第3話
森の中を歩き始めてどれくらい経っただろう。
上空から確認した「煙の上がる場所」を目指して、私はひたすら木々の間を突き進んでいた。
道なんてものはないけれど、魔法で強化された私の体は驚くほど軽い。
大きな根っこも入り組んだ藪も、ひらりと飛び越えていける。
まるで自分がオリンピックのハードル選手にでもなったような気分だ。
「……それにしても、静かだなぁ」
時折カサカサと小動物が逃げる音はするけれど、それ以外は風に揺れる葉の音だけ。
私は腰のポーチに手をやり、無意識にチョコを一粒つまみ上げた。
銀紙を剥き、口の中に放り込む。
滑らかな舌触りと共にカカオの香りが鼻を抜ける。
緊張で強張っていた肩の力が、ふっと抜けていくようだ。
やっぱり甘いものは正義だね。
――その時だった。
「きゃああああああっ!!」
静寂を切り裂くような高い悲鳴。
女の子の声だ。
「……っ、あっち!?」
考えるより先に体が動いていた。
悲鳴が聞こえたのは、進行方向から少し右に逸れたあたり。
私は風の魔法を足に纏わせ、弾丸のような速さで木々の間を駆け抜けた。
◇
視界が開けた場所に出る。
そこは小さな泉がある開けた広場だった。
そこで私は、初めてこの世界の「現実」を目にすることになる。
「ひっ、嫌っ……来ないで!」
尻餅をついて後退りしている女の子がいた。
ふわふわのブラウンのロングヘアに、白いブラウスとエプロン姿。
背負っていたと思われるカゴが地面に転がり、中から薬草らしき草が散らばっている。
そして、彼女を囲んでいるのは――。
「……何、あれ。ぬいぐるみ……じゃないよね」
それは私の身長の半分くらいしかない、小柄な怪物だった。
肌はどす黒い緑色で、顔には醜い皺が刻まれている。
腰にボロ布を巻いただけの姿で、手には錆びついた短剣や木の棒を握っていた。
三匹の怪物は下卑た笑い声を漏らしながら、じりじりと女の子を追い詰めている。
「ケケッ……!」
「ギャウッ、ギャッ!」
女の子の瞳は恐怖に染まり、今にも泣き出しそうだ。
その姿を見た瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
「ちょっと、そこまでにしておきなさいよ!」
私は全力の叫びと共に広場へと飛び出した。
怪物たちが一斉にこちらを振り向く。
その目は濁った黄色で、明らかに知性よりも凶暴性が勝っている。
「ギャッ? ギギッ!」
一番近くにいた木の棒を持った怪物が、私に向かって飛びかかってきた。
速い!?
……かと思ったんだけど、今の私の目にはスローモーションのように見えた。
イメージするのは凝縮された風の「塊」。
「――風よ!」
私が指先を振るうと、目に見えない空気の弾丸が爆ぜた。
ドッ!
重い音と共に、宙に浮いていた怪物の体が軽々と吹き飛ぶ。
そのまま近くの太い幹に叩きつけられると、その身体がボシュッという音と共に黒い霧となって弾け、跡形もなく消滅した。
「ギ、ギャ……?」
残りの二匹が仲間の唐突な消失に呆気に取られている。
その隙を私は逃さない。
「水よ、氷の矢になれ」
手のひらの前に、鋭利に研ぎ澄まされた氷の塊が三本出現する。
狙いを定めて、一気に射出。
ドシュッ、ドシュッ!
鈍い音が響き、氷の矢は正確に怪物たちを貫いた。
絶命した怪物たちは、最初の一匹と同様に黒い靄となり、スッと空気に溶けて消えていく。
「……倒した、のかな」
後に残ったのは静寂だけ。
手応えはまるでない。
まるで紙をハサミで切った時のような、あまりに呆気ない幕切れだった。
死体が残らないなんて、まるでゲームみたいだ。
私は魔法の余韻を振り払い、座り込んでいた女の子に駆け寄った。
「だ、大丈夫……?」
間近で見る彼女は、遠くから見るよりもずっと可愛らしかった。
少し震えている肩を支えるように、私は彼女の目線に合わせて腰を下ろす。
「……あ、……あ……」
彼女は呆然とした様子で私を見つめていた。
無理もない。
いきなり現れた「黒髪で変な服を着た女」が、一瞬で怪物を全滅させたのだから。
「もう大丈夫だよ。悪いやつらは私が追い払ったから」
私は努めて優しく微笑みかけた。
すると、彼女の大きな茶色の瞳から、大粒の涙がぽろりと溢れ出した。
「う……う、ああああんっ……! 怖かった、怖かったよぉ……!」
「……よしよし。大変だったね」
私は彼女をそっと抱き寄せた。
柔らかくて温かい、女の子の体温。
ほんのりと香草のような、お日様のような匂いがする。
華奢な体が私の腕の中で震えているのが伝わってきて、守ってあげなきゃという気持ちが強く湧いてくる。
彼女は私のセーラー服の胸元に顔を埋めて、子供のように声を上げて泣いた。
しばらくの間、私は彼女の背中を優しくさすり続けた。
やがて彼女の泣き声が小さくなり、落ち着きを取り戻してきたようだ。
「……ごめんなさい。取り乱してしまって……」
彼女は顔を赤くして、私の体から離れた。
目元をエプロンの端で拭いながら、不思議そうに私をじっと見つめる。
「あの……助けてくれてありがとうございます。あなたは冒険者さま、ですか?」
「冒険者……? ううん、私はただの通りすがり……あ、ハルナって言います」
「ハルナ、さま……。不思議な服ですね。それにさっきの魔法……。あんなに一瞬でゴブリンを倒しちゃうなんて」
「ゴブリン……?」
あ、あの緑色の怪物のことかな。
なるほど、やっぱりゴブリンだったか。
何となく以前見たアニメを思い出しながら、心の中で新しい単語をメモした。
「ハルナさまがいなかったら、私、今頃どうなっていたか……。あ、私はミリアといいます。ノール村っていう、この先にある村に住んでいます」
「ミリアちゃん、か。可愛い名前だね」
私が微笑むと、彼女はさらに顔を赤くして俯いてしまった。
その反応があまりに初々しくて、思わず意地悪したくなってしまう……いやいや、今はそれどころじゃない。
「ミリアちゃん、まだ足が震えてるね。少し休もうか。……これ、食べる?」
私はポーチから一粒のチョコを取り出し、彼女の前に差し出した。
「これは……?」
「私の故郷の『魔法の食べ物』。『チョコレート』っていうの。食べると心が落ち着くんだよ」
ミリアちゃんはおずおずと手を伸ばし、私の手からチョコを受け取った。
そして、不思議そうにそれを口に運ぶ。
「……っ! あ、甘い……! これ、すごく美味しいです……!」
彼女の表情が、ぱぁっと明るくなった。
恐怖で引き攣っていた顔が、チョコの甘さでみるみるうちに蕩けていく。
その幸せそうな顔を見て私は思った。
この世界で最初に出会ったのが、彼女でよかった、と。
「少し落ち着いたかな? もしよかったら村まで送らせてほしいんだけど」
「えっ、でも、ハルナさまのお邪魔じゃ……」
「全然! 私も人が住んでいるところを探してたんだ。案内してくれたら助かるな」
私が手を差し出すと、ミリアちゃんは今度は迷わずに私の手を握り返してくれた。
柔らかくて少しだけ土の付いた、一生懸命働いている人の手だ。
「はい! ぜひ案内させてください、ハルナさま!」
こうして、私は初めての異世界の住人――ミリアちゃんと出会った。
二人で並んで歩き出した森の道は、一人で歩いていた時よりもずっと明るく輝いて見えた。
第4話は、やっと人のいる場所(ノール村)に辿り着きます!




