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~緊縛の美 ~(なろうVer Ⅱ)

作者: あいびぃ

昨夜、とある女性から声をかけられました。

「一度、女性の目で綴ってみてほしい」と。


舞台の空気は、時に言葉より強い余韻を残します。

その静けさの奥で、心がどんな形をしていたのか。

誰かの視線に触れた瞬間、呼吸がどんなふうに揺れたのか。


──それを、ほんの少しだけ言葉にしました。


難しく考えず、灯りを落とした部屋で、

ひと呼吸ぶんだけお付き合いください。


取り急ぎの綴りではありますが、

温度が冷める前に、お届けします。

 看板のない階段は、夜の底へ斜めに沈む。

石の湿りは風ではなく呼吸の温度に近く、踵で触れるたび、背骨の中で静かな波が返ってくる。

押し戸は重い。金属が芯で鳴り、氷の音がひとつ。

Noir Knot の夜は、まず「到着の合図」から始まる。


 天井は低く、光は輪にならない。

舞台の黒を細く切り分ける直線のまま落ち、白い光沢レオタードの表面だけが、

かすかな水面のように応える。私は鏡のような白を選んできた。

柔らかさを盛らず、骨と腱と筋の線で立つための衣装。境界を濁さず、言い訳をさせない服だ。

三上オーナーが湿度計を示し、指先で「六二」とだけ作る。麻にやさしい夜。

私は鎖骨の上に指を置き、皮膚温が落ち着いていることを確かめる。


 袖に黒川。染め縄は深紅に葡萄が混ざる派手色、撚りはZ。

毛羽をわずかに残し、光を吸っては返す表情の強い縄だ。床へひと呼吸ぶん落ちる音——パシン。

空気が切り分けられ、全員の注意が一点に収束する。

私は中央に立ち、踵の骨を床に沈めてから、顎を半目落とす。視線を捧げず、しかし逃がさない角度。


 最初の一条は胸郭の上段へ斜め。押さえではない、切り分けだ。

吸気の最初の膨らみを一瞬、線として固定する。二走目は胸下、菱の起点へ向かう。

角は鈍角。皮膚を切らず、しかし逃げ道を許さない幾何。

黒川の手元は「見せる」ことまで含めて演出だ。背面交差に導かれ、上腕の角度が決まる。

上二は見える側へ置かれる。結び自体が観客の視線を束ねる装置になる。私は肘を落としすぎない。

角度の誤差で菱の角が立ちすぎると、皮膚温が乱れ呼吸が浅くなる。白は正直だ。光の嘘を許さない。


 一菱。角が杭になる。杭が置かれると、身体は自ら止まり方を学ぶ。

私は吸気の頂点で胸郭を一小節だけ留め、横隔膜の縁で微かなきしみを「音」として聞く。

痛みではない。緊張の硬度が音階のように上がる。

黒川はそこへわずかな支点の匂いを重ね、下胴の斜走を骨盤の羽根に沿わせて流す。

演目の気配は「上」へ向かうが、上げない。

宙に上がる未来だけが空気に置かれ、私は踵を一枚分だけ浅く浮かせる。

床から離れない宙——自由が届きそうな位置ほど、自由が遠くなる。


 黒川の縄は、支配の輪郭だ。

私の感覚の優先順位を決め、視線の順序を奪い、理解の速度を指揮する。

身体は素材で、作品は視界。私は「動かない」を選ぶ。動けば線が嘘になる。

彼は前面の線を整え、背へ回り、を払って光の矢を描く。

それは「観客の呼吸を折り返す矢印」。客席のどこかで小さな吸気が揃う。

拍手ではない、礼のための息だ。


 ほどきは速い。結びの誇示をやめ、張力の矢印を逆算で外していく。撫でない。

持ち替えの微圧で終わりを知らせ、端は逃がした方向へ帰る。

白の表面から濃い影が一枚ずつ剥がれ、光が均質に戻る。

私は胸のまえで骨の位置を数え直し、顎線を水平へ戻す。

皮膚温が自分のものに帰る瞬間——「尊厳は戻ることで証明される」という言葉が、内側から自然に立ち上がる。


 袖の暗がりで、三上オーナーが氷を一度だけ鳴らす。終わりの合図。

黒川は染め縄のコイルを指で押さえ、毛羽の向きを整えながら半分だけ笑う。

その笑いは勝利の笑みではない。夜の温度が望みどおりに収束したことを確認する、作業者の微笑だ。

私は水を半口だけ飲み、肩甲骨を転がす。レオタードの白はもう均一で、縄影は跡形もない。

それでも、胸郭の上段には「角の記憶」が薄く残り、下斜走の斜めは骨盤の意識に一本の糸として残っている。

 

私は自分の役割を反芻する。ここで、私が差し出すのは「耐える身体」ではない。

「線を可視化する身体」だ。痛みを材料にせず、機能を見せる。黒川の縄は、機能を支配の図法で示す。

視界から先に縛り、次いで身体を沈黙へ誘導する。観客はそこで「理解ではない肯定」に落ちる。

私はその落下を安全に受け止め、戻るまでの姿勢を保持する器になる。


 袖へ戻る通路、床の木目が薄く光る。

私は足の指でその方向を数えながら、内側でひとつだけ比較の測定を始める。

黒川の線は、視線の速度で完成する。形が先に立ち、呼吸が後から従う。

明晰、端正、速い。では、彼の線はどうだったか。いや、今夜の彼はまだ出ていない。

私は首を横に振り、測定を途中でやめる。比べるのは早い。

二つの線は同じ夜に置かれ、同じ白に書かれる。そのとき初めて、差異は輪郭を持つ。


 客席の気配は穏やかだ。常連の沈黙は、拍手より重い。

見知らぬ女性の影が一席、光の縁に座っていることに気づく。姿勢が良い。足を組み替えない。

視線の運びだけで「線を見る人」だと知れる。スポンサー席が混じる夜でも、ここで会話は生まれない。

息が礼になる宵は、言葉を要しない。

私はその視線が、さっきの菱の角に留まったまま動かないのを横目で確認し、

袖の端で呼吸を三度、上段から下段へ送る。

上二の高さが胸の内側でまだ薄く光り、

角の杭が呼吸の折返し点として機能しているのがはっきりわかる。


 舞台の黒は変わらない。照明は半歩も動かないのに、空気の密度だけがゆっくり落ちていく。

黒川の余韻が沈殿し、床の下に静かに溜まる。私はその上に立っている。

足裏の皮膚が「沈殿の厚み」を測り、次の線のために重心を浅く調整する。白は正直、そして残酷だ。

嘘をつけば即座に黙る。だから私は、嘘をつかない姿勢だけを選び続ける。


 袖で彼の縄が静かに揺れ、毛羽のない生成りが、灯りに鈍くすら光らず立っている。

同じ麻、同じ撚りの語彙を持ちながら、手入れの思想が違うおもての気配。

私はそこで初めて、明確な言葉を胸に置く。「黒川の縄は視界を征する線、彼の縄は呼吸を導く線」。

早合点だと自分を戒めながらも、その仮説が今夜の白にどんな絵を置くのかを、体内で待つ。


 三上オーナーが照明を半寸だけ調律し、氷がまたひとつ音を立てる。客席の息が一段深くなる。

夜は前半の山を越え、次の線のための余白をつくった。

私は脛の内側で筋束を一本ずつ起こし、腹直筋に空き容量を確保する。

舞台へ出る前に、胸骨の上端を指腹で軽く押す。そこに、黒川の置いた角の記憶がうっすら残っている。

記憶は痛みでも快楽でもない。ただの「設計の痕跡」。その上から、別の設計が重なる準備をする。


 私は前を向く。白の表面に外光はない。けれど、内側では灯りがひとつずつ点いている。

線の交差を受け止め、ほどいて返すための灯りだ。息をひとつ、静かに吐く。

黒川の夜は終わった。次は、彼の夜が始まる。


 ◇


 照明は変わらないはずなのに、舞台の線がやわらかく揺れた。

黒川の縄が沈黙となって床に沈殿したあと、空気が一段ほぐれる。緊張が抜けたのではない。

方向が変わったのだ。支配の線から、観察の線へ。


 袖の奥から、彼が歩く。音がない。歩いているのに、床の木目が揺れない。

位置だけが変わる、そんな移動。視線は私に向かない。

測っているのは空気、光、そして——呼吸の位置。


 私は舞台中央に立つ。踵を薄く落とし、つま先から足指を地に添わせ、内腿で一本の軸を立てる。

顎を水平より僅かに下へ。黒川の線が残した「角」を胸の奥で消さず、しかし従わない。

私は新しい線を受ける準備をする。三上オーナーの氷が、ひとつ静かに沈む。


 彼は縄を持った。生成り。光を飾らない色。

毛羽は落としきられ、繊維は指の腹に沿ってまっすぐだ。

撚りは右、Z。黒川と同じ仕様に見えて、まったく思想が違う。

見せるためではなく、戻すための手入れ。一度触れただけでわかる。今日も、戻す夜だ。


「正面、向いたまま」


 声は小さい。観客に届かせようとしない声。私だけが聞く声。視線はまだ合わない。

まず呼吸を読む。胸郭の上下、肩甲帯の角度、脇の空き。私は吸気を一度満たし、頂点で止める。

黒川の角を“記憶として”そこに残したまま、別の角度を許す準備をする。


 最初の一条は、胸郭の最も高く動く範囲——最大吸気点のわずか下。横ではない。

右から左へ、ほんの少し下げる角度。締めない。ただ「呼吸の選択肢」を示す線。

私は胸でその意味を理解する。奪わず、制限する。黒川が視界を操作するなら、彼は呼吸の地図を描く。


 菱は作らない。私はそれを知っている。彼の菱は“必要のない夜”には生まれない。

代わりに、胸下の回旋筋に触れる八の字。

肩甲骨の内側へ細い線が落ち、逃げる筋肉が一瞬だけ逡巡する。痛みも圧もない。

けれど、逃げ場の方向だけが静かに奪われる。私はその瞬間、無意識に指の先で床を確かめる。

立っている場所の深さを測ろうとする。


 背面。上二が置かれる。だが、見せない結び。肌からわずかに浮かせ、戻り道を最初から確保する。

それが彼の原則。私は肩をすこしだけ開き、肘を落とす。呼吸が深くなる。

縛られているのに、深くなる。これは——危険な感覚だ。信頼に似た“解像度の高い無防備”。

私は眉を上げかけ、すぐ抑える。


「そのまま。肩、もう半分だけ開いて。肘は落とす」


 私は肩甲骨を寄せ、筋束が“逃げる”のをやめる瞬間を待つ。指示は命令ではない。選択肢の誘導。

私は従ったわけではない。選んだのだ。だが、選ばされたとも言える。これが、彼の縄の怖さだ。

主体を手放さず、主体を誘導する。従っていないのに、従っている。私は胸の奥で苦笑する。


 腰。帯のような二重線——だが力学は一重。補強に見せかけ、力の逃げ道を鋭く細く残す設計。

吊りを連想させる“角度”だけが置かれ、しかし上げない。私はつま先を自然に探り、床を確認する。

落ちない。まだ落ちない。だが、落ちる可能性を与えられた位置に立たされる。自由に最も近い拘束。


 舞台が揺れる。揺れたのは私ではなく——客席だ。視線の重心がずれ、どこにも置けなくなる。

彼の縄は身体ではなく空間の座標を縛る。私は腹筋を薄く締め、横隔膜の滑りに意識を置く。

胸が浅く、しかし苦しくない。呼吸の選択肢を狭めた自由。

黒川の縄が支配なら、彼の縄は許容の形で包囲する。


 視線が合った。ほんの一瞬。そこに命令はない。観察と、わずかな確認だけ。

——私はその温度に、なぜか一瞬、頬の内側が熱くなる。やめなさい。

私は自分に言う。だが、身体のほうが先に反応してしまう。

白い光沢が胸の形を拾い、ほんの刹那、呼吸が滑らかになる。甘さではない。体温の回収だ。


 客席の前列。さっき私が気づいていた女性が、わずかに体を起こした。

視線は鋭いというより、静かだ。彼女は縄ではなく、私の表情の変化を見る人。見逃さない目。

私は喉の奥がひとつ揺れるのを自覚する。いや——気づかれた? 気づかれた。

そう思った瞬間、胸が微かに熱を帯びる。不可抗力。悔しい。


 吊りはこない。だが吊られうる角度は提示される。つま先は床に届かない寸前。

触れそうで触れない。私は足裏の幻肢感覚で床の気配を探す。

空間の重心が宙に浮いたまま固定され、戻る場所を探しているのは私ではなく、世界のほうだ。


 ほどき。速い。しかし、黒川の「誇示の速さ」と違う。回復の速さ。触れない。撫でない。

張力が消える方向だけを指で押し、縄が“勝手に戻る”ように導く。私は皮膚に残る微温を感じる。

温かさではない。手ではない。——息の跡だ。こんな……反応をするつもりじゃなかった。


 足裏が床に触れる。帰還。膝が折れないよう、無意識に内腿を締める。

顎を上げようとするが、瞬きが一拍遅れる。やめなさい、戻れ。私は内側で自分に命じる。

けれど、皮膚はすぐには従わない。


 彼は何も言わず、縄を整える。礼ではない。祈りでもない。責任の回収。

その手つきが、胸の奥に妙な余韻を残す。観客の女性が、ほんのわずか、呼吸を深くするのが見えた。

理解のためではない。察知の呼吸。見られた。たぶん、完全に。


 氷が鳴る。静寂は壊れない。誰も拍手しない。ここは、拍手のための場所ではない。

私は踵を揃え、胸に残ったわずかな温度を閉じ込める。逃げない。隠さない。ただ、誰にも渡さない。


 白いレオタードが光を均し、縄の影は消えたはずなのに——胸の奥にだけ、点ではなく、

線の余韻が残る。黒川の線は角として残った。彼の線は、温度として残る。どちらも消えていない。

二つの記憶が並列し、胸郭の内側で静かに呼吸を分け合う。


 袖に戻るとき、視界の端であの女性の視線がまだ私に触れているのを感じる。鋭くない。

疑う目でもない。気づいた人の静かな興味。私はその視線を振り払わない。振り払えない。

今はまだ、余韻が終わっていないから。


 階段の湿気が遠くなる。地上の喧騒は届かない。ここは、声のない場所。今夜、私は負けていない。

けれど、一瞬だけ、渡してしまった何かがあった。その事実だけは、隠さずに持ち帰る。


 照明がわずかに落ち、氷がまた一つ転がった。

他の誰の気配も聞こえないのに、胸の奥ではまだ、あの呼吸の軌道が温度として残っている。

私は歩く。静かに。余韻を崩さず、しかし逃げず。次は——自分の夜に戻る時間だ。


 ◇


 舞台袖に戻ると、空気がまだ沈黙の形を保っていた。重たいのではない。

薄く伸びた静けさが、肌の表面をなぞるように残っている。

光沢レオタードが汗を吸うほど動いていないはずなのに、胸郭の奥に溜まった“温度”だけが、なぜかまだ拭えない。


 三上オーナーが、氷をひとつ沈めた。乾いた音ではない。鈍く、深く、溶けていくような音。

それが、観客の帰る気配をそっと誘導していく。


 黒川はすでに縄を巻き終え、赤いコイルを掌で押さえたまま、視線だけで何かを反芻している。

勝利や誇示ではない。**“線が立った夜を確認する職人の眼”だ。


 私の視線の端で、スポンサー席の女性がまだ座っている。

帰る気配がないというより、“余韻を壊す理由がない”という静かな佇まい。

目は伏せぎみなのに、気配だけはこちらを捉えて離さない。


 ——気づいている。先ほどの、あの一瞬に。


 頬にわずかに触れた温度。呼吸の選択肢を奪われたのではなく、与えられた瞬間。

それを観客に悟られたくなくて、必死に内側で押し込んだ感覚。


 けれど、見られてしまった。負けではない。だが、隠しきれない“揺れ”。

私はその事実だけを、胸の奥にそっと抱いたまま息を整える。


「アマーリエさん。右肩落としっぱなし。戻して」


 彼が、声をかけた。やさしい声ではない。指示。だが命令ではない。

私は肩を微かに回し、姿勢を整える。

さっき残った温度が、肩甲骨の内側を薄く撫でていくような感覚が、まだ消えない。


 そこに、「はぁい、次はわたし〜〜〜♪」

 玲奈ちゃん、バニー姿のまま躍り出る。声は軽いのに、空気を壊さない不思議な足音。

彼女はこの場所の重さを知った上で、遊ぶように見えて実は“場の緩衝材”として立つ。


 私はほっと息を吐く。肩が知らずに持ち上がっていたのだと、今気づく。

「彼、さっきのさぁ、なんか……すっごかった。あたしでも一瞬、息止まったもん」

「玲奈ちゃん、前。肩力まないで」

「え、褒めてるんだから聞きなさいよー」

 彼はノールックで、縄の端を指先に寄せたまま言う。

「姿勢。胸郭の角度だけ集中してください」

「はーい……もー、真剣か!」


 玲奈ちゃんはふっと笑って、すっと表情を変える。

遊びの表面を捨て、すぐに“受ける顔”に戻る速度が速い。


 私は近くでそれを見る。

黒川の言う“表情に逃げないモデル”の条件を、彼女は軽やかに満たす瞬間がある。


 縄が玲奈ちゃんの鎖骨を滑った。その一瞬、空気が戻るような、ひらりとした気配。

彼の手は速くもなく遅くもなく、説明でも演技でもなく、ただ“正しい線を置く”**だけ。


「……あーこう。はいはい。わかった。これ、逃げ道あると逆に動けないやつだ……」

「言語化しないで。身体で覚えてください」

「うっさい、言いたいの!」


 黒川が袖で、鼻で笑う。三上オーナーはグラスを磨きながら、何も言わない。

でも、笑っている気配が空気に乗る。声ではなく、温度で笑う店。


 私はその場の温度に浸りながら、呼吸の位置をもう一度確認する。

彼の縄が示した“戻る線”が、まだ身体の内側を通っている。黒川の縄の“角”は、まだ筋膜の奥にいる。


 その違いをはっきり理解してしまった自分に、ほんの少し——悔しさにも似た、くすぐったい感覚が湧く。


「アマーリエさん」


 彼の視線が、私の胸元に落ちた気がした。いや、違う。呼吸の揺れを見たのだ。

 玲奈ちゃんが私に小声で囁く。

「……ねぇ、あなた、ちょっと顔赤いよ?」


 私は首を横に振る。否定。でも、言葉にできない。言えば壊れる。

“構造の夜”は、言葉で触れると薄くなる。


 玲奈ちゃんは悪戯っぽく笑わず、ただ優しく目を細めただけ。空気を壊さないやさしさ。

この子は本気の時、本当に静かで綺麗だ。


「……うん、わかる。言わない。でもさ、顔に出たなら勝ちだよ、それ」

 静かに、確信の声で。


 そのとき、スポンサー席の女性が立ち上がり、音を立てずに会釈した。

私に向けたわけではない。ただ、“見届けた”人の礼。


 そして階段へ消える。

 胸が、ひとつ波立つ。

 見られた。でも、恥ではない。線の温度を持ち帰る者として、見られた。

 三上オーナーが短く言う。


「……いい夜だな」


 黒川は無言で頷き、彼は縄を畳む音だけで返す。

玲奈ちゃんはタオルを肩にかけ、わざと大げさにストレッチする。その柔らかさに救われる。


 私は胸元に手を当てる。鼓動ではない。呼吸の通り道の確認。まだ温度がある。

——戻されたのに、残った。

 

 糸のような余韻が、皮膚の下をそっと走る。それを隠さずに、でも誰にも見せずに、ただ内側に持つ。

夜はすでに折り返し。階段の向こうに地上の湿気が待っている。でも、まだ降りたくない。

足が勝手に、静寂を長くしようとする。


「……帰る」

 私は小さく言って、肩を落とし、足先を揃えた。玲奈ちゃんが片目だけ笑う。


「うん、持って帰んな。ちゃんとね」

 黒川も、彼も、三上オーナーも何も言わない。ここは、言葉で送り出す場所じゃない。

 氷が最後にひとつ沈む。それが、私の夜の幕切れの音だった。


 ◇

 

 階段を上がると、地下の湿度がふっと軽くなる。

地上は夜気に満たされ、街路灯が一点一点、曖昧な金色の輪を落としていた。都会の夜は乾いている。

けれど、足もとから消えない熱がある。それは汗でも緊張でもない。“見られた呼吸”の名残。


 扉が閉まる。その瞬間、背後の沈黙がひとつの塊になって落ちていく感覚がした。

私は踵をそっと踏みしめ、地面に“現実”の輪郭を受け取る。

頬を撫でる風は冷たいのに、皮膚の内側にはまだ薄い余燼が残っている。


 信号待ちの間、胸郭が静かに上下する。

人の気配と車の音が戻るたび、私は少しずつ“舞台の肉体”から“私の身体”へ戻っていく。

だが、引き剝がれるわけではない。膜のように薄い面が、ゆっくりと重なり直すだけ。


 ポケットの中の鍵が触れ合う音が、妙に鮮明だった。

——あの視線。スポンサー席の女性の、あの見届け方。評価ではなく、証明のような光。


 私は息を小さく吐く。静かに、胸の内で形を整える。家に着き、玄関の灯りに指を滑らせる。

鍵を回す音は、舞台の氷の音に比べればあまりに俗っぽい。けれど、それが今夜は妙に心地よかった。

“戻ってきた”という確かさ。そして——“まだ戻りきっていない”という温度。


 部屋の明かりを最低限だけつけ、衣装バッグを椅子に置く。鏡の前に立つ。

照明が違うのに、肩の内側に残る感覚は地下のままだった。


 レオタードの肩紐を外す。皮膚に触れる空気の冷たさが、逆に熱を思い出させる。

生地を滑らせると、肩甲骨のあたりにうっすらとラインが浮かんだ。縄ではない。

跡を付けるほど縛られてはいない。


 ——けれど、“支点”は残る。

 骨の内側に、重心の置き方が薄く刻まれている。黒川の角が作った“軸”。

彼の線が戻した“体内の回路”。どちらも消えない。混ざらないまま、二重に重なる。


 シャワーを浴びる。水音が、店の静寂とは違う意味で思考を洗う。

肩に当たる水が、筋膜の奥に張り付いた“角”に触れるたび、微かな反応が走る。

そして、胸郭の下、みぞおちの奥に、あの温度がまだ息をしている。


 指でそっと骨格を辿る。触れているのは皮膚なのに、触れている感覚は“内側”。

洗い流すのではなく、確かめている。誰の跡でもない。誰かに付けられた痕跡ではない。

受けた私が、持ち帰った構造。


 水を止め、タオルで髪を押さえる。鏡に映る顔は、舞台のそれと違う。

けれど、眼差しの奥に温度が残っているのがわかる。


「……ふぅ」


 声にする必要のない呼吸が、ひとつ落ちる。今日を締める音。

それは拍手でも、ため息でもなく、静かに“自分へ戻る”音。


 ソファに腰を下ろし、背を預ける。照明を落とすと、窓の外の街が静かに滲んで見えた。

呼吸の奥に残る余韻が、自分の中で形を変える。


 黒川の縄は“形を止める”。彼の縄は“戻す線を渡す”。その違いを、今夜ははっきり理解した。

そして——理解してしまった自分に、少しだけ胸が高鳴る。


 負けではない。優劣でもない。ただ、世界がひとつ増えた。視点が一段深くなった。

目を閉じる。暗闇の中で、肩甲骨の裏にまだ熱がある。それは痛みでも幸福でもない。構造の余韻。


「……おやすみ」


 小さく呟き、瞼を落とす。眠りの直前、胸の奥でかすかに光る。

——戻されたのに、なお立っているもの。

それを誰に見せるでもなく、ただ静かに抱いたまま、私は眠りへ沈んだ。




◇エピローグ ——跡が消える前に


 朝の光は、夜よりも淡い。

カーテンの隙間から差し込むそれは、演目の照明のように鋭くも、街灯のようにぼやけてもいない。


 胸の奥に残っていた温度は、静かに沈んでいた。消えたのではなく、ひとつ下の層に落ち着いただけ。

洗面台の鏡の前で、私は背筋を伸ばす。肩甲骨を寄せ、胸郭を開く。

そして、意識だけで“重心の線”を引く。


 黒川が刻んだ支点。彼が戻した呼吸。

どちらも、触れれば立ち上がる。消えないのは跡ではない。理解だ。


 髪を結い、扉のノブに手をかける。今日も街は騒がしいだろう。

けれど、その騒音の奥に、昨夜の静寂がまだある。


 呼吸をひとつ。自分の中で、そっと結ぶ。 私は朝の光の中へ出た。



◆後書き ——静かな夜の話をしただけです


この作品に性の意図はありません。

描いたのは、不自由でも服従でもなく、

身体と言葉が沈黙の中で線を学ぶ瞬間です。


縄の跡ではなく、

呼吸の跡が残る夜。


見られることと、晒されることは違う。

支配と導きも違う。


“戻されても、立っているもの”

その感覚に触れてくださって、ありがとうございます。


また静かな夜でお会いしましょう。


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