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 一時間ほどして結香から電話があった。父親は生きているが、ひどく消耗しているらしい。

「目は開けたんだけど、まだはっきり喋れないみたいで。どうしてあんなところへ倒れていたのかって聞いても答えてくれないの」

 電話から、すすり泣く声が聞こえてくる。

「ちょっと待てよ、落ち着けって」

「だってお兄ちゃんもいないのよ」

「大丈夫だ。俺が探すから」

「どうやって探すのよ」

「それは……」

 次の言葉が出てこない。

「嶋本はどこ行っちゃったのよ」

「シャチに食われた」

「はあ? バカじゃないの。清水にシャチなんかいるはずないでしょ」

「それが本当にいたんだよ。巴川から現れて、川岸にいた嶋本を咥えて水の中に入っていったんだ」

「訳のわかんないこと言ってないで、お兄ちゃんについて何か言ってなかったの」

「何も……」

「だったら何の手がかりもないってことね」

「そういえばあのおばさん、藤が丘事件とか言ってたんだけど、結香は知ってるか?」

「知らないわ。ネットで調べてみたら」

「そうだな。一旦切るよ」

 犬とか熊とか、いったいどうなってんだと思う。しかもあのおばさんはシャチに食われちまったし。スマホのブラウザをタップし「藤が丘事件」と入力して検索する。ずらずらと結果が表示されたので、その中から適当にクリックする。


 藤が丘の今

 この日筆者はOO駅で借りたレンタカーに乗り、藤が丘シティへ向かっていた。

 抜けるような青空には一面うろこ雲が広がり、爽やかな秋風が半分開けた窓から吹き込んでくる。レンタカーの前後に走行している車はなく、時折対向車とすれ違うのみだ。明らかに以前より車の量は少なくなっていた。緩やかなカーブが続く山道を五分ほど上ると、藤が丘シティが見えてきた。スピードを落とし、車内から町並みを観察した。相変わらず白くて清潔な作りの住宅が建ち並んでいたが、赤字に「売物件」と書いた看板が目立っている。そういった家は既に手入れがされていないのだろう、敷地と歩道の境に雑草が生えていた。かつてコンビニがあった建物も既に空き家で、道と駐車場は柵で仕切られている。

 更に直進していくと、フィーチャータワーがはっきりと見えてきた。パールホワイトの円柱状で、DNAを模ったゴールドとシルバーのモールドが二本、らせん状に絡み合いながら取り付けられている。

 車をタワーの横に停め、外に出た。事件当時多数のマスコミで溢れ返った広場は閑散としていた。タワーの入り口には明かりが灯っていない。一応前に立ったが、自動ドアも作動していなかった。足下にはコンビニコーヒーの空カップが三つ放置されていた。以前ここで、死んだふりをした画像をSNSへアップして、炎上した若者を思い出す。

 さすがにそこまではしないものの、興味本位で訪れる若者もいるのだろう。もっとも、広義の意味では筆者もその一人かも知れないが。


 和希は読み疲れ、途中で検索画面に戻した。この記事は読み手が藤が丘事件を知っている前提で書いているらしい。検索結果の中にウィキペディアがあった。最初からこっちを読んどけばよかったと思いながらタップする。


藤が丘シティ連続殺傷事件

20XX年5月15日、山梨県D市藤が丘にある藤が丘シティで発生した大量殺傷事件。被害者のうち三十五名が死亡し、四十名が重軽傷を負った。死亡者の中には幼児三名を含む未成年が九名いた。凶器にはアサルトライフル(中国製M4タイプ)が使用された。

 加害者は男性二人名。(便宜上加害者をX、Yとする)彼らは藤が丘シティを管理運営するフィーチャーライフの社員だった。

 事件が起きたのは午後七時。当日は中央広場で開催された藤が丘シティオープン二周年祭が行われており、多くの住民が参加していた。加害者は挟み撃ちする形で無差別に射撃を始め、次々と人が倒れていった。

 犯行は執拗かつ残虐で、撃たれてもまだ生きている者の頭部を撃って止めを刺す様子が目撃されている。女児を抱きかかえ、命乞いする母子も撃ち殺した。逃げるために通路へ殺到し、将棋倒しになった人々へも無差別に発砲している。

 住民の通報により警察が到着後、犯人は逃走した。加害者Xの自宅を捜索したところ、室内でX、Yに加え、Xの家族の射殺死体が発見された。状況により自殺と思われる。


 動機

 様々な説が提起されているが、決定的なものは未だ確定されていない。犯行に使用された拳銃と実弾は、事件が起こる二ヶ月前にYがフィリピンへ渡航した際に入手したと思われる。その後、Yはヨットをチャーターして石垣島付近へ航海し、同時期に石垣島へ旅行に出かけたXに引き渡しされた可能性が高い。こうした状況から、犯行は極めて計画的だと考えられる。


事件後

 被害者と被害者の遺族が、藤が丘シティを管理運営していたフィーチャーライフに対し、総額百億円の損害賠償を求めて、山梨地方裁判所に民事訴訟を提起した。フィーチャーライフは加害者個人の犯行であり管理責任はないと主張し、全面的に対決している。

 生き残った藤が丘シティの住民の多くが転居していった。残った者も転居を希望していたが、大半は住宅ローンが残っており、転居後の住居費用を支払えないという問題を抱えていた。彼らはフィーチャーライフとの保守管理契約を解除した。半年後、フィーチャーライフは事業の継続が困難になったとして廃業を表明した。債務は親会社であるフィーチャーホールディングが引き継ぐこととなった。

 当時の生存者の中には重篤なPTSDを発症し、自殺した者もいる。藤が丘シティ残留者では特にその傾向が強く、一家心中を含め、一年間で五名が亡くなった。残留者の中には自己破産をしてまで転居する者も現れた。


 ひどい話があったんだなと思う。しかし嶋本は何で俺にこんな話をしたんだろうか。和希は結香に電話をして、藤が丘事件の話をした。

「あたしも調べたわよ。そんなことがあったなんて全然知らなかった」

「だよな」

「あたし、取りあえずお父さんの服を取りに家へ戻るわ」

「お父さんの容体はどうなんだ」

「あたしが誰だかわかるようになってきたし、意識は段々はっきりしてきたみたい。でもこれから精密検査をするんだって、それが問題なければ退院できるそうよ」


 結香は電話を切った。病室へ戻ると、父親の重光がベッド仰向けに横たわっているのが目に入った。天井を睨み付けるようにして見ていた。結香が戻って来たのに気づくと表情を緩める。

「お父さん、これから家に戻って服を取りに行ってくるわ」

「ああ。すまないけれど頼むよ」

「ねえ、本当に何が起きたのか覚えていないの?」

「今のところはな」

「ホントでっかい犬だったのよ。あんなのが家の奥にいたなんてあり得ないんだから。お父さんが入れたとしか考えられないわ」

「そうなんだ。そのうち俺も思い出すよ」

「和希も巴川にシャチが現れたとか変なこと言ってるし。どうなっちゃってるのかしら」

「シャチ? シャチが出てきて何をしたんだ」

「川の岸際に嶋本さんが倒れてたら、シャチが出てきて嶋本さんを加えて、川の中へ沈んじゃったんだって」

「ほう」

 重光の目が一瞬鋭く輝いた気がしたが、すぐに元へ戻った。気のせいかなと思う。

「ともかく行ってくるからね」

 結香は病室を出た。当然帰りは救急車が送ってくれることはない。辛うじて財布を持ってきてよかったと思いながらロビーに出ると、目の隅に視線を感じて待合ベンチを見た。上下グレイのセットアップを着た痩せ気味の中年男が立ち上がり、近づいて来た。目尻の皺が目立つ貧相な顔立ちで、ジャケットは少々よれている。初めて見る顔で、結香は身構えた。

「大浜さんですね」

「……はい」

 警戒しながら答える結香に、男は笑みを浮かべながら「私、こういう者です」と名刺を差し出した。「永松探偵事務所 永松洋一」と書いてあった。

 名刺を見て再び男を見た。胡散臭げな顔になっているのを意識したが、隠す気にはなれなかった。「あたしに何か用ですか? 急いでいるんで」

 歩き出そうとした結香を、慌てて遮るように両手を広げる。「申し訳ないです。すぐに終わりますから、ちょっとだけお話を聞かせてください」

「はあ……」結香は仕方なく立ち止まる。

「私、とある依頼主から八田和希さんについて調査を依頼されておりまして、関係先へお話を伺っているところなんです」

「八田和希なんて人、知らないわ」

 再び歩き始める結香に永松は「ああ、ちょっと待ってください」と言いながら、また手を広げ、行く手を遮った。

「八田さんがお兄さんと一緒につるんでいるのは知っていますし、八田さんが大浜さんの家に入っていくのも確認しているんです」

「だから何よ。もしそうでも、あたしは八田さんのことなんか一切喋らないですから」

「そんなこと言わないでくださいよ。お兄さんの行方もわかるかも知れないし」

「兄の居場所を知っているんですか?」

「まだはっきりしているわけではありませんが。もし私に協力していただけたら、お兄さんについて情報を提供できるかも知れません」

 迷ったが、潤一の行方はわからず、八方塞がりだ。結香は小さく息を吐いた。「和希の何が知りたいんですか」

 永松がわずかに下品な笑みを浮かべた。――お前が和希のことを知っているのはわかってたんだ――きっとそう思っているんだろう。結香は譲歩したことを後悔した。

「おとといの夜から、さっきお父さんが倒れていたまでの話をお聞かせ願いたいのです。和希さんからはどのようなお話を聞いているんですか」

「それは……」

「たとえ突飛に思える話でも大丈夫です。私は信じますから」

「何か知っているんですか」

 たじろぐ結香にたたみかける「八田さん、熊に襲われましたね」

「そう言ってましたけど」

「実は私、八田さんが襲われた現場にいたんですよ」

「そうなの? じゃあ、お兄ちゃんがどうなったか知っているんでしょ」

「立ち話も何ですから、そこに座ってお話を聞かせてくれませんか」

「わかりました」

 相手のペースに乗せられていると思う一方、兄の行方は知りたかった。さっさとベンチに座る永松の隣へ仕方なく座った。

「和希が熊に襲われたとき、兄はどうなったんですか」

「その前に、お父さんの身に何が起きたのか教えていただけますか。マンションの窓が派手に壊れていましたし、その辺りも含めて」

「はい……」

 結香は嶋本が来たところから、巨大な犬が現れて嶋本に襲いかかったことを話した。

「で、最終的にその嶋本さんがシャチに襲われたと言うんですね」

「和希はそう言ってますけど」

「いや大変参考になりました。ありがとうございます」

 ニコニコと笑みを浮かべながら松永が立ち上がろうとする。

「えっ、ちょっと待ってくださいよ。あたしは兄の行方を知りたいんです」

「ああそうでしたね」

 中腰になった永松は、半笑いを浮かべながら再び座る。馬鹿にしやがってと思い、永松を睨み付ける。

「八田さんが熊に襲われたとき、小太りの女が現れたんですよ。女は八田さんへのしかかった熊に、刀みたいな物で切りつけましてね、熊は八田さんから逃げ出しました。女は熊を追いかけていったのですが、すぐに戻ってきて、唖然としている潤一さんを抱えてどこかへ消えてしまったんです」

「その小太りの女性って、もしかして嶋本さんじゃないんですか」

「私も嶋本さんを見たことがないのでなんとも言えませんが、その可能性は高いと思いますね」

「じゃあ、嶋本さんがシャチに食べられちゃったら、お兄ちゃんの行方はもうわからないってことじゃない」

「ただ、そもそも論ですが、この辺りにシャチが現れるなんてあり得ませんからね。八田さんが嘘をついているのかもしれません」

「和希は嘘なんかつきません」

「じゃあ、幻でも見たのかもしれませんが、いずれにせよもう少し調べなければなりません。もしお兄さんの行方がわかったらお知らせしましょう。大浜さんも何か新しいことかわかったら、名刺の携帯番号へ連絡をしていただけますか」

「はい」

「よろしくお願いします」

 永松はにっこりと微笑んで立ち上がった。「では」

「ちょっと待ってください、永松さんの依頼主っていうのは誰なんですか」

「お答えできませんね」

 さらりと言って歩き出し、さっさと病院から出て行った。


 永松は駐車場へ戻り、レンタカーへ入ると、内ポケットから電子タバコを取り出してスイッチを入れた。蒸気を吸い込んで吐き出すと、混乱した思考が落ち着いてくる。

 シャチが川から出てきて女を襲ったって? どいつもこいつも訳のわからないことを言ってやがる。スマホを取り出して電話をかける。十回目のコールで留守電に代わる。一旦切ってまたかける。今度は八回目で相手が電話に出た。

「遅い、早く出ろよ」

「車の運転をしていたんですよ。そんなに繰り返しコールしなくたって、折り返し電話しますから」

「いつも返事をしてこないくせによく言うよ」

「着信を見落としてたんですよ」

「探偵業をやってるのに着信のチェックをしないなんてあり得ないぞ。俺の電話に出たくなかっただけなんだろ」

「着信が多すぎて見落としてたんです。それで、俺に何の用ですか」

「八田の件に決まってるだろ。監視をしている小僧から報告があったか」

「はい。大浜のマンションから、女と大型犬が飛び出してきたといってました。その後、大浜の父親が全裸で倒れているのが見つかって、救急車で運ばれたということですけど」

「八田和希と理事長の関係について、詳しく調べてくれ」

「唐突に何ですか。あんた、八田理事長から切られたんでしょ。復讐でもするんじゃないでしょうね」

「あの程度で復讐なんかしたら、体がいくつあっても足りねえや。つべこべ言わずに調べろ」

「簡単に言いますけどね、調べるにしても人件費がかかるんですよ。それくらい同業者ならわかるでしょ」

「そんなもん、八田の経費に紛れ込ませればいい。散々やってきたじゃないか」

 電話口で男が押し黙る。永松はニタリと嫌らしい笑みを浮かべた。

「お前、それで事務所をデカくしてきたんじゃないか。俺は知っているんだよ。何なら、お前の客にいろいろ説明してやってもいいんだぜ」

「永松さん、それって恐喝ですよ」

 電話の声が一段低くなる。

「別にケツの毛まで毟ろうって訳じゃねえ。お前が乗ってるポルシェの維持費だと思えば安いもんだ」

 永松は一方的に電話を切った。再び電子タバコを吸い、車のエンジンをかける。

 俺の代わりが間宮でよかったと思う。あいつならしっかり弱みを握っているから、何でも言うことを聞く。電話ではあんなことを言ったが、そのうち金に困ったら、骨の髄までしゃぶってもいい。もちろん良心の呵責なんてこれっぽっちもない。何しろあいつは盗聴、横領何でもあれの俺と同じ穴の狢だ。それで事業を広げてきた。そういう意味では俺なんかより更に悪辣だ。

 永松はレンタカーを駐車場から出し、清水駅へ向かいながら考える。熊なら人間が飼っていた可能性もゼロではない。だが、シャチがこの町に現れるなんて、限りなく百パーセントあり得ない。あんな現実離れした話をしているとしたら、薬物による幻覚だろう。八田の奴、あの小僧に妙な薬物でも持ち出されたのかな。だとすると、俺は大病院の理事長のでかい弱みを握ることになる。八田、待ってろよ。永松はステアリングを握りながらニタリと笑った。


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