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1‐5

             1‐5

「お掛けください」

 嶋本は傷の目立つ木製のテーブルセットへ座った。向かいに和希と結香が並んで座る。

「兄の居場所を知っているんですか」

「はい」

 結香が急き込むように身を乗り出す。「どこにいるのよ」

 嶋本の口元から笑みが消え、すっと冷たい目になる。

「今はまだお答えできません。潤一さんと会うためには条件があります。あの黒い鳥を捕まえてください。生死は問いません」

「何であんたはあの鳥にこだわるんだよ」

「お答えできません」

「それで俺たちに協力しろって言うのか? 馬鹿じゃねえの」

 奥の部屋のドアが、ガタガタと音を立て始めた。

「お父さん、どうしたの?」

「そう、お父様にもお話を聞いていただかなければいけませんね」

 嶋本が呟いたときだった。ドアが爆発するような音を立て、弾けるように開いた。

 中から黒い影が飛び出し、嶋本に襲いかかった。

 嶋本がその体型からは想像できない程の素早い身のこなしで、椅子から飛びすさる。 椅子が黒い影に弾かれ、食器棚に衝突した。

 犬のような動物が、四本の脚で立っていた。体調は軽く一メーターを超えているだろう。全身は灰色の毛で覆われ、ピンと耳を立ててい。興奮しているのか、口を開いて激しく呼吸を繰り返し、鋭い犬歯と真っ赤な歯茎を覗かせている。その目は鋭く、睨み付けるように部屋の隅へ移動した嶋本を見つめている。

「な、何よこの犬」

 結香はバタンと椅子を倒しながら立ち上がる。後ずさったが、椅子に足を取られて無様に転んだ。和希は恐怖で固まったまま立ち上がることも出来ず、犬を凝視していた。

 嶋本と犬がにらみ合う。犬がぐっと脚をかがめたかと思うと、エネルギーを解き放ち、嶋本に向かって飛びかかる。

 嶋本はジャンプした。中空で壁を蹴り、襲いかかる犬を飛び越えた。流しの手前で着地すると、躊躇せず窓ガラスに向かって飛び上がる。

 頭から窓に衝突した。枠ごと吹き飛ばし、外へ逃げた。

 すかさず犬は反転し、テーブルの上に乗ってジャンプする。流しに着地して、嶋本が破った窓を抜けていった。

 和希はようやく金縛りから解けて、立ち上がることが出来た。しかし、今起きたことの整理がつかず、頭の中は混乱したままだ。横には倒れたままの結香がいた。

「大丈夫か」

「うん」

 和希が手を差し出し、掴んだ結香を引き上げた。最初に目に入ったのは陥没した壁だった。位置は和希の胸辺りで、一メートルは軽く超えている。あの位置から壁を蹴って平行に飛ぶなんて、人間ではあり得ない。

 室内には強い獣の臭いが残っていた。破れた窓と、破壊されたドア。食器棚に衝突した椅子は脚が折れていた。今起きたことは現実なのかとも考えたが、残された破壊の跡は厳然と存在していた。

「お父さん」

 結香がおぼつかない足取りで、破壊されたドアの奥へ入っていった。和希も恐る恐る部屋を覗き込んだ。明かりのない部屋は薄暗く、中央に布団が敷いてあった。六畳ほどの狭い部屋だったので、そこに結香しかいないのははっきりわかる。

「お父さん、どこ行っちゃったのよ」

 結香が声を震わせながら和希をまじまじと見つめている。

「お父さんはこの部屋にいたのか」

「うん」

 戸惑いながら、部屋に入った。ここにも獣の臭いが漂っている。まさかあの犬に食われちまったんじゃないよなと思う。

「何だよこれ」

 布団の中央で、血にまみれた髪の毛が散乱していた。髪の毛に混じって、白いものが見える。和希は顔を近づけてまじまじと見る。

「これ、歯だよな」

「いったいこれ何なのよ。お父さん、どこへ行っちゃったのよ」

 和希は目が泳ぎ、パニックになり始めている結香の手を握った。結香がすがるような目で見てくる。

「落ち着こう。慌てたって、潤一やお父さんが帰ってくるわけじゃないんだし」

「うん」

 結香の目が潤み、ぽろぽろと涙が溢れてくる。

 歯の根元にピンク色の肉が付着していた。髪の毛も毛根が残っている。まるで歯と髪の毛を無理矢理引き抜かれたかのようだ。一体重光の見に何が起きたのだろうか。まさかここで誰かに拷問を受けたわけじゃあるまい。

「こんにちは」

 ドアの向こうから声が聞こえてきた。リビングへ戻ると、破れた窓から白髪頭の女性が怯えた表情で顔を覗かせていた。

「結香ちゃん、これ、どうしちゃったのよ」

「犬とおばさんが暴れたんです」

「はあ……」

 女性は疑い深げに部屋の中を見回し、和希に視線を移した。「この人誰?」

「兄の友達です。この人が暴れたんじゃないですよ」

「ふーん」女性はなおも疑い深げな顔をしていた。

「この人、隣に住んでいる酒井さん」

「初めまして、八田です」

「お父さんはどうしているの?」

 ぺこりと頭を下げる和希を無視して問いかける。

「それが……いないんです」

「ともかく、こんな状態じゃあ物騒だし、大家さんに連絡して直してもらった方がいいよ」

「そうします。お騒がせしてすいません」

 結香が頭を下げると、外から「おーい」としわがれた声が聞こえてきた。

「どうかしたの」女性が外に向かって声をかけた。

「道路で人が倒れているんだ。もしかして、大浜さんじゃないかと思ってさ」

「ええっ、ちょっと待ってよ」

 結香が靴を履いて、外へ飛び出した。和希も続いた。通路には女性と脳天が禿げた老人がいた。

「こっちこっち」

 慌てた表情で手招きをしながら小走りで進み、道路へ出た。工場がある方向に三人の男女がいて、足下に人が倒れているのが見えた。結香が老人を追い越して走り出した。和希も走る。

 男は全裸で、駐車場と道路の間で横向きに倒れていた。間違いなく結香の父親だった。目を閉じ、苦しげに眉間に皺を寄せている。肩がわずかに上下しているので、生きているのは間違いない。

「お父さん」

 結香がしゃがみ込み、父親に触れようとすると「ちょっと待って」と立っている男が言った。

「脳梗塞なんかだと、下手に動かさない方がいいよ。救急車を呼んだから、もうすぐ来るはずだよ」

「はい……」

「しかし、どうして裸なんだろうな」

「わからないです」

 父親に外傷らしき跡は確認できなかったが、ひどくやつれた顔をしている。結香は父親の肩に触れ、「お父さん」と繰り返し呟いていた。

「この人、あなたのお父さんなの?」

「はい、そうです」

 中年女性の問いかけに結香が頷いた。

「あたしたち、そこのホテルで働いているんだけど、外で犬のうなり声と何かぶつかるような音がしたんで出てきたら、この人が道に倒れていたの」

「あのうなり声、凄い迫力だったよ」

 和希もしゃがみ込むと、獣の臭いが鼻を突いてたじろいだ。結香の父親が、あの巨大な犬に変身していく様子を想像してしまう。

 救急車が到着した。隊員が結香の父親を救急車に乗せ、結香も一緒に乗りこんで走り出した。集まっていた人たちが戻っていく中、和希だけが一人取り残された。混乱した頭の中、取りあえず潤一のマンションに戻ろうと思う。鍵もかけていないし、窓も壊れたままじゃ物騒だ。

 背後から、ブーンという羽音が聞こえてきた。振り返ると、黒い鳥がホバリングをしていた。

「お前は一体何なんだよ」

 怒りにまかせて飛び上がりながら手を伸ばすが、その前に、鳥は手の届かない場所まで上昇した。

「馬鹿野郎」

 吐き捨てるように呟き、歩き出そうとするが、鳥が目の前でホバリングをし始めた。

「シッシッ、あっち行け」

 手を伸ばしても、鳥はひらりと躱してしまう。

「俺に何かさせたいのかよ」

 鳥が動き出し、巴川の堤防の上に止まると、パタパタと羽ばたいた。何かに注意を促しているような素振りだ。和希は生け垣を乗り越え、鳥の横に立った。

「なんかあるのか――」

 ふと川を見下ろすと、際の濡れたコンクリートの上に、小太りの中年女――嶋本が倒れていた。自分と目が合い、思わずたじろぐ。

「騒ぐな、他の奴らに言ったら潤一の命はない」

「わかった」

 嶋本の迫力に気圧されて、反射的に頷く。

「それと、その鳥だ。さっき俺が指示した件は継続中だ。その鳥を捕まえろ。それが出来なければ潤一を殺す」

 和希は動こうしない嶋本を訝しんだ。「あんた、怪我をしているのか?」

 嶋本の顔がわずかに歪んだ。額に汗が滲んでいる。

「そんなことより、鳥をなんとかしろ」

 鳥を見て、再び嶋本を見る。「潤一を人質に取ってまで、なんでこの鳥を捕まえたいんだ? 研究機関から逃げたとかいうのは嘘だろ」

「ああ、嘘だ。と言うより、そういうアーキテクチャだ」

「アーキテクチャ? 言っている意味がわかんないんだが」

 嶋本が訝しげに和希を見た。「お前、何にも知らないのか?」

「知らないから聞いているんだろ」

「藤が丘事件の話もか」

「藤が丘? なんだよそれ」

「おかしい、私の情報と合致しない」

 嶋本の背後で、巴川の静かな水面がわずかに盛り上がった気がした。和希の訝しげな視線に気づき、振り返る。

 はっきりと盛り上がっていると思った瞬間、水面が弾けるように爆発した。

 ヌラヌラと光沢を放つ巨大な口吻が飛び出す。上半分が黒、下は白で、魚の形をしたそれは、目に当たる部分が白く抜き出ている。

「シャチ?」

 ジャンプするように体の半分を覗かせながら、嶋本に襲いかかる。嶋本は目を大きく見開きながら立ち上がりかけたが、横に体を捻ったシャチに胴体を噛みつかれた。コンクリートの段差に乗り上げたシャチは、嶋本を咥えたまま、転がるようにして川へ落ちた。水面が破裂するような音を立てて沈んでいく。

 水面が大きく波打っている中、シャチも嶋本も川の中に沈んで見えなくなっていた。時間にして、ほんの数秒ほどだ。

「大きな音がしましたけど、何かあったんですか」

 さっき潤一の父親を発見した人たちがまた出てきた。

「シャチが現れたんです」

「ここで?」

「はい」

「あり得ない」中年男が馬鹿にしたように鼻で笑った。「北海道に行けばいるらしいけど、ここにはイルカも来やしないよ」

 周囲の人たちも中年男に同意するように頷く。和希はまだうねっている川面を見た。「でも、本当にシャチが現れたんです」

「誰か橋の上からシャチの置物でも不法投棄したんじゃないのか?」

「いや、置物なんかじゃないです」

 和希の言葉は誰も信じす、置物だろうという雰囲気になって、ホテルへ戻っていった。一人取り残された和希は、水面が赤く染まりだしたのに気づいた。鮮やかな赤が急速に広がっていく。

 これって、嶋本の血じゃないのか。

 思わずたじろぎ、生け垣に足を取られて転びそうになった。水中で、生きながら食われていく嶋本を想像し、吐き気がしてくる。

 もう一度川をのぞき込む。血はゆっくりとしたスピードで、河口へ向かって動き出していた。見たくはなかったが、血から視線が離れられない。


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