミリアに呼ばれると特別な感じがする」
「……っ! は、ハルちゃん……ハルちゃんっ!」
彼女は嬉しそうに、弾んだ声で何度も私の名前を呼んだ。
その声の響きに、私自身もなんだか胸がいっぱいになってしまう。
ただの呼び名が変わっただけ。
それだけのことなのに、私たちの間にあった見えない境界線が、スッと消え去ったような気がした。
「あ……でも、人前では、その、少し恥ずかしいので……。二人っきりのときとか、お母さんたちの前だけにしてもいいですか?」
急に我に返ったのか、ミリアはもじもじと指先を弄び、耳の裏まで真っ赤にしている。
「いいよ、ミリアのペースで慣れていこう。私はミリアにそう呼ばれるのすっごく嬉しいから。いつでも歓迎だよ」
「……はい! 私も、ハルちゃんって呼べるの、嬉しいです!」
ミリアは私の右腕をぎゅっと抱きしめてきた。
腕に伝わる柔らかい感触と、少し高めの体温。
触れ合う肌から伝わる彼女の温かさが心地よく、そして少しだけくすぐったく染み渡る。
「ハルちゃん。私、もっともっと魔法を頑張ります。いつか、胸を張って隣に立っていられるように。……だから、ずっと一緒にいてくださいね?」
その言葉はどこか切実で、控えめな告白のようにも聞こえた。
私はもう片方の手を、彼女が握る手にそっと重ね、壊れないように優しく握り返した。
「もちろんだよ。……指切り、しちゃう?」
「ゆびきり……? なんですか、それ?」
ミリアが不思議そうに小首を傾げる。
そっか、この世界には指切りなんてないのか。
「私の故郷のおまじないだよ。こうやって、お互いの小指を絡ませるの」
私は自分の小指を差し出し、ミリアの華奢な小指をそっと絡ませた。
「これは『約束』の印。嘘をついたら針を千本飲ませちゃう……なんて怖い歌もあるんだけど、要は『絶対に守るよ』っていう誓いみたいなものかな」
「針千本……!? ふふ、ハルちゃんの故郷のおまじないは、とっても面白いですね」
ミリアはくすりと笑うと、絡ませた小指にきゅっと力を込めた。
「はい。指切り、です。……嘘はつきません。私ずっと、ハルちゃんの隣にいますから」
「うん!」
私たちは笑顔で絆を確かめ合う。
指先から伝わる体温は、ほんのり暖かくて、こそばゆい。
名残惜しそうに、それでもゆっくりと指先が離れていくと、その隙間を埋めるように、草木を吹き抜ける風が私たちの髪を優しく揺らした。
残りのチョコを一口ずつ大切に分け合うと、私たちは沈み始めた夕日を背に、村に向かって歩き出した。




