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「お掛けください」
嶋本は傷の目立つ木製のテーブルセットへ座った。向かいに和希と結香が並んで座る。
「兄の居場所を知っているんですか」
「はい」
結香が急き込むように身を乗り出す。「どこにいるのよ」
嶋本の口元から笑みが消え、すっと冷たい目になる。
「今はまだお答えできません。潤一さんと会うためには条件があります。あの黒い鳥を捕まえてください。生死は問いません」
「何であんたはあの鳥にこだわるんだよ」
「お答えできません」
「それで俺たちに協力しろって言うのか? 馬鹿じゃねえの」
奥の部屋のドアが、ガタガタと音を立て始めた。
「お父さん、どうしたの?」
「そう、お父様にもお話を聞いていただかなければいけませんね」
嶋本が呟いたときだった。ドアが爆発するような音を立て、弾けるように開いた。
中から黒い影が飛び出し、嶋本に襲いかかった。
嶋本がその体型からは想像できない程の素早い身のこなしで、椅子から飛びすさる。 椅子が黒い影に弾かれ、食器棚に衝突した。
犬のような動物が、四本の脚で立っていた。体調は軽く一メーターを超えているだろう。全身は灰色の毛で覆われ、ピンと耳を立ててい。興奮しているのか、口を開いて激しく呼吸を繰り返し、鋭い犬歯と真っ赤な歯茎を覗かせている。その目は鋭く、睨み付けるように部屋の隅へ移動した嶋本を見つめている。
「な、何よこの犬」
結香はバタンと椅子を倒しながら立ち上がる。後ずさったが、椅子に足を取られて無様に転んだ。和希は恐怖で固まったまま立ち上がることも出来ず、犬を凝視していた。
嶋本と犬がにらみ合う。犬がぐっと脚をかがめたかと思うと、エネルギーを解き放ち、嶋本に向かって飛びかかる。
嶋本はジャンプした。中空で壁を蹴り、襲いかかる犬を飛び越えた。流しの手前で着地すると、躊躇せず窓ガラスに向かって飛び上がる。
頭から窓に衝突した。枠ごと吹き飛ばし、外へ逃げた。
すかさず犬は反転し、テーブルの上に乗ってジャンプする。流しに着地して、嶋本が破った窓を抜けていった。
和希はようやく金縛りから解けて、立ち上がることが出来た。しかし、今起きたことの整理がつかず、頭の中は混乱したままだ。横には倒れたままの結香がいた。
「大丈夫か」
「うん」
和希が手を差し出し、掴んだ結香を引き上げた。最初に目に入ったのは陥没した壁だった。位置は和希の胸辺りで、一メートルは軽く超えている。あの位置から壁を蹴って平行に飛ぶなんて、人間ではあり得ない。
室内には強い獣の臭いが残っていた。破れた窓と、破壊されたドア。食器棚に衝突した椅子は脚が折れていた。今起きたことは現実なのかとも考えたが、残された破壊の跡は厳然と存在していた。
「お父さん」
結香がおぼつかない足取りで、破壊されたドアの奥へ入っていった。和希も恐る恐る部屋を覗き込んだ。明かりのない部屋は薄暗く、中央に布団が敷いてあった。六畳ほどの狭い部屋だったので、そこに結香しかいないのははっきりわかる。
「お父さん、どこ行っちゃったのよ」
結香が声を震わせながら和希をまじまじと見つめている。
「お父さんはこの部屋にいたのか」
「うん」
戸惑いながら、部屋に入った。ここにも獣の臭いが漂っている。まさかあの犬に食われちまったんじゃないよなと思う。
「何だよこれ」
布団の中央で、血にまみれた髪の毛が散乱していた。髪の毛に混じって、白いものが見える。和希は顔を近づけてまじまじと見る。
「これ、歯だよな」
「いったいこれ何なのよ。お父さん、どこへ行っちゃったのよ」
和希は目が泳ぎ、パニックになり始めている結香の手を握った。結香がすがるような目で見てくる。
「落ち着こう。慌てたって、潤一やお父さんが帰ってくるわけじゃないんだし」
「うん」
結香の目が潤み、ぽろぽろと涙が溢れてくる。
歯の根元にピンク色の肉が付着していた。髪の毛も毛根が残っている。まるで歯と髪の毛を無理矢理引き抜かれたかのようだ。一体重光の見に何が起きたのだろうか。まさかここで誰かに拷問を受けたわけじゃあるまい。
「こんにちは」
ドアの向こうから声が聞こえてきた。リビングへ戻ると、破れた窓から白髪頭の女性が怯えた表情で顔を覗かせていた。
「結香ちゃん、これ、どうしちゃったのよ」
「犬とおばさんが暴れたんです」
「はあ……」
女性は疑い深げに部屋の中を見回し、和希に視線を移した。「この人誰?」
「兄の友達です。この人が暴れたんじゃないですよ」
「ふーん」女性はなおも疑い深げな顔をしていた。
「この人、隣に住んでいる酒井さん」
「初めまして、八田です」
「お父さんはどうしているの?」
ぺこりと頭を下げる和希を無視して問いかける。
「それが……いないんです」
「ともかく、こんな状態じゃあ物騒だし、大家さんに連絡して直してもらった方がいいよ」
「そうします。お騒がせしてすいません」
結香が頭を下げると、外から「おーい」としわがれた声が聞こえてきた。
「どうかしたの」女性が外に向かって声をかけた。
「道路で人が倒れているんだ。もしかして、大浜さんじゃないかと思ってさ」
「ええっ、ちょっと待ってよ」
結香が靴を履いて、外へ飛び出した。和希も続いた。通路には女性と脳天が禿げた老人がいた。
「こっちこっち」
慌てた表情で手招きをしながら小走りで進み、道路へ出た。工場がある方向に三人の男女がいて、足下に人が倒れているのが見えた。結香が老人を追い越して走り出した。和希も走る。
男は全裸で、駐車場と道路の間で横向きに倒れていた。間違いなく結香の父親だった。目を閉じ、苦しげに眉間に皺を寄せている。肩がわずかに上下しているので、生きているのは間違いない。
「お父さん」
結香がしゃがみ込み、父親に触れようとすると「ちょっと待って」と立っている男が言った。
「脳梗塞なんかだと、下手に動かさない方がいいよ。救急車を呼んだから、もうすぐ来るはずだよ」
「はい……」
「しかし、どうして裸なんだろうな」
「わからないです」
父親に外傷らしき跡は確認できなかったが、ひどくやつれた顔をしている。結香は父親の肩に触れ、「お父さん」と繰り返し呟いていた。
「この人、あなたのお父さんなの?」
「はい、そうです」
中年女性の問いかけに結香が頷いた。
「あたしたち、そこのホテルで働いているんだけど、外で犬のうなり声と何かぶつかるような音がしたんで出てきたら、この人が道に倒れていたの」
「あのうなり声、凄い迫力だったよ」
和希もしゃがみ込むと、獣の臭いが鼻を突いてたじろいだ。結香の父親が、あの巨大な犬に変身していく様子を想像してしまう。
救急車が到着した。隊員が結香の父親を救急車に乗せ、結香も一緒に乗りこんで走り出した。集まっていた人たちが戻っていく中、和希だけが一人取り残された。混乱した頭の中、取りあえず潤一のマンションに戻ろうと思う。鍵もかけていないし、窓も壊れたままじゃ物騒だ。
背後から、ブーンという羽音が聞こえてきた。振り返ると、黒い鳥がホバリングをしていた。
「お前は一体何なんだよ」
怒りにまかせて飛び上がりながら手を伸ばすが、その前に、鳥は手の届かない場所まで上昇した。
「馬鹿野郎」
吐き捨てるように呟き、歩き出そうとするが、鳥が目の前でホバリングをし始めた。
「シッシッ、あっち行け」
手を伸ばしても、鳥はひらりと躱してしまう。
「俺に何かさせたいのかよ」
鳥が動き出し、巴川の堤防の上に止まると、パタパタと羽ばたいた。何かに注意を促しているような素振りだ。和希は生け垣を乗り越え、鳥の横に立った。
「なんかあるのか――」
ふと川を見下ろすと、際の濡れたコンクリートの上に、小太りの中年女――嶋本が倒れていた。自分と目が合い、思わずたじろぐ。
「騒ぐな、他の奴らに言ったら潤一の命はない」
「わかった」
嶋本の迫力に気圧されて、反射的に頷く。
「それと、その鳥だ。さっき俺が指示した件は継続中だ。その鳥を捕まえろ。それが出来なければ潤一を殺す」
和希は動こうしない嶋本を訝しんだ。「あんた、怪我をしているのか?」
嶋本の顔がわずかに歪んだ。額に汗が滲んでいる。
「そんなことより、鳥をなんとかしろ」
鳥を見て、再び嶋本を見る。「潤一を人質に取ってまで、なんでこの鳥を捕まえたいんだ? 研究機関から逃げたとかいうのは嘘だろ」
「ああ、嘘だ。と言うより、そういうアーキテクチャだ」
「アーキテクチャ? 言っている意味がわかんないんだが」
嶋本が訝しげに和希を見た。「お前、何にも知らないのか?」
「知らないから聞いているんだろ」
「藤が丘事件の話もか」
「藤が丘? なんだよそれ」
「おかしい、私の情報と合致しない」
嶋本の背後で、巴川の静かな水面がわずかに盛り上がった気がした。和希の訝しげな視線に気づき、振り返る。
はっきりと盛り上がっていると思った瞬間、水面が弾けるように爆発した。
ヌラヌラと光沢を放つ巨大な口吻が飛び出す。上半分が黒、下は白で、魚の形をしたそれは、目に当たる部分が白く抜き出ている。
「シャチ?」
ジャンプするように体の半分を覗かせながら、嶋本に襲いかかる。嶋本は目を大きく見開きながら立ち上がりかけたが、横に体を捻ったシャチに胴体を噛みつかれた。コンクリートの段差に乗り上げたシャチは、嶋本を咥えたまま、転がるようにして川へ落ちた。水面が破裂するような音を立てて沈んでいく。
水面が大きく波打っている中、シャチも嶋本も川の中に沈んで見えなくなっていた。時間にして、ほんの数秒ほどだ。
「大きな音がしましたけど、何かあったんですか」
さっき潤一の父親を発見した人たちがまた出てきた。
「シャチが現れたんです」
「ここで?」
「はい」
「あり得ない」中年男が馬鹿にしたように鼻で笑った。「北海道に行けばいるらしいけど、ここにはイルカも来やしないよ」
周囲の人たちも中年男に同意するように頷く。和希はまだうねっている川面を見た。「でも、本当にシャチが現れたんです」
「誰か橋の上からシャチの置物でも不法投棄したんじゃないのか?」
「いや、置物なんかじゃないです」
和希の言葉は誰も信じす、置物だろうという雰囲気になって、ホテルへ戻っていった。一人取り残された和希は、水面が赤く染まりだしたのに気づいた。鮮やかな赤が急速に広がっていく。
これって、嶋本の血じゃないのか。
思わずたじろぎ、生け垣に足を取られて転びそうになった。水中で、生きながら食われていく嶋本を想像し、吐き気がしてくる。
もう一度川をのぞき込む。血はゆっくりとしたスピードで、河口へ向かって動き出していた。見たくはなかったが、血から視線が離れられない。




