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5‐9

 千住船橋から道路へ出ると、冷たく乾いた風が吹きつけてきた。コートの裾を嬲り、頬や首元から体温を奪っていく。和希は歩きながらコートの第一ボタンを留めた。

「東京がこんなに寒いとは思わなかったわ。こんなペラペラなコートじゃなくて、ダウジャケットを着てくれば良かった」

 隣で結香が体を縮込ませながら呟く。

「しょうがないだろ、我慢しろ。十分も歩けば着くよ」

「わかってるわよ」

 二人は住宅や焦点が連なる狭い道を、足早に歩いて行った。やがて目的の病院が見えてくる。ロビーに入って受付を済ませ、三階にあるデイルームへ行った。しばらくすると、キャスターの付いた歩行器に寄りかかりながら、中年の男が入ってきた。和希と結香の姿を見つけると、ぱっと目を輝かせた。

「吉田さん。久しぶりです」

「こちらこそ久しぶりです」吉田は戸惑いの目を浮かべながら二人を見る。「和希さんと結香さん……で、いいのかな」

「それで大丈夫です」

 吉田は歩行器から離れ、ぎこちない動きで和希たちのいるテーブルへ両手を着いた。

「あ、手伝わなくても大丈夫ですよ。これもリハビリの一つでもあるんで」

 近づいた和希と結香を微笑みながら制して、椅子を引き、ゆっくりした動きで椅子に座った。

「今日はわざわざ静岡から来てくれてありがとうございます。父と母は今日、下呂温泉へ旅行に行っていますから、ゆっくりしていってください」

 吉田はぺこりと頭を下げた。

「いえいえ。俺たち、吉田さんに謝らなくちゃとずっと思っていたのに、ずっと延び延びになっちゃって、申し訳なく思っているんです」

 和希と結香も頭を下げた。

「皆さんが謝ることなんてないですよ」吉田は朗らかな笑みを浮かべた。「僕自身があの事件へ積極的に関与していったんですから」

「でも、お父さんとお母さんは激怒しているんでしょ」

「確かにそうですね。皆さんを訴えるとか言ってますけど、僕は絶対にそんな事させませんから安心してください。それに僕から言わせれば、あの経験はこれまでにないエキサイティングな経験だと思っているんです。もちろん、島名さんや小田川君が死んじゃったことは残念ですけど」

「それにしても、吉田さんがいてくれて良かったわ。吉田さんがいなかったら、あたしたち、きっとアップグレードされちゃったと思う」

「そもそもの話なんだけど、吉田さんはどうして八田に雇われたのさ」

「僕も、ずっとそこは疑問に思っていたんです。和希さんの細胞を調べて欲しいということでしたけど、別に僕じゃなくたって、仕事ができる人はいましたからねえ。僕は、本物の小田川君が手を引いて、八田さんに僕を雇わせたんじゃないかと思っているんです。ちょっと調べれば僕が小田川君を知っている上に、ヤバい性格なのはわかるはずですから」

「あっ、自分でヤバい性格なんて言っちゃったよ」

「だって、客観的に見ても、僕って空気を読まなさ過ぎでしょ」

「ノーコメント」

 和希と結香が声をそろえて発言して、三人はケラケラ笑った。

「そんな僕が和希さんたちの謎に触れたら、周りが見られなくなるほど好奇心を燃やすってわかったと思うんですよ」

「確かにそうよねえ」

「僕たち、小田川君がコーディングしたプログラムの中で、動いていたのかもしれません」

「なんだか悟ったみたいな言い方ね」

「入院中は暇ですし、これまでの人生を振り返っているんですよ。四十も越えたし、これからはもっと他人に配慮していかないとって思うんです。結婚もしなくちゃなんないし」

「吉田さん、俺が言うのもなんだけど、ずいぶん大人ぽい顔になってきたとおもうよ。かなり痩せたし」

「そうでしょ。入院してからずっとバランスのいい食事をしてきましたから。これでモテるようになったら、結婚できるかもしれません」

 吉田は声を上げて笑った。

「でも、生きていて本当に良かった。あの爆発だから、絶対だめだと思ってたわ」

「お医者さんには奇跡とか言われてますよ。車に乗ってシートベルトをしていたから、車外へ投げ出されずに済んだんですね。外にいたら、瓦礫で八つ裂きにされていましたよ。膝と腰の骨は折れましたけど、このまま順調にいけば、日常生活に支障が出るような障害は残らないと言われています。皆さんのお体は大丈夫なんですか?」

「俺たちはね」和希は結香と目を合わせて軽く頷く。「例の病気だから、一ヶ月で完全に元に戻ったよ。その後はずっと発病を抑制する薬を飲んでいるんだ」

「へえ、そんな薬があるんですねえ」

「それがよくわかんないのよ。事故のあと、政府の関係とか言ってる人たちが来て、病院を紹介されたわ。今は月に一回通院して、薬をもらっているの。その関係者から、いろんな質問をされた。小田川の件もある程度知ってたみたい」

「その人たち、僕のところへも来ましたよ」

「もしかして。陰気な顔した色白でひょろ長い奴?」

「そうそう、三角眼で気持ち悪い人でしたよねえ。藤が丘シティの爆発があくまでも事故だと報道されたのは、あの人たちが操作したんでしょうかねえ」

「そう思うよ。大手メディアは事故としか書いてないし、かと言って、SNSはエイリアンの攻撃とか、イルミナティが起こした人工地震とか、陰謀論ばっかりだし」

「このところ、政治家で急死する人が増えてるでしょ」

「ああ、そういえばこの間も国会議員が心筋梗塞で死んでるよねえ」

「三田義也。デジタル庁の副大臣ですよ。石田鹿児島市長も一月前になくなっているんです」

「鹿児島って、俺の戸籍が書き換えられた場所だよね」

「ええ。戸籍を書き換えたのはアップグレードした人たちです。僕はこの人たちがアップグレードした人で、政府の関係者に暗殺されたんじゃないかと思っているんですよ。公にすれば大変な騒ぎになりますからね。政府はこっそりと事件の収束を図っているのかもしれません。政治家はニュースで報道されますけど、公務員なんか、一般の人には知られずに死んでいるんじゃないでしょうか」

「あり得るよねえ」

 面会時間はあっという間に過ぎていった。吉田は少し寂しそうな顔をしていたが、微笑み、二人に握手を求めてきた。

「お二人とも僕なんかより大変な重荷を背負っているわけです。そんな僕が言うのも何ですけど、負けないように頑張って欲しいと思います。もう一つ付け加えさせてもらえれば、もし僕が学者へ復帰できたら、お二人を研究させて欲しいと思います。きっとお役に立てるんじゃないかと思っているんです」

「人体実験なんか嫌よ。もう動物になるなんて、まっぴらごめんだし」

「いえいえ、皆さんの細胞を、ちょこっといただくだけですから」

 吉田とはデイルームで別れた。病院を出て、再び冷たい風が吹く道を歩いて行く。


 時々、自分は誰なんだと思うときがある。戸籍上は八田和希、でも本当の名前は澤村裕樹。政府の関係者からは、真実を語っても、狂人扱いされるだけですよと言われていた。裁判を起こしても、証拠がなければ戸籍を元に戻せる可能性は極めて低い。結局、八田和希のまま生きていくしかないのだろう。

 夜、眠っていると、様々な記憶や思いが交差して眠れなくなるときがある。

 本物の父親が犯した犯罪。狼が猫の肉を切り裂き、咀嚼する生々しい感覚。馬鹿話をして笑う潤一、何かに怒って自分を責め立てる結香、いや美月か。

 そんなとき、横で寝ている結香の手を握る。結香も握り返してくれる。

 暖かな感触。それは代謝によって生じる熱でしかないのかもしれない。でも、その熱から、和希は確かな生命の感触を見いだす。

 兄妹でもない。友達でも、恋人でもない。ひょっとしたら、人間ですらないかもしれない。それでも手を繋ぎ、お互いの命を繋ぎ止めている。

 それでいいと思う。


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