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結香が出ていった後、重光は再びベッドに横たわり、天井を睨み付けるようにして考え込む。まさかあれが生きていたなんて。信じられないが、あの女が存在している以上、現実として受け止めるしかない。あれを止めなければならないが、個人で出来ることなどほとんどない。真実を公表しても、頭のおかしい中年男の妄想と思われるだけだろう。絶望的な思いが体にのしかかってくる。
病室のドアが開き、小太りの中年女性が一人入ってきた。色あせたブルージーンズに、薄いピンクのブラウスを着ている。
「お前……」
重光が半身を起こし、中年女を凝視した。着ている服は違うが、彼女はさっきマンションに現れた女、嶋本だ。
「いきなり襲うのは無しにしてください。もっとも、そんな体力はないかも知れませんけど」
穏やかな笑みを浮かべながらベッドへ近づいてくる。足取りはしっかりしていて、怪我をしている様子はない。重光は身構えつつ嶋本を睨んだ。
「お前はあのとき死んだのではなかったのか?」
「いいえ、確かに多くの機能は停止していましたが、生命はずっと維持されていました。私は、少しずつ回復していったのです」
「ばかな……すべてが無駄だったのか」
重光は嶋本を睨み付けながら、ボロボロと涙を流し始めた。
「心配しないでください。皆さんがこの世界から消えることはありません」
重光は涙を隠そうともせず嶋本を見つめる。「まだそんな事を言っているのか」
「ただし」嶋本は重光の言葉を無視して続ける。「我々が危険だと見なした場合はその存在を排除しなければなりません」
「お前は我々に協力しろというのか。断る、無理な話だ」
嶋本は腕を組み、小さく息を吐いた。「あなたは私たちの友達ですが、仕方がありません。排除します」
重光の手が僅かに震えていた。「私はどうなっても構わない。だが、子供たちには危害を加えないでくれ」
「わかっています。彼らに罪はありません。準備が整い次第、アップグレードいたします」
「お前……」
重光の目が凄味を帯びていく。
和希は結香を待つため、彼女たちのマンションへ戻った。壊れていない椅子に座ると、ひどく疲れているのに気づいた。しかも、さっき散々マクドナルドで食べたというのに腹が減っている。何かないかなと部屋の中を見回すと、食べかけのポテチの袋があった。他人の家の物を勝手に食べるのは気が引いたが、食欲が勝る。プラスチックのクリップを外し、バリバリ音を立てて食べ始めた。
夢中で食べていると、不意に視線を感じて振り向く。破れた窓から男が一人で部屋の中をのぞき込んでいた。子供のようなキラキラした目をしていたが、風貌は明らかに中年男性だった。そのギャップに違和感を抱きつつ、警戒しながら見返した。
「こんにちは、ここが大浜さんのお宅ですか」
「そうだけど、あんた誰?」
「僕、吉田豊と言います。主に遺伝子工学を研究しておりますが、生物学全般に関しても強いです」
「はあ……あんた学者なの?」
「はい、その通りです。現在陽公大学生物学教室で講師の職に就いております」
吉田はニコリと屈託のない笑顔を見せた。
「と言うと……陽公会の関係者ってことなんだね」心の中で危険信号が点滅し始める。「何の用なんだ。大浜さんは今いないよ。俺は大浜さんの知り合いなんだ」
「あ、大丈夫です。今日は大浜さんだけじゃなくて、八田さんにもお話を伺いたくて出向きましたから」
「俺に何の用なんだよ。て言うか、何で俺が八田って知っているんだよ」
「平本さんに伺いましたから」
「あいつか。それで、俺の何を知りたいんだ」
「はい、昨晩熊に襲われたときの状況を教えてください。それと八田さんの体細胞もいただきたいです」
「あんた……なんで俺が熊に襲われたなんて知っているんだ」
「え? だって平本さんが探偵を使って、八田さんのことをずっと監視していましたから。熊に襲われていたところも見ていましたよ」
「平本はやっぱり俺を監視してたのかよ」
不意にバイブレーションする音が聞こえ始めた。吉田がジャケットの内ポケットから携帯電話を取りだした。
「はい吉田です。どこにいるかって? 大浜さんの自宅です。ええ、見事に窓が壊れていますよ。八田さんもいますね……え? ちょっと落ち着いてください。興奮して何を言っているのかわからないんですけと」
吉田は訝しげな顔をして通話を切った。
「なんかあったの?」
「平本さんから電話で、僕が八田さんと会っているって言ったら、いきなり怒り出しましてね。馬鹿野郎とか言っているのはわかったんですけと。どうしたんでしょう」
「吉田さん」
通路から声が聞こえてきた。吉田が横を向いたので、和希はドアを開け、通路を見た。見知らぬ若い男が慌てて駆けよってくるのが見えた。
「あんた、吉田さんですよね」
「ええ、そうですが。あなたは」
「平本さんからあんたを連れてこいって言われまして。さあ、行きましょう」
「いやそれは困る。八田さんから何の話も聞いていないし、細胞も採取したいんだから」
「平本さんの許可を取ってないでしょう。勝手なことをしてもらうと困るんだ」
「あっ、わかった。あなたは八田さんを監視している探偵ですよね」
「そんなことはどうでもいい。早く来てください」
「おい、ちょっと待て」和希が間に入る。「お前、俺をずっと監視していたのか?」
男は一瞬怯んだ表情をみせたものの、ぐいっと和希を睨み付けた。
「あんたに話す必要はない」
「人のプライベートをのぞき見して、話す必要はないとはどういうことだよ」
「なんなら僕が話しましょうか」
吉田は和希と男のいがみ合いなど気にしない様子で、ニコニコ笑みを浮かべている。
「お前、誰から金をもらってると思っているんだ」
「もちろん八田理事長ですよ」
男が「あーっ」と言いながら頭を抱えた。「そんなこと言っちゃだめだ。俺は首になる」
「それよりも、八田さんが熊に襲われたときと、その後の状況を教えていただけますか」
「いや、それよりあんたが何で八田から雇われて何を調べているのか教えてくれ。その内容次第で答えてやってもいい」
「そうですか。じゃあちょっと長くなりますので、家の中へ入らせてもらってもいいですか」
「馬鹿野郎、これ以上傷を広げるんじゃねえよ」
「でも、僕が説明しないと研究が進みません」
「そもそも誰からこの仕事を依頼されているんだ。理事長だろ。その理事長の意向に反してどうするんだよ」
「和希」声がしたので振り向くと、結香が警戒感をあらわにして歩いてきた。「その人たちは誰?」
「もしかして、大浜結香さんですね」
吉田がにこやかに笑いかけたが、若い男は顔を引きつらせた。
「ほら、行くぞ」
男が乱暴に吉田の腕を掴んで引っ張り出した。
「ちょっと待ってくださいよ。痛いじゃないですか」
奥のドアが開いて酒井夫婦が出てきた。「どうかしましたか?」
「俺が吉田さんと話をしているところを、こいつが吉田さんを拉致しようとしているんです」
「拉致だなんて大げさなことを言うなよ」
「でもそうだろ」
男は反論できず、和希を睨んだ。
「状況はよくわからないけど、要するにその男を追い出したいのね。結香ちゃんも同じ意見なの?」
「はい」
「だったら簡単よ。あんたはここから退去しなさい」
「お前に言われる筋合いはねえ」
「いやあるんだよ」老人がしわがれた声で言う。「ここは私有地。住民の退去要求に従わなかった場合は不退去罪になるんだ。警察を呼ぶぞ」
「何だと」
男が凄んだが酒井夫人は怯まず携帯電話を取りだして番号を押し始めた。
「待て、電話をするんじゃねえ」
「だったら出て行きな」
男は酒井夫婦を睨み付けていたが、夫人が再び携帯電話を持ち上げると「覚えてろ」と捨て台詞を残して歩き去って行った。
「ありがとうございます」
結香が進み出て、酒井夫婦にお辞儀をした。
「変な奴らが来たら、この手を使うといいよ」
老夫婦は結香に笑いかけ、自分の部屋へ戻っていった。結香は腕を組んで吉田に向き直る。「で、あんたは誰なの」
「僕は陽公大学生物学教室の講師をしている吉田と申します。今日は八田和希さんの体について調べさせてもらおうと思いまして伺いました」
「この人、俺が熊に襲われていたのを知っているんだ。潤一の居場所を知っているかも知れないよ」
「潤一さんがどこへ行ったのかは、残念ながら知りません」
「だったら何で熊のこととか知っているんだ」
「八田理事長から八田さんの体を調べてくれと依頼を受けまして」
「取りあえず家の中で話を聞かせてもらえない?」
「そうだな。入れよ」
「はい、お邪魔しまーす」
三人は部屋に入った。再び吉田の携帯電話がバイブレーションし始めた。
「また平本さんですね。めんどいですから切っておきましょうね」
ニコニコしながら画面を操作して、バイブレーションがやんだ。和希が唖然として見ている。
「それでいいのか? 平本はあんたの雇い主じゃないのか」
「どうしてですか」吉田は狐につままれたような顔をしてみせる。「僕は和希さんの体を調べるために雇われたんですよ。それを邪魔する方がおかしいんです」
「て言うか、きっと俺に隠れて調べるのが前提じゃなかったの?」
「あ……そうかも知れませんねえ。でも、それって面倒くさくないですか?」
「そんなんでいいの?」
ケラケラ笑い始めた吉田を、和希と結香が呆れた顔で見ていた。吉田はそんな二人を気にもせず、部屋の中を見回している。
「窓もそうですけど、壊れているところが多いですねえ。何があったんですか?」
「その前に、俺の何を調べているのか教えてくれよ」
吉田はくりくりした子供のような目で頷いた。
「八田理事長から仕事の依頼があったのは半年前でして、自分の甥の細胞を調査して欲しいということでした」
「なんで俺の細胞なんだよ」
「和希さんは八田理事長の跡継ぎ候補ですから、細胞レベルから徹底的に調べなければならないとおっしゃってましたが」
「確かに八田さんに子供はいないけどさ、俺、医者になるつもりなんて毛頭ないからさ」
「でも、今からでも遅くないから、東京へ戻って医者になる勉強をしろって言われているんでしょ」
「まあな」
「それにしても身辺調査ならともかく、細胞まで調べろって、ちょっと異常よね」
「確かにな。それに、吉田さんを連れ去ろうとした男、あいつって探偵だよな。俺をずっと監視していたのか」
「そのように聞いていますけど」
「やっぱりそうか。どおりで平本が俺の行動を把握していたはずだよ。あのとき二度と監視なんかしないと言ってたはずなのに」
「盗聴がばれた時ね。そういえば、あたしも病院で探偵に声をかけられたわ。永松っていう人よ」
「そいつって、陰気な顔したオヤジだろ」
「うん、そうそう」
間違いない、自分のアパートに取り付けた監視カメラに映っていた男だ。
「俺の部屋に盗聴機を仕掛けた奴さ。そいつも八田が雇っているんだ。やっぱり平本の説得を受け入れないで、あのとき捕まえてもらえばよかったよ」
「僕を連れて行こうとした探偵から、さっきビデオをみせてもらったんです。そこには熊に襲われた和希さんが映っていました。和希さんは熊に襲われて大量の出血をしましたが、失血死しませんでした。しかも短期間で傷口が塞がりましたね」
「あの血っていうのは、やっぱり俺の血だったのか」
そう言いながら、首に触れた。
「あ、無い」
首元にあった陥没したところがなくなり、滑らかな表面に戻っていた。「ここに傷跡みたいなのがあったんだが、もう消えてるよ」
「うーん、そうなんですね。これは和希さんの身体が生命を維持するため、急速な皮膚と筋肉の再生を行ったと同時に、骨髄で大量の赤血球産生が行われたんでしょう。もしこれが本当に起きたことなら、たいへんな発見ですよ。今回僕がここへ来たのも、和希さんに詳しいお話を聞かせてもらいたかったからなんです」
「ねえ、その映像に、お兄ちゃんが映っていなかった?」
「僕の見た映像には映っていませんでしたけど、お兄さんはワンボックスの車に乗せて行かれたそうです。お兄さんをワンボックスに乗せていった方の正体はわかりませんが、もうひとり、女性が現れて、熊をナイフで切りつけようとしていました」
「それって、もしかしたら嶋本じゃないのか? 小太りのおばさんなんだけど」
「残念ながら、暗くて顔は見えませんでした。ただ小柄で、動きが異常に早かったです」
「きっと嶋本だ」
「熊は逃げ出して、女性が追いかけていったそうです」
「俺と潤一と結香のお父さんて……俺の知らないところで嶋本と繋がりがあるんだろうか」
「結香さんのお父さんに、何があったんですか」
和希は突然奥の部屋から犬が現れて、嶋本を襲った話をした。
「結香のお父さんが、犬に変身したとしか思えないんだ」
「うーん、ぜひお父さんの細胞も分析したいです」
「でも、どうして俺や結香の父さんにそんな力があるんだ? ただでさえ変なのに、二人同時にこんなことがあるなんてあり得ない」
「そうですよねえ。結香さんのお父さんについて何か知っていないか、平本さんにちょっと聞いてみましょうか」
吉田がスマホの電源を入れて電話をかけた。
「はい……あのですね……えっ?……そうなんですか」
吉田が不思議そうな顔をして電話を切った。「平本さんに『お前とは契約を解除する』と言われちゃいました」
「そいつは残念」和希が全然残念そうでない顔で呟く。
「あの人たちが秘密にしようとしていることを、ベラベラ喋っちゃうんだから当然でしょ」
「でもね、学者というのは真理を追究するものなんですよ」
「だからといってスポンサーの方針に反するのはだめよ」
「そうなんですか……」
小学生のようにしょげかえっている吉田を見ていると、おっさんなのに情けないと思いながらも、なんだかかわいそうになってくる。
「解雇されて大変なところ申し訳ないけど、俺たちに協力してくれるかな。吉田さんの話がホントなら、俺たちじゃあ手に負えないよ」
「そりゃもちろん協力させていただきますよ。研究対象として、大変興味深いですから」
「でも失業しちゃったんでしょ。次の就職先を見つけなきゃいけないんじゃないの」
「あ、僕は独り者で親と同居してますんで、当面衣食住には困りません」
ニコニコ微笑む吉田に、結香は呆気にとられて「はあ」と答えるしかなかった。




