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Chapter 2: if/else 2‐1

仕事におけるモットーはスピード、スピード、スピード。且つ緻密さ。

                       

【X 小田川翔吾アカウントより】



                      2‐1


 頭上から穏やかな日差しが降り注いでくる。福田徹男はペースを上げてウォーキングしたせいか、背中にうっすらと汗が滲んでいるのを意識した。去年バーゲンで買ったユニクロのUVカットパーカーを脱ぎ、肩に担いで再び歩き出す。乾いた風が吹き、汗を冷やして心地がよい。

 道の両側は白を基調としたモダンな住宅が建ち並んでいたが、福田以外に人影はない。建物自体はきれいな家も、敷地に敷き詰められたタイルの隙間から雑草が伸びている。家によっては腰まで伸びているところもあった。将来、草木に覆われて廃墟と化していくこの町を想像し、心に暗い影が差してくる。

 道が途切れた先には広場があった。その中央には、DNAの二重らせんをイメージしたパールホワイトのフィーチャータワーが建っている。広場に入って家に戻ろうとしたときだった。どこからかバスドラムの音が響いてくるのに気づいた。また若い奴らかと思い、胸の奥でさざ波が立つ。

 ほぼ限界集落と化していたこの町だが、一年程前から若い連中が移り住んでくるようになって来た。事件の記憶が薄れてきた証拠であり、それ自体は喜ばしかったのだが、問題は彼らの民度だった。事件が起きてから土地や建物の価格はつるべ落としに落ちていった。ただ、建物は当時の最高水準の技術と設備を備えているから、事件を気にしなければ、驚くほど割安で高品質な家が手に入る。このところ、そこに目を付けた若い夫婦が購入してくるケースが目立っていた。

 しかしこんな事故物件にあえて手を出すぐらいだから、彼らにはデリカシーというものは備わっていない。ミニバンが野太い排気音を響かせながら家の前を通り過ぎ、静かな町に騒音をまき散らしている。今年の正月など、パーティーでもやっていたのだろうか、年が変わった直後に爆竹を弾かせた。きっとこんなジジイが抗議に言っても、奴らは歯牙にもかけないだろう。一応自治会は存続しており、会合も定期的に開催していた。参加者からも彼らの振る舞いに対する不満の声は上がっていたが、自治会で正式に抗議するまでには至らなかった。参加者の大半は福田と同じ高齢者で、余計な波風を立てたくないといった意見が多数を占めていた。

 あんな事件が起きなければ、もっと穏やかな老後が過ごせたはずなのに。福田は苦々しげな目でフィーチャータワーを見上げた。


 小関成実は両手に洗濯物を詰め込んだランドリーバッグを抱えて庭に出た。空は少々雲がかかっていたものの、概ね晴れていて、穏やかな風が吹いていた。雨が降り出すのは夕方らしいので、洗濯物はそれまでに乾くだろう。ベルトループにかけたスピーカーからは、おとといプレイリストに加えたR‐指定のスピーディーなラップが流れている。ランドリーバッグを物干し竿の前に置き、腰に響くリズムに乗りながら洗濯物をかけ始める。家には乾燥機が備え付けてあったが、使うのは雨の日か下着を乾かすぐらいだった。

 以前、道を歩いていた老人が、成実が洗濯物を物干し竿にかけている姿を冷たい目で見ながら通りすぎたことがあった。その時は老人の視線に戸惑ったが、後で彩菜から聞いた話だと、どうやら自治会の規約で、洗濯物を外に干すのは禁止されていたそうだった。

「何よそれ」

「景観が損なわれるからだって」

「バカじゃない?」

「うんうん。ま、うちら自治会なんて入る気もないし、勝手にやってればいいっしょ」

「そうよねえ」

 二人でケラケラ笑いながら話したのを思い出す。

 桃音(モモネ)のトレーナーに澄海(スカイ)のズボン、これはパパのTシャツ。洗濯物は乾燥機なんか使うより、お日様に当てて乾燥させた方が絶対に気持ちがいい。あたしのお母さんやおばあちゃんもみんなこうしてきたんだから。

 洗濯物をすべてかけ終えて一息つくと、柵の向こうに男が一人通り過ぎようとしているのが目に入った。カーキのミリタリーシャツに色あせた洗いざらしのジーンズ。両手をポケットに津込み、やや猫背で歩いていた。ぎょろりとした大きめの目を成実に向け、視線が合う。

「よっ」男が目だけで笑ってみせる。

「あら」

 成実は空のランドリーバッグを抱えながら、能面のように表情を消して柵へ近づく。少し身を乗り出しながら、何気ない風を装って、さっと周囲を見回す。誰もいない。

 男は落ちつかなさげに肩を小さく揺らしていた。「暇か」

 成実は小さく頷く。「入って」

 くるりと反転して足早に戻り、掃き出し窓から家に入る。窓を閉め、カーテンも閉めた。バタバタと音を立てながらリビングを横切り、廊下を進んだ。三和土にある薄汚れたスニーカーを履き、ドアを開けた。目の前にミリタリーシャツの男が立っていた。目を輝かせ、頬が緩んでいる。無言で成実の横をすり抜け、中へ入る。チラリと外に誰もいないのを確認して、ドアを閉めた。男はスニーカーを脱いで奥へ歩き出していた。成実も追いかけるようにして廊下へ進む。男は慣れた様子でリビングを横切ってキッチンへ行き、冷蔵庫を開けた。

「あれ? ポカリじゃないのかよ」

 スポーツドリンクのペットボトルを取り出しながら不満げに呟く。

「そっちの方が安いのよ。最近恵輔も残業が少なくなったから、いろいろ節約してんの」

「お前らも大変だな」

「何言ってんの。大黒柱がこんな時間にプラプラ出歩いているあんたたちの方が、よっぽど大変じゃない」

「そりゃそうだな」

 男はケラケラと薄っぺらい笑い声を出した。棚からコップを取り出して、スポーツドリンクを注いで一気に飲み干した。

「でもさ、俺がプータローだからこうして一緒に会えるじゃねえのか」

「まあね」

 腕を組んだ成実は、視線をあさっての方向に向けながら答えた。

「恵輔は?」

「今週は昼のシフト。夜まで戻ってこないわ」

「だったら二回戦は余裕だな」

「午前中で帰ってよ。午後になったらチビたちが帰ってくるんだから」

「わかってるって」

 男がコップを流しに置き、成実に近づいてきた。成実は組んでいた腕を解く。男の腕が成実の背中に回り込み、体を押しつけてくる。顔が近づいて唇に触れ、タバコの臭いがする舌が侵入してきた。口の中で蠢く舌を、成実の舌が絡め取る。ジーンズの向こう側で熱く硬いものが膨れ上がっているのを下腹で感じながら、体の芯が熱くなっていくのを意識した。Tシャツの裾から男の手が入ってきて、ブラジャーをたくし上げた。緩急を付けながら優しく乳房をもみしだき、硬くなった乳首を親指で微妙な圧で触れて刺激する。この人は、恵輔以上にあたしの体を知っていた。息が荒くなってくる。

 二人は舌を絡め合いながらリビングを移動し、少しへたりが目立つ布張りの三人掛けソファへ倒れ込んだ。服が次々とカーペットの上に落ちていく。成実の荒い息づかいは、やがて激しいあえぎ声に変わっていった。


 天井にあるエアコンの吹き出し口。成実のあえぎ声に反応するように、ルーバーの奥から、ボールペン程の太さをした黒い棒が伸びてきた。

 棒の先には小さなレンズが装着されていた。レンズは裸で絡み合う二人の男女を、音もなく撮影し続けていた。


「それで、吉田は和希と一緒にいるというわけだな」

「はい……その通りです」

 平本は直立不動で額からだらだらと脂汗を流している。八田はポルトローナ・フラウのレザーチェアに身を預け、腕を組んで氷のような冷たい視線を平本に注いでいた。

「それで、お前はこの失態をどうカバーするつもりだ」

「取り急ぎ、吉田との契約は解除し新たな研究者を選定しており――」

「情報漏洩はどうなっている」

「吉田と契約には守秘義務の条項があり、契約解除後も有効となっておりまして――」

「やはりお前はバカだな」八田は口元をわずかに歪ませて笑って見せた。「あの男が守秘義務など守るはずないだろう」

「しかし……いえっ……私はバカであります」

「そうだ。お前はバカでどうしようもない無能だ。ところで、お前の去年の年収はいくらだったかな」

「二千二百六十五万円でした」

「どうして私がお前のような無能に、そんな高額な給料を支払っているかわかるか」

 平本は無言で八田に背中を向けると、ベルトを緩め、スラックスをパンツごと足首までずり下げた。そのまま四つん這いの姿勢になり、シャツとジャケットの裾をたくし上げた。白くむっちりとした子供のような尻が露わになる。八田はかがみ込んで、机の下に置いてある物を掴んで立ち上がった。それは竹刀だった。長さは五十センチ程だ。

「新宿のタワマンからの眺めに、お前の気の強い嫁さんは満足しているか」

「……はい」

「お前の長男は来年高校か。中学からのエスカレーター式だから、受験勉強はそれほど気にする必要はなくてよかったな。まあ、それなりに金はかかるだろうが」

「その通りです」

 机の奥から進み出て、平本の後ろでかがみ込み、手で尻をまさぐってきた。おぞましさで吐き気がしてくる。

「俺はな、お前のこの白くて柔らかい尻が好きなんだ」

 おもむろに右手を振り上げ、スナップを利かせながら竹刀で尻を叩いた。

「ひぃぃっ」

 平本の悲鳴が理事長室に響く。

 二度三度と続けて叩き続けた。叩くたびに痛みが皮膚の奥へ浸透していき、自尊心を壊していく。涙が溢れ、汗と混じって顎からしたたり落ち、えんじ色のカーペットへ染みこんでいった。

 八田理事長のパワハラは、平本がこの病院へ就職したときから噂があった。理事長室から戻ってきた男性秘書が泣きはらしたように目を真っ赤にしていたのは、平本が経理部にいた頃から何度も見ている。しかしここまですると、パワハラのレベルを超えて性的虐待ではないかと思っていた。八田が安置室の遺体を興奮した目で見ていたとかいう話も聞いたことがあるが、あながち噂だけではないのかもしれない。

 やがて息が荒くなり、竹刀を振る腕が疲れてきたようで、叩くのを止める。平本の前へ回り込み、膝を突いて涙でぐしゃぐしゃに汚れている顔をのぞき込む。

「平本」八田は耳元にささやいた。「お前は俺を刑事告訴できる。民事訴訟で慰謝料もふんだくれるかも知れない。どうだ、俺を訴えるか」

 平本はゆっくりと首を振る。八田は満足げに微笑む。

「お前が経理課長だった時代、あの破廉恥な女から搾り取られた病院の金を帳消しにし、追放するどころか第一秘書へ引き上げたのは誰だ」

「八田理事長です」

「そうだ。俺だ。お前は俺に恩があり、俺はお前の弱みを握っている。そして俺はお前に俺の弱みを与えた。つまり俺とお前は一蓮托生だ。わかるな」

「はい」

 これまで何度となく行われてきた儀式。長年八田の性癖が表に出てこなかったのは、何らかの形で秘書の弱みを握っていたからなんだろう。横領で最悪刑事告発もされかねなかった自分を秘書に引き上げたのは、こんな理由があったからなんだ。八田はジャケットの内ポケットからシルクのハンカチを取り出して、平本の涙に濡れた頬を優しく拭った。

「恐縮です」

 そう言いながら平本の目から再び涙が溢れ、頬を濡らす。

「平本よ、お前がこれから何をするべきかわかるはずだ。泣いている暇などない」

「承知しております」

 八田の瞳孔はガラスのように無機質で冷ややかだ。時々、こんな心の奥底が窺えない目で見つめてくるので、平本はすべてを見透かされているんじゃないだろうかと想像し、不気味に思う。怯える平本に満足したのか、八田は頬と唇の皮膚だけを動かして微笑んだ。


「取りあえず、お父さんに会わせていただけますか? 何か知っているかも知れませんし」

「いいわよ。あたしもこれから着替えを持って行かなきゃならないし」

「ありがとうございます。僕、車に乗ってきましたから、一緒に行きましょう」

 結香が父親の着替えをトートバッグに詰め込んで、三人はマンションを出た。吉田が運転してきた車は、巴川の上に作ってあるコインパーキングにあるという。

「あら、ずいぶんかわいい車ね」

 吉田が乗ってきた車は、赤いボディーに白い屋根の軽自動車だった。

「母が買い物に使っているアルトです。小さくて恐縮ですが、一応定員四人ですので」

 和希が助手席に乗り、結香が後部座席に座った。吉田がエンジンをかけてアルトが動き出した。結香のナビで市立病院へ向かう。大人を三人乗せているせいか、加速するたびにアルトのエンジンは苦しげに盛大な音を立てた。

 市立病院へ到着して、駐車場にアルトを停めた。和希たちが病院のロビーへ入っていくと、職員たちが慌ただしく行き来しているのが目に入った。

「何かあったのかな?」

 奥の廊下へ行こうとしたところで、結香の携帯電話がバイブレーションした。

「はい、大浜です……今はちょうどロビーで父の病室へ行こうと……えっ? 待ってくれってどういうことですか」

 事務室からYシャツとスラックス姿の男性が出てきた。慌てた様子でキョロキョロと辺りを見回し、携帯電話を持った結香を見つけると、目を震わせながらかけてきた。

「大浜さんですか」

「はい……」

「ちょっとこっちへ来てください」

「でも、これから父のところへ行かなきゃならないんです」

「そのお父さんのことなんです。それに、今は病室へ入れません」

「父の病状が悪化したんですか? 急に意識がなくなったとか」

「それをこれから事務室で説明します」

「はあ……。和希、どう思う?」

 結香が納得がいかないという風に和希を見た。

「とりあえず、行ってみるしかないだろ」

「そうよね」

「それでは一緒に来てください」

 硬い表情をして男が歩き出す。和希は嫌な予感を抱えながら男の後を追った。病状の説明を病院事務員がするというのも変な話だった。

 事務室の中はロビー以上に騒然としていた。深刻な表情で電話をしている者や「外来患者を帰してもいいんですか」と怒鳴っている女性がいる。

「事務局長、大浜さんをお連れしました」

 奥にいた年配の男が振り向き、小走りで近づいて来た。

「大浜さん、こちらへ来ていただけますか」

 事務局長が奥のドアを開けた。そこは応接室のようで、布張りのソファセットが置いてある。

「お掛けください」

「あの、あたしたち、お父さんに会いに来たんですけど」

「その前に、お父様の状況を説明させてください」

 結香は渋々ながらソファに座った。和希も隣に座る。事務局長は向かいの一人がけのソファへ座った。吉田は和希たちの背後に立った。事務局長は顔をこわばらせ、結香を見つめている。

「大浜さん、落ち着いて聞いてください。お父さんが亡くなられました」

「えっ」あまりに唐突で、結香は一瞬言葉に詰まった。「……病気が悪化したんですか」

「それが……お父さんの状態から見て誰かに殺された可能性が高いようです」

「お父さんが誰かに恨まれているなんて聞いたことないわ」

「結香のお父さんは、どんな風にして殺されたんですか」

 事務局長はローテーブルに目を落とす。額に汗が滲んでいるのに気づいた。

「それが……お父さんは首を切られた状態で見つかりまして……」

「うそっ、あたし見に行くわ」

 結香は立ち上がり、応接室から出ていった。

「待ってください。刺激が強すぎます」

 背後から声をかける事務局長の声を無視して、結香は事務室を出た。病室へ繋がる廊下を駆けるようにして歩いて行く。その後を和希と吉田、そして取り乱した表情の事務局長が追いかけていった。エレベーターに乗り、四階で降りる。廊下を進んで行くと、消毒剤の臭いとは別に、明らかに生臭い血の臭いがしてきた。父親の病室の前には白衣を着た医師が二人深刻な表情で話をしていた。つかつかと歩いてくる結香を見て大きく目を見開き、結香の前に立ちはだかった。

「病室に入るのはやめてください。警察が来て現場検証しますから」

「何言っているんですか。ここにいる人はあたしの父親なんですよ。見るだけならいいでしょう」

 怒鳴る結香の迫力に気圧されて、医師が道を空けた。

「見ない方がいいと思うんですが」

 事務局長の不安げな声を無視してドアを開けた。

「ひいっ」

 結香が喉の奥から吐き出すような悲鳴を上げて後ずさった。和希が結香の背後から中をのぞき込む。

 最初に目に入ったのは真っ赤な血しぶきが飛び散った壁だった。ベッドは赤く濡れそぼり、ポタポタと血のしずくを落としていた。そして、床一面血だまりになった中、ぽつんとボールのようなものが転がっている。人の頭部だ。

 瞳孔が開ききった目をかっと見開き、何か叫んでいるように口を開いたまま固まっている。

 それは重光に間違いなかった。


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